確かな現実


「そうだ、さっきの人!」

 危機が完全に去ったあとで、ようやくその存在を思い出し、零夜は走ってきた方に視線を向ける。草原の闇夜を淡く照らす光の中に、彼は横たわっていた。慌てて駆け寄り、様子を見ようと傍らに膝をついたところで、男はカッと目を見開いた。


「てめえ! 強いんだったら最初からそう言え!」

「うわっごめんなさい! いや、え?」

 男の言葉の意味が分からず、零夜は素っ頓狂な声を上げる。

「あなたが、その、倒してくれたんじゃないんですか?」

「あ? 俺は炎なんか扱えん。それもあんな規模の……ったく、助け損じゃねえかよ」

「あれは俺じゃ……」

 俺じゃない。と続けようとして、自分の内に誤魔化しようのない熱がくすぶっていることにようやく気が付く。心臓が送り出す血液と共に、比喩表現などではない正真正銘の熱が、零夜の全身を駆け巡っていた。さらに言うならばあれほどの炎の中心にありながら、零夜自身は全く熱傷を負っていない事実も、また不可解だった。


「……俺、なのか?」

「なにとぼけたこと言ってんだよ……痛って!」

 立ち上がろうとしてよろけた男に駆け寄り、肩を支える。

「あークソ、肋骨折れてんな。おい、お前」男は広い草原の、とりわけ赤っぽい光が集まっている方を顎で示す。「あそこに俺の荷物がある。取ってきてくれ」

 光の方まで歩いていくと、布だか革だかの背嚢はいのうがいくつか、赤い光の粒にたかられていた。

 零夜を助けるために、慌てて放り出したのだろう。置くというよりは打ち捨てられたような格好の荷物を拾い上げ、軽く底を払う。土や草切れと共に、荷物に集まっていた光の粒たちもはたき落とされ、宙を舞う。


「これで全部ですか?」

「ああ、すまんな」

 零夜から荷物を受け取り、男は背嚢に付属していた、豆の鞘に似た形の容れ物を手に取った。中に液体が入っているようで、揺れるとぽちゃりと音がする。栓を外して中のものを飲み、はあっと吐かれた男の息に、零夜の喉が無意識にごくりと鳴った。

それに気がついたのか、あるいは元よりそのつもりだったのか、男は蓋を外したままの容れ物を零夜に差し出した。

(口つけていいのかな……)

 受け取ったものの戸惑っていると、それを遠慮と勘違いしたのか「いいって。次の水場まで、すぐだしな」と男は笑った。恐るおそる口をつける。水は思いのほか冷たい。喉を流れ落ち、全身へと染み渡るそれを、気が付けば零夜は夢中で飲み下していた。


 気の済むまで、つまりは容れ物が空になるまで飲み干してしまいたかったが、さすがに良心のブレーキが掛かる。零夜は物足りなさを押し込めつつ、飲み口を軽く手の甲で拭うと、水筒を男に返した。

「ありがとう、ございます」

 礼を言うと、男は快活な笑みを浮かべた。青白い月明かりに照らされた褐色の肌が、男のエキゾチックな印象を際立たせる。

「命の恩人になら、いくらでも分けてやるさ」

 ま、先に助けたのは俺だがな。と、男は軽口を叩く。一見して何ら苦痛を感じていないようにも見えるが、やはり折れた肋骨が痛むのか、浅くしか吸えない息が語尾をかすれさせている。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ではねーよ。あと敬語は必要ねえ」

「はい。あ、うん」

 男はもう一度水を飲み、大きく息を吐いた。口端から垂れた雫を拭いながら、無遠慮に零夜を観察する。ところどころひどく破れた血まみれの服をまとい、途方にくれた表情をしている零夜は、彼の目に非常に哀れっぽく映ったようだった。


「手ぶらみたいだが、野盗にでも襲われたか? どこに向かってたんだ?」

「えっと……」

 零夜は口ごもる。どう説明していいのか分からないし、そもそも自分が置かれている状況を全く理解できていない。

 落ち着きを取り戻した頭で順序立てて考えても、何も分からないということが分かるだけだった。覚えているのは、病院からの帰り道に、青くどろどろとした何かに呑まれたということ。そして、文字通り気が狂いそうなほどの痛みと、熱さ――。


 そこまで思い出して、零夜は自分の腹に手を当てた。火傷どころか傷ひとつない、なめらかな皮膚が指先に触れる。苦痛の片鱗は身体のどこにも残ってはいなかったが、無残に引き千切れ赤黒く染まった制服が、ここに至るまでの過程が夢ではないことを如実に物語っている。


 そしてもう一つ、重要なことを思い出した。

「理仁!」

 慌てて周囲を見渡し、その姿を探す。暗い夜の中では、目視できる範囲もたかが知れていると分かっていながら、そうせずにはいられなかった。

「もう一人、もう一人見なかった? 俺と同じくらいの年齢で、似た服装をしてて……」

 男の肩を掴み、食い気味に問う。零夜の剣幕に尋常でない様子を感じたのか、男は申し訳なさそうに首を横に振った。

「すまん、お前一人しか見てない」

「あ、いや、こっちこそごめん、急に……」


 理仁がいない。零夜は小さく呟いた。今になって、パニックの芽のようなざわついた感情が、零夜の中で頭をもたげる。

 考えられる限りの最悪の事態が、脳内を駆け巡った。理仁も、自分のように大怪我をしてしまっていたら? 理仁はまだ、このだだっ広い草原のどこかに倒れ伏し、刻一刻と死に近付いているのかもしれない。あるいは、先ほどの化け物に――


「なあ、お前。名前は?」

 悪い予感に思考を支配されかかった時、男の声が零夜を現実に引き戻した。

「俺はキヤ。キヤ・グ=タウンジーだ」

 耳慣れない響きの名前だ。キヤは人懐こい態度で、零夜にも名乗るよう促す。

「真糸、零夜……」

「マイト?」

「真糸は苗字。零夜が名前」

「レイヤか。妙な話だが、俺たちは互いが互いの命の恩人ってことだな」

 キヤが差し出した手を、零夜は戸惑いつつも握り返す。怪我をしているにもかかわらず、思わず零夜が顔をしかめてしまうほどに力強い握手だった。

「で、荷物は全部野盗に奪われたとして……探してる連れってのは女か? だとしたら気の毒だが、さらわれたかもしれんな」

「あ、いや、探しているのは男で、連れというか……」


 なんとか事情を噛み砕いて説明しようとした時、キヤが人差し指を零夜の唇にあて、黙るようにとジェスチャーをした。夜の向こうから、零夜にとってはあまり聞き慣れない、規則的な音がした。それは次第に近く大きくなる――馬の駆ける音だ。それに、人の声。

「いたぞ、あそこだ!」

 低いが、よく通る男性の声。零夜の隣で、キヤが顔をしかめて舌打ちをした。

 草原の淡い光を蹴散らしながら、馬に乗った三人の男たちが零夜とキヤを取り囲む。三人の中で最も体格の良い人物が、「動くな! ひざまずき、両手を上げろ!」と怒声を上げた。草原の淡い光の中に、零夜は自分たちに向けられた、鋭い煌めきを見た。それが何なのかすぐには理解できなかったが、馬上の男たちの姿勢からその正体を察する。零夜に向けられているもの――鋭利に輝く、矢じりの先端だ。


「何をしている、早くしろ!」

 硬直している零夜に、キヤは低い声で「言われた通りにしろ」と指示する。その声で我に返り、零夜は両手を上げて降参のポーズを取った。キヤは胸の辺りまで手を上げ、「怪我してるんだ、このくらいで勘弁してくれ」と言った。馬上の男たちは、互いに視線を交わし頷き合った。

「炎使いはどっちだ?」

 見事な髭をたたえた人物が、威圧的に訊ねる。キヤが顎で零夜を示した。男たちは馬を降り、なおも矢を向けながら零夜に近寄る。

「あの炎は、お前のイマジアか?」

「あ、あれは」

 俺じゃない、俺は知らない。などと、迂闊に言えない状況であることは理解していた。キヤのように「んなわけないだろ」と、呆れ笑い飛ばしてはくれないだろう。

「化け物に食べられて、無我夢中で……えっと、」

 慎重に言葉を選び過ぎて、必要以上にたどたどしくなってしまう。

「そうだ」

 キヤが口を挟んだ。「大型のミトラだ。俺は肋骨をやられたし、そいつは丸呑みにされた。あんたらの領内を騒がせたのは悪かったよ。でも、あの炎がなけりゃ二人とも死んでた」


 男たちの中で最も若く見える青年が、先ほど零夜が燃やし尽くした怪物の死骸を調べる。煤と化した表皮を軽く撫で、大きく開いたまま硬直した口を覗き込む。青年が拳で怪物の口内を叩くと、ついさっきまで生柔らかな生物であったとはとても思えないほど軽く乾いた音がした。

「確かに、ミトラは体内から焼かれている。丸呑みにされたというのは嘘ではないようだ」

 青年は髭の男に耳打ちをした。髭の男はしばらく考え込んでいたが、当初より幾分か敵意の消えた声で「荷物だけ調べさせてもらう」と言った。キヤは不満そうではあったが、この状況では嫌とは言えない。一人は零夜に矢を向けたまま、あとの二人が荷をほどく。


 その様子を眺めながら、零夜はただ早く終わってくれと願うばかりだった。上げっぱなしの両腕がだるくなってきている。

(こんな時、理仁だったら上手く切り抜けられるのかな)

 理仁は頭が良い。学校の成績という意味でもそうだが、地頭が良く機転が利くのだ。彼ならば、こんな状況でも零夜のようにみっともなく狼狽うろたえることなく、適切な対応ができただろう。

(理仁……無事でいてくれ……)

 今この瞬間、何もかもがもどかしかった。早く理仁の安否を確認したいのに、今は矢じりの鋭さに怯えながら、尋問が終わるのを待つことしかできない。


 そんな零夜の焦りなどつゆ知らず、男たちはじっくりと時間を掛けてキヤの荷物をあらためた。当然の流れとして零夜の荷物について尋ねられ、零夜はまたしどろもどろになりつつも、「野盗にとられた」と嘘をついた。それ以上を詮索されることはない。物盗りが出るのは、彼らにとって珍しいことではないのだろう。

「ゼーゲンガルトの間者というわけではなさそうだな」

 荷物の確認が終わり、髭の男がそう言うと、零夜に向けつがえられていた矢はようやく降ろされた。ひやり、と矢じりが白く光る。


「すまない、楽にしてくれ。最近は色々と物騒でね。我々としても、警戒せざるを得ないんだ」

 若い男が、零夜に手を差し伸べる。やや戸惑いつつも、零夜はその手を取った。男は垂れがちの目を細め、意外にも優しげな笑みを零夜に向ける。ついさっきまで殺意のこもった眼差しで、零夜に矢をつがえていた人物とはとても思えない。

 彼は零夜の次にキヤにも手を差し出す。キヤは握手を受け入れつつ、自分で名乗ったのち「こいつはレイヤ、俺の命の恩人だ」と零夜の肩を叩いた。「恩人だなんて、俺の方こそ」と困り顔の零夜の脇腹に、「ほんとのことだろ?」とキヤが繰りだした肘打ちが食い込む。

「キヤに、レイヤか。俺はバータル」

 バータルは礼儀正しく名乗り、焼け焦げた怪物の死骸を調べている男二人を指差す。

「あっちの二人はトモルとサヌーイ。アランジャ族、スチェスカうじの者だ。先ほどは失礼した。どうか気を悪くしないでほしい」

「構わんさ。よそ者を警戒するのは当然のことだ」

「詫びと言ってはなんだが、今夜のつてがなければ、我々の野営地に来ないか? 無論、きみたちが我々を信用してくれるならば、だが」

 一気に消えてなくなった緊張感に、零夜は少しばかり拍子抜けする。キヤもバータルも、この短い間に、完全に利害関係のみを構築していた。敵と見れば矢をつがえるが、そうでなければ対立する必要もない。そして対立しないのならば、敵意や不快をいつまでも引きずるほうがおかしいのだ。


「で、お前も来るだろ?」

 キヤはどうやら、彼らの野営地に泊まることにしたらしい。零夜は少し考え、首を横に振った。当然、零夜もついて来るものと思い込んでいたキヤは、怪訝そうに眉をひそめる。

「そうは言ってもお前、泊まるあてとかあるのか?」

「ない、けど……」

 零夜は辺りを見渡した。なぜだかぼうっと仄明るく光っている、幻想的な草原。軋むような身体の痛みと焦る事情さえなければ、この光景に見惚れていただろう。

「友達を、探さないと」

 絞り出すように、零夜は言った。

「俺と一緒にいたはずなんだ。どこかに倒れてるのかも。俺、残って理仁を探す」


 追い詰められた表情の零夜に、バータルは心底憐れむような目を向ける。

「……気の毒だが、この辺りには恐らく、我々以外の人間はいない」

「え?」

 足元を見るようにとバータルが促す。草丈の短い若い葉が、闇に奇妙に浮かび上がっている。指先で細い葉を掻き分けると、葉の裏におびただしい数の光の粒子が付着している。それらが青白く光り、葉のシルエットを浮かび立たせているのだった。

「発光性のミトラだ。ここに棲むものたちは人間に好意的で、人がいれば、こうして集まってよく光る」

 よく見ればキヤやバータルが立っている場所も、砂のような光の粒に彩られている。まだ怪物の死骸を調べているトモルとサヌーイの周りも、足元だけが周囲より強く光を放っている。

「これらは一度集まれば、しばらく同じ場所にとどまる。つまり人が『いた』場所も分かるんだ。見てみろ」

 バータルに促され、零夜はぐるりと視線を一周させた。化け物が暴れまわったあとの抉れた場所には光がないが、その外側の広大な草原は薄っすらと光に照らされている。影を落とすほど明るく光の粒が密集しているのは、零夜たちが立っている周囲と、これまでに歩いてきた軌跡だけだ。

「俺たちがいるここのほか、強く光っている所はどこもないだろう。つまりこの一帯には我々以外誰もいないし、誰もいなかった」

「そんな……」


 呆然とする零夜に、キヤとバータルは同情の視線を向けた。全身血と泥まみれで荷物もなく、友人ともはぐれたと言う青年。野盗に襲われて全てをうしなうなど、彼らにとってはありふれた悲劇だ。しかしありふれているからといって、同情にあたいしないわけではない。

「ひとまずは、我々と一緒に来ないか? 朝になってから探せば、手掛かりくらいは見付かるかもしれない」

 明らかな気休めでしかないバータルの言葉も、今の零夜をなぐさめるものは、それくらいしかなかった。零夜は無言で頷いて、馬を引くバータルの後に続く。怪我をしたキヤの肩を支えながら、一歩一歩、重い足を無理に動かす。



「そういえば」

 いくらか歩いた時、バータルがふと振り向いた。

「念のため訊いておきたいんだが、きみたち、歳はいくつだ?」

 なぜ今、年齢のことなど訊くのだろうと不思議に思いながらも、零夜は「十七歳だけど」と答える。続いてキヤは「十九だ」と答えた。バータルは安心したように「二人とも未成年には見えないが、念のためだ」と笑う。零夜にはその言葉の意味も表情の意味も分からなかったが、あえて訊ねる気力は、もはやなかった。

(何でもいい、夢なら早くめてくれ……)

 少し肌寒い夜の空気も、汗で不快にベタつくシャツの襟元も、何もかも、夢にしてはあまりにもリアル過ぎる。一秒ごと、零夜の心臓が脈を打つごとに、現実味が増していく気すらする。


 この奇妙な現実が始まった地点――この場所を離れてしまったら、二度と元の世界へは戻れないのではないか。無根拠な不安に襲われ振り向けば、青白い光がゆらゆらと輪郭を変えながら、歩いてきた道に幻想的な軌跡を描いていた。

「お前、随分ミトラに好かれるんだな」キヤが言う。

 みとら。何度か耳にする聞き慣れない単語を、零夜は口の中で呟いた。それに呼応するように、足元の青い光が嬉しげにちかちかとまたたいた。

「俺はどうにも、奴らには好かれなくてな。この間も……」

 雑談を続けるキヤとバータルの声が、どこか遠くに霞がかって聞こえる。


 零夜は、すっかり疲れきってしまっていた。会話には参加せず、キヤの横顔を盗み見る。褐色の肌に銀色の髪。すらりと通った鼻筋は高く、切れ長の目と相まって、見る者にさっぱりとした印象を与える。


 ――どう考えても、あの悪夢で見た男その人だ。金髪の少女と共に青いホールに現れ、理仁に似た男を止めようとして――そして溶けて死んでいった、彼。

 いったいどういうことなのか。深く考えようとして、それが困難なことに気が付く。混乱と困惑と不安と……その全てが身体に重くのし掛かり、零夜は心身共に疲弊しきっていた。

 家に帰って、温かい布団にくるまって眠りたい。そうすれば、何もかも夢になるのではないか……そんな考えに縋りたくなる。

 しかし頭のどこかで、それを否定する確信めいた何かが囁いていた。


 これは、現実だ。


 頬に当たる夜風も、靴の裏から伝わってくる、湿った青草を踏みしめる感覚も、その全てが、零夜に残酷な真実を突きつけていた。


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