一進二退


 数時間後、正午を知らせる鐘が鳴り響いた頃合いには、零夜はすっかりボロ雑巾のようにくたびれてしまっていた。「いくらなんでも軟弱すぎるだろ」と呆れるキヤに、零夜は「キヤの基準がおかしいんだよ」と反論する。

 とりわけ鍛えているわけではないとはいえ、零夜は運動が苦手というほどでは決してない。平均か平均以上の運動神経と体力は有しているはずだ。キヤの要求するレベルは、零夜の常識とそれに基づく予想を遥かに上回っていた。

 走れ、避けろ、立て、反撃しろ。キヤが放つ雷撃を敵に見立て、村にあった鍛錬用の木剣を片手に、零夜は必死でキヤの司令をこなそうとした。

 だがとにかくそのペースの速さと捌く情報量の多さについていけず、零夜はキヤの雷撃――もちろん手加減はしてあるが、短鞭で叩かれたときのようにバチリと痛い――に何度もやられた。


「そんなんで午後からどうするんだよ」というキヤの言葉に、零夜は軽く絶望的な表情を浮かべる。

「午後も……やるのか……」

「当たり前だろ。だいたい戦闘訓練なんてちゃっちゃと終わらせて、イマジアのコントロール訓練に力を入れにゃならん」

「無理……体力が持たない……」

「甘えてんじゃねえよ。ほらさっさと飯食うぞ」

 情けない姿をアリエに笑われながら、ヨロヨロと足元のおぼつかない身体を引っ張られるようにして零夜は宿へと戻る。ドアを開けると、先にテーブルについていたティエラとスジュが三人を歓迎する。


「おかえり! わあ、レイヤ兄ちゃんぼろぼろ! キヤ兄ちゃんにやられたの? ねえねえ、訓練ってどんなことした?」

 矢継ぎ早に質問してくるスジュの相手をする元気もなく、零夜は倒れ込むように椅子に座る。ねえねえねえーと好奇心の止まらないスジュに、アリエが慣れた手付きで木のカップを手渡す。愛用のカップがハタ乳で満たされていることに気が付くと、スジュはぴたりと質問攻撃をやめてカップに口をつけた。

「お二人ともお疲れ様です。いま、食事を持ってきますね」

 調理場に向かうアリエに「ありがとな」と声をかけてから、キヤは零夜の背中をバシと叩く。零夜はその力強さに抗議する気力もなく、小さく「うっ」とうめくばかりだ。

「なっさけねえなあ。女の子の前でくらいシャンとしろよな」

「そんな……キヤじゃあるまいし」

「俺はいつでもシャンとしててカッコイイだろうが。ほら水飲め、水」

 キヤに手渡された水を飲み干す。疲れは変わらないが、喉の乾きは癒える。


「ねえレイヤ兄ちゃん、キヤ兄ちゃんと戦ったの? どっちが強い?」

 ハタ乳を飲みきったスジュが、再び質問攻めを開始する。

「そりゃ俺に決まってんだろ? 俺がこいつの師匠。レイヤは弟子」

「でし? 子分ってこと?」

「子分とはちょっと違うな。まあ子分でもいいが」

「よくないよ。あのなスジュ、弟子ってのは……」

 スジュに説明するうちに、油の焼けるいい匂いが漂ってくる。間もなくアリエが焼き飯と、恐らく昨日の宴の残り物なのだろう蒸し鶏を携えて、テーブルに戻ってきた。午後からのしごきに不安を覚えつつも、まずは空腹をなんとかしようと、零夜は「いただきます」と手を合わせた。



「とにかく重要なのは、集中力と意志の力だ。俺の見立てじゃ、お前は自分のイマジアに振り回され過ぎてる」

 柔らかな草の上に両膝を立てて座り、零夜はキヤの講義に真剣に聞き入る。

「力が暴走するかも知れないとか、そういう心配は全て頭から捨てろ。自分の中にある強大な力を、屈服させてやるって気持ちでいるんだ。良いな? 支配者はお前だ」

「自分の中にある力を、屈服させる……」

 感覚が掴めずに、零夜は自信なげに呟いた。支配だとか屈服だとか、そういう言葉は零夜の好むところではない。しかし好む好まざるにかかわらず、必要ならばそうしなければならない。


「それから一番大事なのは、自分のイマジアの特性を知ることだな。例えば俺なら……」

 キヤは遠くの低木を指差してから、彼固有の呪文を唱えた。しなやかな指先から閃光が迸り、細い枝を打つ。

「俺のイマジアは雷だが……気付いてたか? 雷を『落とす』ことは出来ない」

「あ、そういえば。指から出てきたところしか見たことない」

「頑張れば、指じゃなくてもいけるんだが。これが、俺のイマジアが持つ特性だ。俺は俺を起点としてしか、雷を発生させられない」

 その説明を聞いて、零夜は考え込む。自分のイマジアの特性は何だろう。炎を纏うこともあれば、対象を直接燃え上がらせたこともあった。零夜は難しい顔で考え続けるが、キヤはそう深く追求しようとはしなかった。曰く、使っていくうちに少しずつ覚えていく癖のようなものであって、すぐにこうだと答えの出るようなものでもないらしい。


「だが特性を知っておくと制御しやすいのは確かだ。今はとにかくイマジアを使いまくって、慣れるしかねえな」

 キヤは立ち上がり、大きく両手を広げた。空に遮るものは何もなく、周りを見渡しても草原のほか建物は見当たらない。プラド村からかなり歩いた先のこの場所ならば、零夜が全力で炎を燃え上がらせても、ちょっとした騒ぎになる程度で済むだろう。キヤ自身は危険ではないのかと尋ねると、「やばそうだったら逃げる」と、何とも頼もしい答えを得た。


 零夜はその場で何度か軽く跳び、緊張に強張る身体をほぐした。空は抜けるように青い。零夜の身の内から現れる炎より、いくらか明るい青色だ。

「よし、もう一度言うぜ。力を制御できないかもしれないとか……身体を乗っ取られるかもしれないとか、そんな心配は一切捨て置け。お前が支配者だ。ほら、言ってみろ」

「……俺が、支配者」

 胸の奥がざらついた。実体の伴わない宣言に、零夜の中にある何ものかが嘲笑を浴びせているような気がした。しかし零夜は繰り返す。俺が支配者だ。


「さあ、やってみろ!」

 キヤの合図と共に、深く息を吐いた。肺を空っぽにしてから、大きく外気を吸い込む。俺が支配者だ。頭の中でもう一度繰り返してから、零夜は祝福の呪文を唱えた。

クァレ・イスタ・イムニヤ我が名をこそ讃えよ!」

 その途端、内臓が全て引っくり返ってしまうような衝撃が零夜を襲った。キヤは咄嗟に、あらかじめ掘っておいた塹壕に身を隠す。その判断は的確で、あと数秒遅れていればキヤは跡形もなく消滅していただろう。

 まさに青い爆発だった。炎はたった一瞬、零夜を中心に丸い華を開いた。凄まじい熱を孕んだ青が過ぎ去ったのち、服と髪の端っこを焦がしながら地上に顔を出したキヤは、咳き込みながら大地に伏す零夜の姿を見た。どうやら先は長いようだ。



 困難は、零夜のあとを執拗についてまわった。実のところその日、零夜をもっとも疲弊させたのは厳しい戦闘訓練やイマジア制御訓練よりも、村の中でのやりとりだった。訓練の空き時間を使って理仁の手がかりを集めようとしたのだが、手がかりどころか会話の糸口すら掴めなかったのだ。

 零夜が話しかけても、大半の村人はそそくさと視線をそらし、仕事が忙しいからと言って取り合おうとしなかった。それが逃げの口実であることは明らかで、仕事の手を休めて雑談をしている人に話しかけても、途端に彼らは仕事が忙しくなってしまうのだった。


 奇妙なことに、零夜へ向けられる目は、典型的な「部外者への忌避感」とは違ったたぐいのものであるようだった。元々顔の痣のこともあり、他人の視線が孕む感情を分類することには慣れている。嫌悪、好奇、憐憫……これまでの人生で様々な意図の視線を味わってきたが、プラド村の人々が零夜に浴びせる視線は、そのどれにも当てはまらなかった。

 異世界だからといって、人間の感情がそう大きく異なるとも思えない。その小さな違和感が、零夜には最も気味悪く感じられた。不本意ながら注目を集めやすい外見をしているからこそ、自分がどういった目で見られているのか、常に把握しておきたかった。


 しかし分からないながらも、つぶさに観察していると見えてくるものもある。根気強く情報収集を続けているうちに、どうやらプラド村の人々は、零夜に対して好意的なグループと、そうでないグループとにはっきり分かれているらしいと気が付いた。

 好意的なグループは周囲の目を気にしつつも、零夜が話しかければそれなりの対応をしてくれた。しかしそうでないグループは、返事が帰ってくればまだ良い方で、酷いときには舌打ちや、犬猫を追い払うような素っ気ない仕草をするのだった。

 奇妙な分裂の理由を一応は考えてみたが、正解が分からない以上、いくら考えを巡らせても憶測以上のものにはならない。そして分裂の基準が分からない以上、零夜を疎んでいる人物をあらかじめ避けることは困難だった。


「あの、すみません」

 井戸端に備えられた休憩所で、世間話に花を咲かせている中年女性たちに声をかけてみる。話しかけやすさから、これまで零夜は男性ばかりに声をかけていた。あるいは女性であれば、ああまで顕著な態度の差はないかも知れないという希望があった。

 しかし零夜を一瞥した女性の表情から、それが無駄な期待であったことを思い知る。

「あの、俺、しばらくこの村に滞在してて……えっと、ソーグさんの宿に泊まってます。怪しい者ではなく……」

 なぜだろうか。女性から向けられる冷淡な目は、男性から向けられるそれよりも深く鋭く、零夜の気勢を抉った。

「えっと、す、少しお聞きしたいことが……」

「いやあね、行きましょ」

 本題に入る前に、彼女らは立ち上がって零夜に背を向けた。休憩所に広げられていた小麦菓子や裁縫道具も、いつの間にやら手際よく片付けられている。


 それ以上引き止めるわけにはいかず、零夜は敗北感にまみれたまま、ふくよかな背中を見送るしかない。

「ソーグも何を考えてるのかしらね」「そうよ、子供が可哀想だわ」

「ほら、あの家、母親がいないから。そういうの分からないんでしょうね」「ほんと、気味が悪いったら……」

 ひそひそ話のつもりなのか、それとも最初から零夜に聞かせるつもりなのか、彼女たちの陰口はやけに甲高く、はっきりと零夜の耳に届く。

 傷付けることを前提に紡がれた言葉を、わざわざ最後まで聞く必要もないだろう。あちこち歩き回り、すっかり日も落ちてきた。これ以上聞き込みを続けても成果は得られそうにないし、心身共に疲弊するばかりだ。

 宿へ戻ろうと、かしましい悪意に背を向ける。

「もし異端が出たら、あの旅人のせいに違いないわよ」

 鉤爪のようなもので耳の裏を引っ掻かれたような気がして、思わず零夜は振り返った。言葉の内に悪意が満ちていることは分かる。しかし、言葉の意味が分からない。

(……?)

 しかし、まさか彼女たちに、異端とは何かなどと訊ねるわけにはいかない。振り向いたものの返す言葉もなく、零夜は耳の裏を指先で軽く掻いて、ソーグの宿へと向かった。



「おう、どうだった」

 宿に帰ると、カウンター席でくつろいでいたキヤが、挨拶代わりに進捗を尋ねる。しかし零夜の表情を見て、言葉の最後に「愚問か」と付け加えた。

 よくあることだ、とキヤは言う。アランジャ族の営地では零夜もキヤも歓迎されたが、それはアランジャ族特有の、もてなしの価値観があったためだ。


 イグ・ムヮでは、魂はもちろん禍福までが風に乗って草原中を循環するのだという「循環思想」が信じられている。良い行ないをすれば良い風が吹き、悪い行ないをすれば悪い風が吹く。その循環の中で、イグ・ムヮの外部から訪れる旅人は重要な存在だ。

 旅人は全くの別世界から来るゆえに、良いものでも悪いものでもない――無垢の存在とされる。ゆえに、旅人に対して良い行ないをすれば、旅人は良い存在へと変貌し、イグ・ムヮに良いものをもたらす。旅人が去ったあとも、旅人の残した「良いもの」は循環の中に組み込まれ、イグ・ムヮを巡り続ける。

 アランジャ族の「歓迎」の習慣は、そういった価値観に根付いたものだ。それをあちこちで期待する方が間違っている。キヤはそう説明した。


「まあ、そう気落ちすんなって。そんな気張って探さなくてもさ、予言だと、そのうち会えるんだろ? 焦ったって仕方ねえさ」

 それは重々分かってはいるが、動かずにはいられないのが人情というものだ。零夜は「まあね」と適当に返事をしながら、キヤの隣の席に座る。

 聞き込みの中であったことをかいつまんで話すと、キヤは「ふうん」とさして興味もなさそうに相槌を打った。冷遇に同調することもなく、憤慨することもない。零夜には、その乾いた反応がありがたかった。


「やっぱりキヤが言った通り、おとなしく待ってた方が良いのかも」

「そうそう。その分の時間を訓練にあてた方が有意義だぜ」

「それもそうか。あ、そういえば、もうひとつ聞きたいんだけど……キヤは、異端って何のことか分かる?」

 ウグッと低いくぐもった声を出して、キヤがむせた。背中をさすろうと伸ばされた零夜の手を断り、水差しから直接水を飲む。二度、三度喉仏を上下させ、キヤは大きく息をついた。口の端を垂れた水を手の甲で拭き、「馬鹿っ!」と小声で悪態をつきながら、それなりの強さで零夜の頭を叩く。

「子供のいる所で、なんてこと口にしてんだ!」

 キヤの紅い瞳は、同じ部屋にいるアリエやスジュへと素早く向けられた。二人とも各々の仕事に気を取られており、今しがた零夜が発した忌まわしい単語には気付いていない。

「……つーか、お前……」

 ひと呼吸遅れて、キヤは据えた目で零夜を睨む。

「異端を知らないのか……」

 それは、対面して座っている零夜ですら耳を澄まさなければ聞こえないほど、小さな呟きだった。


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