凶兆の波紋


 異端というものが何なのかを知らない。それがこの世界においてどれほど異常なことなのか、親しい人々の反応から零夜は嫌というほど思い知ることとなった。ソーグとカルムは絶句したし、ティエラは疑うような厳しい視線を零夜に向ける。

「でも、そっか……レイヤは記憶が穴ぼこなんだもんね」

 零夜を傷付けないように言葉を選びながらも、ティエラの声には疑念と驚愕がありありと滲んでいた。異端を知らないなどということが、本当にあり得るのか? もしかしたら、嘘をついているのではないか。そんなふうに考えていることは明白だ。

(しょうがないだろ、異世界人なんだから)

 零夜は内心で拗ねながらも、これはただ事ではないらしいと察し「教えてほしい」と素直に頭を下げる。しかし零夜が教えを請うまでもなく、キヤもカルムもティエラも、異端とは何であるかを無理にでも零夜に聞かせるつもりらしかった。

「明日はお前、訓練に出る前に話をするぞ。良いな?」

 キヤの言葉に、零夜はもちろん素直にうなずく。普段は豪放磊落なキヤが、怒りにも似た表情を滲ませている。それほどまでに、この「無知」は許されざることなのだった。



 翌日――昨日と同じように顔を洗い、昨日と同じように朝食をとる。そして昨日とは違い訓練には出ずに、零夜は食堂の一番奥のテーブルをより隅に寄せた。

 席についたのは零夜のほか、ティエラとカルム、そしてキヤ。ティエラは話を始める前に、わざわざ子供たちにおつかいを頼んだ。ソーグは日中は畑仕事に出ているので、宿には零夜たちのほか誰もいなくなる。

「あんまり、みんながいるところで話すようなことじゃないから」とティエラは言う。「特に、子供たちには聞かせたくないの」


 ひとけのなくなった空間に、ティエラが重い呼気の塊を吐いた。視線は落ち着きなく動き回り、宿の入り口や窓、階段や天井板を確認する。まるで今まさにそこに何かが潜んでいて、自分たちの会話に耳をそばだてているのだと言わんばかりだ。

 厚い雲が空を覆っている。いつも風が強く、晴れの日が多いこの地域にしては珍しいほどの薄暗い午前だった。

「しっかし……お前、異端のことも知らなかったのか。そりゃ始めに話しておくべきだったな」

 頬杖をついたまま、キヤが改めて言った。彼は異端に対して、ティエラほどの恐怖を抱いていないようだった。その温度差には誰もが気付いており、キヤは「俺から話そうか?」とティエラを気づかう。ティエラはそっと首を横に振って「大丈夫よ」と気丈に言った。


「神話のことは分かるよね? 生の女神と死の女神が、戦争をしたこと」

 零夜が頷くと、ティエラはそのまま話を続ける。

「戦争に負けた死の女神ギーヴェリは、深い海の底へ封印されたわ。でも、完全に消滅したわけじゃない。今でもギーヴェリは、生の女神メシエ・トリドゥーヴァの楽園を崩壊させようと、暗くて冷たい深海からその機会をずっと窺っているの。

 海の底に封印されて、身動きの取れない死の女神が、自分の代わりとして地上へ送り込むのが『異端』という存在。異端っていうのは『ギーヴェリの子供たち』……と言われているわ」

 暗い海の底から、異形の化け物が上がってくるさまを想像し、零夜は背筋がぞくぞくするのを感じた。零夜の想像の中で、それらはゾンビのように腐って溶けた体を引きずって、波打ち際を這いずり回る。まるで典型的なホラー映画の光景だった。

「その『ギーヴェリの子供たち』が海からやってきて、人間を襲う?」

「それだったら、まだましなんだけどね。違うのよ」

 零夜の想像は、あっさりと打ち砕かれる。しかしその代わりに突きつけられた現実は、ゾンビ映画よりもよほど残酷で救い難い。

「普通の子がギーヴェリに魅入られて、異端になるの。両親に愛されて、友達や兄弟たちと遊んで、笑って、幸せに暮らしてる……普通の子供。そんな子供が、ある日突然、『ギーヴェリの子供』……異端になってしまうの。一度異端になってしまったら、もう人間には戻れない。その子は周りにいる人間を、見境なく……」


 それ以上の言葉は、待てども紡がれることはなかった。しかし察することはできる。死の女神に魅入られ、千の命を滅ぼす存在となった子供が、どういった行動に走るのか。

「普通の子供が異端になるって……例えば、アリエとか、スジュも?」

「そうね」

「アランジャの……リツハとか、テテイとか、……ユーイも?」

「可能性は充分にあるわ。アランジャの営地にもこの村にも、大抵の集落には、異端を検知する特殊な石があるの。プラド村だと、あの大きな教会。あそこにあるのよ。毎日それを確認することになってる。もし誰かが異端になっていたら、それで分かるから」

「そんな……そんなこと、知らなかった……」

 説明を聞いてなお、異端というものの詳細が想像できなかった。零夜によくなついていた、アランジャの子供たち。アリエやスジュ。彼らが一体どういうふうに、「千の命を滅ぼす存在」となるのだろう。

 殺戮というものは、彼らには最も縁のない概念に思えた。子供たちの無邪気な心が、など、本当にあるのだろうか?


 しかし、信じられないという顔をしているのは零夜だけだった。そもそも、いくら信じられないと零夜が思ったところで、この場にいる全員の表情が、異端というものの存在を裏付けている。

 程度の差はあれど、恐怖と嫌悪に塗りつぶされた表情。あのカルムですら、薄っすらとした緊張に唇を引き結んでいる。

「異端って、どれくらいの頻度で……出るの?」

 零夜が尋ねると、ティエラは視線を彷徨わせる。

「アランジャ族のスチェスカうじ、及びハルナーン氏の集落では、ここ二十年は異端の発生はありません」

 答えたのはカルムだった。

「他の氏族しぞくだと……リフ氏、キルケリト氏でも異端の発生は長年ないようです。トルニャク氏では確か十五年ほど前に一人、サムリヤ氏ではここ十年の間に立て続けに三人出ていますね」

 つまり、子供が異端となる頻度はまちまちだということだ。今しがた聞かされたことの意味を理解するにつれ、零夜は自分の鼓動が徐々に騒がしくなっていくことに気が付いていた。重い鉛が胃の辺りに溜まり、呼吸と脈拍を圧迫している。苦しさから、歯を食いしばったままわずかに口を開く。


 この世界には、零夜の知らないことが多くある。ミトラという不可思議な生き物。イマジアという未知の力。それらに触れるたびに零夜はとまどい、しかし「そういうもの」として受け入れてきた。

 アニメや漫画、映画やゲーム。架空に慣らされた零夜にとって、例えばミトラはモンスター、イマジアは魔法……そういった既知の概念に当てはめて理解することは容易だった。「異端」はどうだろう。零夜の知識に強いて当てはめるとしたら……

「……死の女神ギーヴェリの呪い」

 零夜の呟きを、誰も否定しなかった。鉛の塊は、今やみぞおちから喉の辺りまで上がってきていた。低い耳鳴りがうるさい。


「あのさ」

 零夜は思い切って、最も重要な――それでいて最も聞きたくないことを尋ねる。

「異端って、俺もなったりするのかな」

 ティエラは、異端を「ギーヴェリの子供たち」と言った。その「子供」の中に零夜も含まれるのか。それが気掛かりだった。

「お前は大丈夫だろ」

 どんな過酷な答えが返ってきても受け入れる。そんな零夜の覚悟をよそに、不安は思いのほかあっさりと否定される。答えたキヤの視線が、素早く宿の入り口へ注がれる。アリエもスジュも、まだ帰ってくる気配はない。

「一番危ないのは十三歳以下の子供だ。十五を過ぎて異端になった例は、一例もないと言われてる。お前、十七って言ったろ。仮にお前の記憶があやふやであてにならんとしても、さすがに十五歳以下には見えんからな、心配すんな」

「十五歳……じゃあ、大丈夫だ」

 零夜が心配しているのは、なにも自分の身だけではない。この世界のどこかにいるはずの理仁りひと。零夜と同じく十七の彼の身に、ギーヴェリの呪いが迫ることはない。零夜はほっと安堵の息を吐いた。


「ほっ。じゃねーんだよ」

 キヤの拳が零夜の肩を小突いた。こんな話題のときに、身内のことばかりを考えて安心したことを咎められた……そう思った零夜の考えは、それすら的外れだった。「お前さ」とキヤが言う。

「この村の奴らに、何て言われたって?」

「え? あ、そうだ。もし異端が出たら、俺の……せい……」

 ……この村に、異端?

 思わずティエラを見ると、彼女は青いまつげを伏せ、固く目を閉じていた。キヤもまた、こちらは咎めるような目でティエラを睨んでいる。

「あんたたちの遠見で分かってたのか? この村の子供たちが異端になるってこと。分かってて、黙ってるのか?」

 ティエラは力なく首を横に振り、テーブルの上に置いた両手を握りしめた。

「まだはっきりは視えてないの。でも、日に日にギーヴェリの影が濃くなってきてる。村長さんやお役所の人たちには警告してあるから、噂はとっくに回ってると思う。この村に暮らす子供たちのうち、誰かが……」

 全員が黙りこくった。その沈黙の中に、子供の笑い声が遠く割り込む。どうやらアリエとスジュが近くまで帰ってきたらしい。いつもならば頬に笑みをもたらすはずのはしゃぎ声が、今は鉄釘のように胸に突き刺さる。


「それってやっぱり、……俺のせいなのか?」

 恐る恐る尋ねると、「違う!」とティエラが真っ先に否定した。

「みんな不安になってるんだと思う。だからそんな酷いこと言うの。でも、誰かが異端になることに、責任も何もないのよ。逃れようのない……死と同じものなんだから」

「でも、村の人たちは、俺のせいだって思ってるみたいだった」

 あの中年女性たちの、刺すような視線がいまだ零夜にまとわりついている。彼女たちにとっては、零夜だけでなくキヤも同じ異邦人であるはずだ。それなのに、零夜にのみ向けられるあの視線……。

(この痣があるから?)

 考えないようにしていた想定が、ついに明確な形となって零夜の思考を支配した。見た目の異質さというものは、人間の心に驚くほど濃い不審を残す。平時ならばそれは、ただの不審で済むだろう。しかしそこに何かしらの不安要素が加わったとき、不審は不信となり、忌避は排除に変化する。

「……レイヤ」

 ティエラの指先が、零夜の右手に触れた。零夜はまた無意識に、顔面の痣を押さえてしまっていた。

 いたずらを咎められた子供が、咄嗟に悪事を隠そうとするように……零夜は慌てて右手をテーブルの上に置いた。ティエラから向けられる、弱いものを憐れむような視線が、嫌でたまらなかった。


 重い沈黙が息を詰まらせる室内に、とうとう陽気な気配が飛び込んだ。宿の入り口のドアが開き、子供たちが帰ってきたのだ。

「ただいまー。ちゃんとおつかいできたよ!」

 スジュが小さな身体を目一杯に使ってティエラに飛びついた。ティエラは膝の上に彼を受け止め、「美味しいの買えた?」と尋ねる。彼女の顔に、先ほどまでの憂いは残っていない。自分が抱いている不安も恐怖も、その一切を子供たちには見せたくない――スジュを見下ろす慈愛の瞳に、零夜は彼女の強さを見る。

「ちゃんと美味しそうなパンを選んで買ったんだよ。見て見てー」

 スジュは得意げに、手に持っていた籠をテーブルの上に置いた。中には、いつも食卓に並ぶ平パンより白くて丸い、手のひらサイズのパンが積まれている。

「これはクルミが入っているもので、これはチーズが入ってるものです。それからこっちは……」

 遅れて帰ってきたアリエがパンの種類について説明するのを聞きながら、席についていた大人たちは互いに目配せをし合った。子供たちが帰ってきた以上、異端の話を続けるわけにはいかない。

 もっとも、良いタイミングだったとも言える。部屋の中には、もはや誤魔化しようのないほど陰惨な気配が立ち込めていた。これでは、誰もが口を開くたびに気を重くするばかりだっただろう。


「さ、ちょっと早めのお昼にしましょう」

 しつこく居座る陰気を振り払うように、ティエラが明るく言う。子供たちにも菓子パンをあげると言うと、アリエもスジュも手を叩いて喜んだ。その笑い声はまさしく清涼剤であり、薄暗い室内を照らす光だった。

「じゃあスジュ、食器を用意して。私はミルクを持ってくるから」

「あ、私も手伝うよ」

 ティエラとアリエが連れ立って裏口へ向かう。今朝絞りたてのハタ乳が詰まった陶器瓶は、女性二人の力でどうにかするには少し重すぎるのではないか。そう気を回した零夜は「俺も行ってくる」と言って二人の後を追った。



 零夜の気配が完全に消えてしまってから、キヤはやはり頬杖をついたままカルムを仰いだ。穏やかな表情の、その向こうにあるものを見透かそうとするような視線を、盲目とはいえカルムも感じていただろう。

「実際のとこどうなんだ? あんたが予知した凶兆ってのは、異端か?」

 カルムは一瞬面食らったように眉を上げ、そしていつもの微笑みをたたえた。

「まるで遠見ですね。そういった勘は、やはり旅の中で研ぎ澄まされていくものですか?」

「事によっちゃあ死活問題だからな。で、話を逸らすなよ」


 視覚による威圧は意味がないと分かってはいつつ、キヤはカルムを睨みつけたまま人差し指を向ける。台所では、棚の高い場所にある食器を無理に取ろうとして、スジュがガチャガチャとやかましい音を立てている。

「ティエラが怯えるのは分かる。生まれて初めて異端に遭遇するかも知れないわけだ。そりゃ怖いだろう。だがあんたはティエラよりずっと歳上だし、アランジャ族の要職だ。さっきの口振りからしても、異端騒ぎは初めてじゃないんだろ?」

「そうですね。十五年前、トルニャク氏に異端の子供が発生したときは私も対応にあたりました」

「だったら、なぜそんなに慎重になってる? あんたは一体、何に怯えてるんだ?」

 カルムは、見えない目を薄っすらと開いた。もはや彼の頬から微笑は消え失せ、濁った水晶体の内側には強い警戒心があらわれている。


「……凶兆の波紋が、あまりに大きすぎるのです。不穏の影は今や、ここプラド村だけではなくイグ・ムヮ全体を覆うほどの大きな渦になりつつあります。もしこれが異端の予兆だとしても……ただの異端騒ぎでは済まないでしょう。そして、これは私の個人的な見解ですが……渦の中心にいるのは恐らく、レイヤくんです」

「……」

「意図的なものではないのでしょうし、悪意もないのでしょう。けれど、彼はあまりに……異質すぎる。彼はなのです。彼という存在そのものが、この地にひずみを生んでいるのではないかと……私は、考えています」

「……そうか」

 キヤが長い溜息を吐いた。頬杖をついていた手は脱力し、そのままずるずるとテーブルに突っ伏す。

「それ、ティエラには話したのか?」

「いいえ。まだ憶測の域を出ませんから」

「面倒くせえなー」

 がしがしと頭を掻きながら、それでも声は抑えて、キヤはぼやいた。それとほぼ同時に、ようやく目当ての皿を取ったスジュが歓喜の声を上げた。

 重い大皿を両手でしっかりと持ち、スジュはテーブルの方へ戻ってくる。そしてテーブルの上に伏せているキヤを見て、不思議そうに顔を覗き込んだ。

「キヤお兄ちゃん、なにしてるの?」

「んー、……寝てる」

「あはは、変なの! テーブルで寝ちゃ駄目なんだよー!」

 小さな手が、キヤの銀色の髪を叩くように撫でた。


 それからスジュは、キヤの肩口をささやかな力で引っ張って彼を起こし(キヤは、さもスジュの怪力によって無理矢理起こされたかのような演技を忘れなかった)、大皿にパンを並べた。クルミ入り、チーズ入り。糖蜜がかかったもの、食用花に彩られたもの。様々な顔を持つパンたちが、互いに重ならないように大皿に身を寄せ合う。

「スジュ、お前盛り付けのセンスあるなあ。それにしても、あいつら遅いな。ちょっと見てきてくれるか?」

 キヤが裏口を指差すと、スジュは「ぼく力持ちだから、手伝ってくるね!」と得意げに駆けていった。


「キヤくんは」

 大皿のふちを指でなぞりながら、カルムが言う。

「なぜレイヤくんと行動を共にするのですか? あなたなら彼の持つ異質さと、その危険性は分かっているでしょうに」

「んー」

 キヤは大皿から、桃色の食用花が並んだパンを掠め取る。蜜のかかった白パンは、いつも食卓に並ぶ平パンよりずっと甘く柔らかい。

「まあ……長期的戦略を視野に入れて、かな」

 パンを齧りながら、キヤは不敵な笑みを浮かべた。


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