今は遠き瑠璃の光【一】


「すげえ、五十回」

 背後に声を聞き、零夜は驚いてボールを取り落とした。固く空気を詰め込まれたサッカーボールが、目の前を跳ねて転がっていく。「あっ、ごめん」と、背後の声が言った。

 そこでようやく零夜は振り向いた。知らない男の子が立っている。零夜は慌てて、斜めにずれて落ちかけていたキャップ帽を、深くかぶりなおす。


「最高で何回、できたことある?」

 さっきまで零夜が打ち込んでいた、リフティングのことを言っているのだろう。零夜は視線をさまよわせながら「わ、わかんない」と呟いた。その声は会話に適さないほどに小さく、よく聞こえなかったのか、男の子は零夜の方へ何歩か距離を詰める。

「おれよりうまいよ、絶対」

「そ、」

 そうかな。と言いたかったのか、そんなことない。と言いたかったのか、零夜には分からなかった。零夜はとにかく、突然現れたこの男の子が誰なのか、そのことを考えるのに必死だった。


 この子と会ったことがあったっけ。同じクラスの子ではない。そもそも、ここは学校ではないのだから、同じ学校の子ですらない可能性もある。そうしたら、この子は全く知らない子だ。やけに親しげだけれど、全然知らない子。誰だろう。



 うつむいたまま黙りこくっていると、そんな零夜の心中に気が付いたのか、男の子は「おれ、るりさわ」と言った。

「るりさわ君」

「うん。るりさわ、りひと。そっちは?」

「ま、まい、と、れいや、です」

「れいや。すっげえリフティングうまいな。俺にもボールかして」

 零夜の返事を待たずに、「るりさわ君」は転がっていったボールを拾い、空に向かって蹴り上げた。リフティングをしながら戻ってくる、その動きは軽快で、零夜はじっとそれに見入った。


「るりさわ君」の動きは、確かに零夜よりもいくらかぎこちない。零夜は、ここのところずっと一人で練習をしている甲斐もあって、リフティングに関してはちびっこサッカークラブの子とも張り合えるほどだった。

 もっとも、張り合ったことなどは一度もない。サッカーはリフティングの上手さだけで決まるのではないことを、零夜はよく分かっていたし、それに、誰かに見られていたら、零夜はいつだってすぐにボールを落とすのだ。


 白と黒のボールが描くアーチを、零夜は眩しそうに目を細めて追いかけた。ボールは同じ軌道を描くことなく、あっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しい。拙いリフティング。それでも、サッカーの試合になったら、自分より「るりさわ君」の方がずっと上手いのだろう、と零夜は思う。

 きっとこの子は臆さず走り、声を出してパスを求め、シュートを打って、チームの中心で笑う。零夜とは違って。



 リフティング回数を声に出して数えながら、時々零夜に視線を送って「どうだ」と笑う男の子。零夜はキャップのつばの下から、彼と目が合わないように気を付けながら、一緒にリフティング回数を数えた。


 幼い少年の声が重なり合う。五十に届かないうちに、サッカーボールは明後日の方向へ飛んで行った。

「るりさわ君」は「あー、おっしい!」と悔しがりながら、けらけら笑っていた。


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【第3章開始!】不可説のミトラ 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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