二人目の審問官


 ばちん、と大きな音を立てて、イマジア抑制効果のある拘束具が弾け飛んだ。「うわっ」と緊張感のない声を上げて、役人の男が飛びのく。

「何だ?」

 戒めが解かれたのだと彼が理解したときには、零夜は既に、自由になった腕を宙に伸ばしていた。

 ダンニールが息を飲む。青い炎が、小さな爆発を伴いながら零夜の体を覆う。狭い尋問部屋に熱を伴った暴風が巻き起こり、ダンニールと、役人の男を吹き飛ばした。

「こ、こいつ……!」

 ダンニールは、いくらかよろめきながらも素早く立ち上がって腰の剣を抜き、床に付したままの零夜に突きつけた。ダンニールの髪は焦げ、焼けた服の隙間から赤く焼けた肩が覗いている。一瞬の熱は命を奪うほどの脅威とはならずとも、少なからず彼の肉体を傷つけたようだ。

「貴様……とうとう本性を現したな」

 敵意と剣とを向けられながらも、零夜は不思議と冷静だった。ついさっきまで痛みに悶え泣き叫んでいたというのに、今は呼吸すら落ち着いている。


 ダンニールが零夜の背後にいる男に目配せをした。男はダンニールに倣い、腰の短剣を抜く。

 その一挙手一投足を、零夜は文字通り空気で感じ取っていた。熱をまとった空気の揺らめきが、零夜の第六の感覚として機能している。この部屋にいる全員の、呼吸やまばたきの気配すら、今の零夜には鮮明に感じ取ることができる。

 今、男が短剣を構えた。右足を前に出した。短剣を持った手が突き出された、そのタイミングで零夜は身をかわす。標的を失った切っ先が宙をさまよった。零夜が掌を振り下ろすと、男はあっさりと剣を取り落とす。「何をやってる!」とダンニールが怒鳴った。


 その怒声を聞きながら、零夜は無事な方の腕を伸ばし、床に落ちた短剣を拾い上げた。キヤからもらった剣ほどではないが、それなりの重さが掌の中で存在を主張する。熱された空気が揺らめき、ダンニールの剣先が自分に迫っていることを知った。そちらを見る必要すらない。零夜は足元に視線を落としたまま、拾ったばかりの短剣を振りぬいた。


 ふたつの剣先が触れ合う。金属が砕ける、高く耳障りな音がした。

「まさか……そんな」

 決して脆い剣ではない。ダンニールが普段から佩いている剣は、むしろこの地域ではかなり上等な部類に入るものだ。それが、あっさりと欠けていた。刃こぼれというより、剣先そのものがぼろりと大きく崩れている。


 ダンニールは目を見開いて、対する零夜の短剣を見た。零夜の持つ短剣は、ダンニールの剣よりも質で劣るはずである。まさか、あんなおもちゃと切り結んで負けるはずがない。震えるダンニールの目に映ったのは、剣というよりも炎の刃だった。

 青い炎が、短剣を覆うように燃えている。ダンニールの剣は、あの炎と切り合ったのだ。そして、負けた。

「そこをどいてくれ」

 零夜が静かに言った。

「できれば……傷つけたくない」

 一瞬、ダンニールは激高しかけた。ふざけるな、と叫ぼうとした。それが実際の行動として噴出しなかったのは、彼の意に反して体が動かなかったためだ。ダンニールは――彼自身はそのことを決して認めようとはしないが、いまや、目の前の少年に怯えている。


 この少年は、何かがおかしい。あの炎。揺らめく熱い風。

 化け物。少年を揶揄する意味で使った言葉が、今さらになってダンニールの背に這いよってくる。この少年は……本当に人間なのか?


 ダンニールの部下の男が、無言のまま床に座り込んだ。戦う意思がないことの表明なのか、単純に腰が抜けたのかは分からない。しかし、もはや零夜の邪魔にはならない。零夜はそちらを見ないままにそのことを確認し、纏う熱の先をダンニールへと向けた。ダンニールの皮膚に、汗が浮かんでは流れていく。

「傷つけたくないんだ」

 零夜は、先ほどと同じことを繰り返した。

「人間に向けて使うのは初めてだから……加減ができるか、分からない」

 その言葉で、ダンニールの頭の中の糸が、ぶつりと切れた。

「やってみろ!」

 つばを飛ばしながら怒鳴り、欠けた剣を零夜に向ける。声も動作も戦慄わなないているが、両足はしっかりと床を捉えている。

「見くびるなよ。この……化け物が!」

 恐怖しつつも強い覚悟を決めた空色の瞳が、脅し文句だけではこの場を突破できないことを零夜に知らしめる。そしてそれが分かった以上、次に怯むのは零夜の番だった。


 ここまでやって戦意を喪失させられないならば、あとは実力行使しかない。しかし「傷つけたくない」と言った零夜の言葉は、切実なほどに嘘ではなかった。

 あの熱、あの炎を一度使役してしまえば、どう使おうと相手に怪我をさせてしまう。今も、ただ力を解放したその余波だけで、ダンニールに火傷を負わせてしまった。正面切って戦うとなれば、あんな火傷では済まない。

 殺さなければならない。人間を。


 零夜とダンニール。それぞれがそれぞれの恐怖と闘いながら、睨み合う。どちらが先に動くにせよ、それが取り返しのつかない戦闘の発端になるであろうことは明白だった。

 誰も、何も音を立てない。地下にあるこの尋問部屋は、地上の喧騒すらわずかも受け付けない。



 張り詰めた沈黙は、しかし永遠には続かなかった。

 扉の向こうから音が聞こえる。人の話し声と、誰かの足音。大きな音を立てて尋問部屋の扉が開くと、ダンニールは体を痙攣させるようにして顔を上げ、扉の方を見た。零夜もまた、体を跳ねさせて後ずさった。


「……なんだ、取込み中か?」

 入って来た人物の、あまりに間の抜けたその言葉に、場を満たしていた緊張が一瞬にして溶解した。

 長身恵体のその男は、部屋の中をじっくりと見回したあとで、困ったように肩をすくめた。零夜とダンニール、両者が構える刃先の光る剣も、もちろん目に入っていただろう。しかし意にも介さずに、「まあ落ち着けよ」と右手を上げる。


 途端、零夜は手に持っていた短剣を取り落とした。柄を握っていた手が緩んだわけではない。ただ短剣は嘘のように指の間をすり抜け、床に転がった。

 武装解除されたことに一拍遅れて気が付き、零夜は慌てて短剣を拾おうとする。「やめとけ、やめとけ」と、軽い調子で発されたその言葉に、威圧や嘲笑のたぐいは全く含まれていなかった。

「よく見ろ。その剣はもう限界だ」

 促されて、零夜は落ちた短剣を見る。まとった炎の熱に耐えかねたのだろう、金属までもが黒く酸化しており、それはもはや剣の形をした炭だった。


「な、落ち着けって言っただろう?」

 笑いながらそう言う男の胸に、煌めく宝石が見えた。マントの留め具の真ん中に、雫型の石が光っている。

 あの忌まわしい異端審問の場で、あれと似たものを見た記憶があった。異端を判別するための特別な石、審判石アビト・ストーン。シースの持っていた石は藍色だったが、彼の胸に輝くのは血のように赤い石だ。

「異端審問官……」

 零夜が呟くと、彼は切れ長の目を細めて笑った。



「ベルメリオ様……! なぜ、このようなところに……」

 恐縮しながらも、ダンニールの声には明らかに勝ち誇ったような調子が含まれていた。異端審問官が来たからには、零夜がどう抵抗しようと怖くはない。そう考えていることが誰の目にも分かった。

「おう」

 異端審問官の男――ベルメリオは、頭を下げるダンニールに気さくな挨拶をし、呆然と立ち尽くしている零夜に視線を向ける。そして、「ちょっと困ったことになった」とばかりに、軽く片眉を下げた。


「随分と痛めつけたようだな」

「はっ……プラド村襲撃、ひいては異端の発生に関与した可能性のある者ですので、何としてでも情報を聞き出さねばと……」

「そうか、ご苦労だったな。だが、ここまでだ」

「は……?」

 ダンニールが垂れていた顔を上げると、ベルメリオは一見して人の好さそうな笑みをダンニールに、そして零夜に向けた。

「この男は無実だ。俺の方で確認が取れている」

「し、しかし……」

「確認が」

 有無を言わせぬ声色だった。

「取れたんだ。分かったな?」

 消え入りそうな声で「はい」と言ったダンニールに満足し、ベルメリオは改めて零夜に視線を落とす。「ひどいな」と呟いて、何か思案するように顎髭をなでつける。


「取り合えずは治療だな。いや、その前に水でも飲んだ方が良いか」

「あ、えっと……」

 唐突に現れたベルメリオに対して、どういった態度を取るべきか零夜が考えあぐねているうちに、ベルメリオはさっさと話を進めてしまう。

 何か問いかける間もないうちに、さっきまで零夜の爪を剥がしていた役人の男は、零夜のために飲用水を取りに走っていった。ダンニールは、しばらく愕然として声も出ない様子だったが、ベルメリオに何事かを指示されると、ふらふらとした足取りで部屋の外へと出ていった。



「さて……一応確認しておくが、レイヤ・マイトで間違いないな?」

 零夜がわずかにうなずくと、ベルメリオは「よし」と微笑んだ。切れ長の目、金色の瞳が蛇のように零夜を絡め取る。彼の持つ審判石アビト・ストーンと同じ色、赤い髪が鉱石灯の光を受けて、燃えるように薄闇に浮かび上がっている。


「話したいことがある。良いな?」

 有無を言わさぬ口調だった。彼の思惑が何であるにせよ、首を横に振る選択肢は零夜にはない。戦わずしてこの尋問室を出られるならば、それ以上に良いことはないのだ。たとえそれが、性質の異なる別の戦いの始まりなのだとしても、ここは受けて立つべき場面だった。

 零夜がもう一度、さっきよりもはっきりとうなずくと、ベルメリオは「場所を変えよう」と顎で部屋の外を示した。「まず、その痛々しい指を何とかしないとな」


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