深海の気配


 濃い藍に沈んだ村。アカリカズラの橙色の光が、村の入り口から教会まで続く大通りを縁取っている。キヤに肩を叩かれ、零夜はようやく呆然の淵から呼び戻された。

「キヤ、今の音って……」

「良いから中に入れ」

 鐘塔から目を離せずにいる零夜を引きずるようにして、キヤは宿の入り口をくぐる。一階の食堂には、青い顔をしたソーグと子供たちのほか、誰も居なかった。ソーグは零夜たちを一瞥もせず、両腕に子供たちの細い身体を抱いて、じっと食堂の壁を見つめている。その視線の先に、何か恐ろしい怪物でも見ているような形相で。

「お父さん……」

 不安げに呟いたアリエとスジュを、ソーグは腕の中に隠してしまうように抱きしめる。間もなく大通りの方から、けたたましい警鐘の音と、「子供を教会へ集めろ」という怒声が聞こえてきた。よく日焼けした逞しい腕で、ソーグはもう一度、幼い子らを抱きしめた。



 村の子供たちは速やかに教会前の広場へと集められた。村中の明かりという明かりが広場を照らし、子供たちの青白い顔を闇に浮かび上がらせる。アリエやスジュも例外ではなく、ふっくらとした頬に恐怖と不安を浮かべ、暖色の明かりの中に立っている。

 意外と落ち着いているんだな。それが「異端騒ぎ」に対する、零夜の第一印象だった。誰かが泣き叫んだり、暴れたり殺されたりなどという混乱はなく、事務的な対応が粛々となされるばかりだ。

 それをキヤに言うと「まだ『共鳴』の段階だからな」と答えた。

「異端になるには段階があるんだ。第一段階は『共鳴』……子供の魂がギーヴェリに掌握される。死の女神に魅入られる、なんて言い方をすることもあるな。第二段階は『発症』……この段階になると、実際に人を殺し始める。

 教会には審判の石アビト・ストーンって石が必ずあって、一定範囲内の人間がギーヴェリと『共鳴』していないかどうかを判別する。ただ、どの子供が異端なのかまでは分からないから、取り敢えずああやって、子供たちを一箇所に集めるんだ」

「じゃあ肝心の、異端が誰かっていうのは、どうやって?」

「異端審問官。そいつらが持ってる、最高純度の審判の石アビト・ストーンなら、どの子供が異端かまで判別できる。ただ、異端審問官ってのはそうそうどこにでもいるもんじゃない。異端が発生したら中央に連絡して審問官を呼ぶ決まりだが……間に合う方が珍しいな。たいていは異端が『発症』したあとになって、自分たちでする」

「処理って……」

「いちいち訊くなよ。分かるだろ?」

「……うん」

 声と共に、零夜は視線を爪先へ落とした。


「発症したら人を殺し始める……ってことは、第一段階の時点では、異端の子は無害なの?」

「ああ。自分が異端である自覚すらない。それがまた、厄介なんだけどな。なにせ何百人と子供がいて、その中に一人異端が混ざっていたとして、それが誰だか誰にも……本人にすら分からないんだ。まさか全員を殺すわけにもいかんだろ」

 まあ、そうした例もあったが。というキヤの呟きを、零夜は聞かなかったことにした。視線を足元から、広場に集まった子供たちに再び移す。

「でも、所詮は子供だろ? 大人が何人かいれば、抑え込めるんじゃないか?」

「普通の子供ならな。異端の子ってのは……なんていうか……普通じゃない。人間じゃないんだ。だから、出来れば発症する前に殺すのが最善なんだよ。焼くとか、沈めるとかして……なあ、頼むから、そんな顔で見るなよ」

 キヤに指摘され、零夜は手のひらで口元を覆った。話を聞きながら抑えられなくなっていた嫌悪の表情を、そのままキヤに向けてしまっていた。

「俺だって、こんなこと言いたくて言ってるわけじゃねえんだから」

「ごめん……」

 気まずい沈黙の間を、広場から聞こえる大人たちの声が横断していく。どうやら子供たちをいくつかのグループに分けているらしい。

 教会には、鐘塔を除き三つの塔がある。高さはそれほどないが、内部は広い。子供たちは三つの集団に分けられて、それぞれ別の塔へ入っていく。指揮を取っているのはダンニールだ。村民名簿らしきものを手に、子供たちを集め、整理し、手際よく指示を出している。


 視線を背後へ向ければ、子供の手をひいて教会へ向かう大人たちの姿があった。村で何度か見た顔もあれば、初めて見る顔もある。「大丈夫よ」と、大人たちは彼ら自身の不安をかき消そうと、無理に笑って子供らを励ます。子供たちはその虚勢を見抜きながらも「うん、大丈夫だよね」と大人を気づかい、教会の門をくぐる。誰も彼も、怯えきっていた。

「今来た者たちは、東の塔へ。親が付き添えるのはここまでだ。さあ――」

 役人たちに促され、固く繋がれていた親子の手がほどける。子供は塔の中へ。親は離れがたく手を伸ばしたまま、広場の中ほどに立ち尽くす。そんな光景が、幾度も繰り返された。


 子供たちを集め終えると、異端審問官が到着し正式な審判が下るまで、子供たちを教会に隔離する旨をダンニールが伝えた。神父や役人たちが教会の奥へと消えていっても、大人たちは広場の周りをうろうろするばかりで、その場から離れようとはしない。

「異端審問官って、いつ来るんだ?」

 零夜が訊ねると、キヤは肩をすくめて「知らない」のポーズを取る。

「注進状はとっくに送ってあるだろうし、プラドは審問官の直轄市からそう遠くはないから……早くて二日……いや、さすがに三日はかかるかな。それまではこっちで持ちこたえるしかない」

 キヤの視線につられて、零夜も教会を見やる。村中の子供たちが、あの建物の中で身を寄せ合っている。ただ集められているというだけで、酷い扱いを受けているわけではないだろう。しかし、どれほど不安なことだろう。


「もし、異端審問官が来る前に、異端が『発症』したら……?」

「その時に備えて、子供たちを分けたんだろ。……分からんか? よく見てみろ」

 キヤは、東にある隔離塔を指差した。アリエとスジュが入っていった塔だ。礼拝堂からは少し離れた場所にあるそれを観察しているうちに、隔離塔の周囲に、不自然に薪束が積まれていることに気が付く。

「例えば、もしあの隔離塔にいる誰かが『発症』したら、少なくとも同じ場所に隔離された子供が皆殺しにされるまでは、異端を塔内に留めておける。その間に油を撒いて、塔に火を点ければ……」

「そんな!」

 零夜の声に、何人かの大人が振り返った。「シー」と、キヤは指を唇にあてた。

「仕方ないんだ。どこの街でも村でも、似た方法を取ってる。犠牲を最小限に抑えるには、これが一番良いんだよ」

「……」


 キヤや、他の誰に抗議しようがどうしようもないことなのだと、零夜にも分かっていた。それでも、誰ひとり異を唱えることなく、事態が淡々と進んでいくことに対して、底知れぬ恐怖を感じる。

「アリエとスジュは同じ塔に入ったか。本当は分かれた方が良いんだが、スジュが怖がるだろうからな……仕方ないか」

「分かれた方が良いって、なんで?」

「姉弟が同じ塔に入ってたら、だった時に全滅だろ。分かれてれば、少なくともどっちか一人は親元に帰れる。……あー、レイヤ。理解してほしいのは、俺は別にお前をいじめたくて、こういうことを言ってるわけじゃないってことなんだが」

「ごめん、分かってる。俺だって分かってるよ……酷いことばっかり説明させて、ごめん」

「……」

 ついに二人は押し黙り、黙ったまま、宿へと戻った。道ですれ違う誰もが、今まさに背に刃を突きつけられているのだと言わんばかりに、足早で、切羽詰まっていた。



 客室の窓の外には、昨日までと同じ夜が広がっている。ただ夜の下に広がる人間の営みだけが、いつもとは違って慌ただしい。

 人々の悲痛な面持ちとは裏腹に、村のあちこちに張り巡らされたアカリカズラは、温かく穏やかな光を放っている。少しでも闇を残してしまえば、死がそこから侵入してくると思っているかのように、村中が昼間のように明々と照らされていた。

「異端になるって、つまり……人殺しになるってこと……だよな。あんな子供たちが、本当に?」

 窓際に座り、アカリカズラの光を見つめながら零夜が言う。異端のことや子供たちのこと。考えまいとしても、どうしても思考から離れてくれなかった。異端の脅威はもはや未来の可能性ではなく、今現在のものとして零夜のすぐそばで牙を研いでいる。

「ああ、本当に。親だろうと兄弟だろうと友達だろうと、目に入った人間を手当り次第に殺すようになる」

「……」

 キヤは、いつもよりかはいくらか沈んだトーンで答えた。

 言い表せない不快感があって、零夜は下唇を噛む。寄る辺なく視線を彷徨わせると、網膜に焼き付いたアカリカズラの光が、風景に虫食いを残す。

「……いやだな」

「誰だって嫌さ。だから祈る……俺たちの青き女神様は、なーんにもしちゃくれないがな。ただ異端が出たってことを、俺達に知らせてくれるだけだ」


 窓から見える教会は、ひときわ明るく夜の中に立ち尽くしている。礼拝堂からだろうか、か細い煙が登っているのが、夜闇の中に白く浮き上がって見える。焚香をしているらしい。

 女神が実際に存在するというこの世界で、祈りはどれほどの力を持つのだろう。祈れば届くのならば、零夜だって今すぐあの教会へ行って、目を閉じ指を組むのに……。

 そう考えているうちに、脳裏に浮かんだのはティエラの微笑みだった。今夜はまだ、宿の部屋には帰ってきていない。子供たちをよく可愛がっていた、愛情深いあの少女は、今どんな気持ちでいるのだろう。


「厄介なことになったな。逃げるか?」

 考え事をしている頭に思いがけない言葉が割り込んできて、零夜は「え」と短い声を発し、キヤの方を振り向いた。冗談で言っているわけではない真剣さが、キヤの真紅の瞳を光らせている。

「異端ってのは、本当に手に負えないんだ。あれだけの対策をしてもまだ、取り逃がす可能性は充分にある。そうなれば、俺たちの命だって危ない。異端が発症する前にここを離れる……そういう手もあるぜ。俺は今までそうしてきた。見たくないものも見なくて済むしな」

「……」

「分かってる。理仁りひとって奴のことだろ?」

「それもあるけど……」

 言葉を濁すと、キヤは短いため息を吐いて、銀色の髪を手でかき乱した。


 理仁の消息は、ただ「近いうちに会える」ということが分かっているのみだ。それだけでは、プラド村に留まる積極的理由にはならない。零夜が気にしているのは、ティエラとカルムのことだった。

 あの二人による遠見がなければ、ほんのわずかな理仁の手がかりも得られなかったのだ。零夜がいるから何になるというわけでもないが、二人がここに残るというなら、そこから零夜一人が退避するというのは薄情に思えた。

「まあ良いさ」

 薄手の布で短刀の手入れをしながら、キヤが言った。

「お前が残るってんなら、俺も残る」

「良いよ、気をつかわなくて。俺は俺の勝手で残るだけなんだから。キヤまで巻き込むつもりはないよ」

「あー、違う違う。そもそもだ、お前の人探しに付き合うって言い出したのは俺だろ。で、自分で言うのもなんだが、俺は一度決めたことはあんまり曲げない」

「あんまり、なんだ」

「そこは、状況に応じて適宜ってやつだな。要するにだ、付き合うぜと言っときながら俺だけ逃げるってのは、ちょっと情けねえなと思うわけだ。これは誇りの問題だな」

「ふうん……」

 誇りがどうとかいう話は零夜には理解し難かったが、とにかく零夜がカルムとティエラに抱いているような感情、一般的には「義理」と呼ばれるものを、キヤも零夜に対して抱いているということだった。


「まあ、審問官が到着するまで何事もないことを祈ろうぜ。ほら、これ持っとけ」

 キヤは、ようやく手入れが終わったらしい短刀を零夜に差し出した。楔との交渉に持って行き、あの騒動の後、キヤに返したものだ。戸惑っている零夜の胸板に、キヤはそれを押し付け「お前にやるよ」と言う。

「発症した子供が、もし塔から逃げたら……正直、俺もお前に構えるか自信がない。自分の身は自分で守れ」

 短刀を受け取る。脂汗が滲み、柄を握った手が滑る。

「迷うなよ。子供の姿をしてるからって躊躇ためらってたら、一瞬で殺られるぜ。発症した異端は嘘みたいに凶悪だ。倫理だの良心だの、そういったが一切外れてるからな」

「キヤは……見たことあるのか? 異端が『発症』したところ」

 少しの沈黙のあと、キヤは「ある」と答えた。

「昔、寄った街でな。九つの女の子だった。審問官なんて呼んでも来ないような、神都から遠く離れた地で……異端が出ても、自分たちで処理するしかなかった。だが……父親も母親も、その子を殺せなかったんだな。酷い有様だった」


 キヤは無表情に、その出来事を語る。

「異端が発症すると、とにかく無差別に人間を殺し始める。だが本当に悲惨なのはそこじゃない。発症して誰かを殺している間にも……その子供には自我が残ったままなんだ。俺が駆けつけたとき、その女の子は泣いて母親の命乞いをしながら、母親を絞め殺そうとしてる最中だったよ」

 その光景を想像して、零夜は絶句する。「お母さんを殺さないで」と絶叫する、わずか九歳の女の子。小さな手は彼女の意思に反し、母親の首を絞め上げる。殺さないで、お母さんを殺さないで……。自身を支配する「死の女神」に、その懇願が届くことは決してない。それはまさに、この世の地獄と言うに相応しい光景だろう。


「それで……その子とお母さんは……どうなったんだ?」

「幸い……と言っていいのかは分からんが、母親が首を折られる前に、その異端はした。異端ってのは、発症してから二十四時間以内に溶けて死ぬんだ。全身がどろどろになって……おい、レイヤ。どうした?」

 口元を押さえて前かがみによろける零夜の背中を、キヤが優しくさする。「こんな話だ、気分が悪くなるのも仕方ないか」と言うキヤの、恐らくその想像の範疇外で、零夜は激しく動揺していた。


 異端は、発症してから二十四時間以内に。その言葉で零夜が思い出したのは、あの青い夢だった。

 異世界に引きずり込まれる前日――あの日見た悪夢の中で、理仁りひとにそっくりの男がどうなったか。わざわざ思い出すまでもなく、それは零夜の脳裏に焼き付いている。


 無数の瘤が肌を覆い、弾け、増殖し、また弾ける……人間がまるで豆腐のように、ぐずぐずに崩れていった醜悪な光景。言葉で表現するとしたら、あれはまさにだった――。


 零夜のおとがいを汗が伝う。胃の辺りがキリキリと、締め付けられるように痛い。

 青い青い深海の夢が現実にぽっかりと穴を空け、昏い淀みの底へと手招きをしているようだった。


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