運命との邂逅


 緊張の中に夜は更け、一睡も出来ないままに朝を迎えた。目の下にクマをこしらえた零夜を、「気持ちは分かるが、しっかり寝ろよ」とキヤが叱る。

「寝られるときに寝とかねーと、いざというとき身体が動かんぞ。食事もそうだ。食って体力つけとけ。死活問題だぞ」

「うん……分かってる」

 話しながら、二人は連れ立って酒場に降りる。数日前までは、確かにここを満たしていたはずの平穏。今や、子供たちのはしゃぎまわる声と共にすっかり消え失せてしまい、酒場はしんと静まり返っている。

 ソーグは支払われた金額分の食事は作ったが、心ここに在らずといったふうで、ずっと言葉少なだった。零夜たちとも会話しようとしない。零夜たちも、立ち入った話をしようとは思わなかった。


 宿と同じように、村中が不気味なほどに静かだった。子供の歓声はどこからも失われているし、大人たちも皆、災厄から身を隠すように押し黙っている。

 キヤは沈黙の村の中を歩き回り、何か仕事があれば無償で引き受けた。これまでは子供たちが受け持っていた仕事――荷運びや薪割り、うまやの掃除。やるべきことはたくさんある。

 一方で零夜は、外に出るとしても宿の中庭に足を運ぶのがせいぜいだった。零夜に対する不信の目が培われたこの村で、実際に異端が出てしまった以上、無意味に村を歩き回るのは利口とはいえない。

 ソーグの手伝いを済ませてしまえば、昼過ぎには既に手持ち無沙汰になってしまう。裏庭と自室を行ったり来たりしながら、息苦しく退屈な時間を過ごした。時おり義務感にかられて筋力の鍛錬に取り組んだが、深い考え事に阻まれ、それも長続きはしないのだった。


 無意味な往復も何度目だろうか。裏庭に続く扉の陰から、井戸のそばに見知った青色を見付け、零夜は立ち止まる。隠れようと思ったわけではないが、無意識のうちに息を潜めてしまう。

 彼女のほっそりとしたおとがいを、水晶のような水滴が伝っていた。零夜はほんのわずかの間、その流線にみとれて声を失う。井戸水で顔を洗ったのだろう。彼女は冷たさに赤く染まった鼻先を空へ向け、滲んだ眼差しでどこか一点を見つめていた。

「ティエラ」

 名前を呼ぶと、彼女は驚いたのちにすぐ腕で顔を拭い、零夜へ向けて笑おうとした。しかし笑みになるはずだったものは強張った震えしか呼ばず、微笑の失敗を悟ったティエラは、敗北を認めるかのように大きなため息をついた。

「レイヤかあ。びっくりした」

「ごめん。あの……大丈夫?」

「うん、平気」

 何に対して大丈夫かと尋ねているのか、その真意を聞かないままに、ティエラはあっさりと頷いた。このやりとりに意味がないのだろうことは、零夜にもよく分かっている。大丈夫でなくとも、大丈夫と答えてしまう。こんな状況ならば、零夜とてそうしただろう。

 普段は溌溂はつらつとしている表情のあちこちに、疲れが透けて見えていた。ティエラは昨晩から役所に詰め通しだった。しかし肉体の疲労以上に、精神的な負荷が大きいようだ。

「平気だけど……怖いんだ。この村の子供たちは、みんな顔見知りだから、あの子たちのうち誰かが……って考えると、怖くて仕方ない。……私、駄目だなあ」

 袖で顎の水滴を拭いながら、ティエラは絞り出すように言う。

「女神の化身だって持て囃されるくらいなら、私の周りでは誰も異端にならないとか、そんな特別な力があったって良いのにね」

 風が強く吹き、長い髪がなびく。

 いつも思う。風を受けて波打つ彼女の髪は、まるで海を切り取ったようだ。ざわめく海を前に、零夜は手渡すべき言葉を迷っていた。労り、慰め……どんな言葉をかけようと、彼女の心を癒やすことは出来ない。墨に似た黒い無力感が、ぽたりぽたりと垂れ落ちる。

「ああ。ほんと、駄目ね、私。私がしっかりしてなきゃ、みんなが不安になっちゃうのに」

「……こんなこと、誰だってつらいよ」

 考え込んだすえに零夜が捻り出せたのは、安っぽい共感の言葉だけだった。ティエラはまた、ひび割れた微笑のようなものを頬に浮かべた。


 ティエラが再び役所へ赴いた後は、また零夜は一人になる。プラド村の誰もが暗澹たる心持ちでいるというのに、知ったことではないと言わんばかりに空は晴れ渡っているし、風はのどやかに吹いている。

 零夜は低く小さな声で、ブラームスの子守唄を歌った。何の感情も込めず、ただ零夜の寄りすがる場所としての子守唄を、祈るように歌った。



 そして二度目の夜を迎える。

 昼間は子供たちの監視にあたっていた男たちが、ソーグの食堂で顔を付き合わせて何やら話している。部屋の隅でもそもそと晩御飯を口に詰め込みながら、零夜は彼らを横目で観察した。疲れ切った顔の中に、目だけがギラギラと光っている。

「……の子ならな」「ああ、あれならな。そしたらみんな……」

 断片的に、彼らの会話が聞こえてくる。零夜はつい聞き耳をたてるが、テーブルの下で軽くすねを蹴られ、顔をしかめてキヤを睨んだ。キヤは素知らぬ顔で食事を続けている。

「なんだよ」

「聞くな。ろくな話じゃねえ」

 豆のソテーを口に運びながら、キヤが言った。

「誰の子が死ねばいいとか、誰の子が異端であるべきだとか、そんな話ばかりさ。もしくは、お前の噂とかな」

「……うん」

 塩っぽくてまずい豆を舌の上で転がしながら、零夜は頷いた。食事を始めてから随分経つが、零夜の皿は一向にからになる気配がない。豆のソテーも、すっかり冷めてしまっていた。

「あの人たちがとりわけ嫌な人間ってわけじゃない。みんな怖いんだ。恐怖は人間性を変質させる」

「……」

 だから恨むなとか、怒るなとか、そういうことはキヤは一言も言わなかった。ただ、事実だけを淡々と指摘する。この殺伐とした空気の中では、何もせずとも嫌悪はひとりでに熟成され、無意味に凶悪な悪意へと変貌していく。

 零夜は、ボソボソとこもる声で話し合う男たちを再び横目で見た。きょろきょろと落ち着かない素振りで、周囲に目を走らせては、小声で悪意を交わし合う。彼らの目の奥には、手に負えない驚異に身を潜める小動物のような、卑屈な怯えが渦巻いていた。



 食事を終えてすぐ二階に上がり、短刀の扱いについてキヤに手ほどきを受けて、そしてすぐに眠りについた。昨夜はほとんど眠れなかった上に、日中は精神が張り詰めっ放しだったためか、驚くほどすぐ眠りの渦に呑まれてしまった。


『――、――、――……』

 それでも、いくらか眠りが浅かったのだろうか。誰かの声で目を覚ました。夢を見ていたような気がするが、どうにも思い出せない。隣のベッドを見ると、キヤはまだ寝息をたてている。ということは、聞こえたような気がした声は夢の中のものだったのだろう。本当に人の声がしたのなら、零夜が気付いてキヤが気付かないなどということは有り得ない。

 窓の外を見る。深夜かと思ったが、もう日の出が近いらしい。明け方の仄明るい、乳白色の光が朝露を煌めかせている。夜の名残なごりか、まだまばたくように身体を光らすミトラたちが、窓の傍で群れをなして飛んでいる。

 夢の中のものだと思った囁き声は依然、零夜の耳に届いていた。

「……ミトラの声だったのか」

 ひとりごちて、零夜はベッドから降り窓に近寄った。ミトラの声ならば、キヤの耳に届くわけもない。ひとり納得し、息を殺して、少し歪みの入ったガラスに耳をあてる。

『かわいそ、かわいそ……』

 衣擦きぬずれ、雨音、木々のざわめき。そう形容すべき密やかな音の中に、確かに意味ある言葉が含まれている。小虫のミトラたちは、ただ『かわいそ』と繰り返しながら群れ飛び、空中に光の柱を形成する。

「かわいそう……なにが?」

 零夜の問いかけにも、なにも反応がない。徐々に明るくなっていく空に吸収されるように、ミトラの光も朝に紛れていく。


 ミトラの戯言だと、捨て置いても良かった。けれど妙に気になって、零夜は窓に耳をぴったりくっつける。しかし声はすっかり、遠くくぐもってしまっている。

 早朝の静寂の中でよく聞けば、もっとよく聞こえるかも知れない。そう思い当たり、零夜は音を立てないように外着に着替えた。

「どこ行くんだ、こんな早くに」

 いつの間にか起きていたキヤが、零夜に声をかける。やはり、彼の前に隠密行動など無意味なのだ。零夜はこっそり抜け出す作戦を諦め、ベッドの端に座る。

「いつ異端が発症するか分からん状況で、単独行動はなるべく避けろ」

「……ごめん」

「いや、良い。外に出るんだろ? 俺もついてく。朝の散歩も気晴らしになるだろうしな」

 大きく背伸びをして、キヤが起き上がった。キヤが服を着る間、零夜はまた窓の外に視線を向ける。日が昇り、丘の稜線からさしこんだ黄金色の朝日が村を照らす。

 いつも通りの風景だ。異端がいようといまいと何かが変わることもなく、世界は夜を越し、朝を迎え、また夜へとひた進む。


「うー、結構冷えるな」

 つま先に朝露を散らしながら、キヤは多少大袈裟に肩を抱いた。確かに、と同意して零夜も腕を擦る。まだ太陽は低い位置にあり、夜に冷えた大気を温めるほどではない。

 零夜は目を細めながら、逆光に浮かび上がった教会の鐘塔を見る。

「アリエもスジュも……まだ寝てるかな」

「ああ、多分な」

 二人とも言葉少なだった。零夜は、小さなミトラたちの声を聞くという当初の目的をすっかり忘れてしまっていた。実際のところ、それは口実に過ぎなかったのかも知れない。室内から屋外へ――暗い場所から明るい場所へ。ただ清廉な光の中に身を置きたかっただけだ。

 その欲求に従ったためか、張り詰めていた零夜の感情は、朝日を前に妙にいでいた。思考はいつになく澄み渡っていて、余計な感情が邪魔することもない。


 全ての出来事に意味がある。零夜はもはや、そのことを認めないわけにはいかなかった。

 夢の中で、理仁やキヤに瓜二つの人物を見たこと。その人物たちが、次々と「自壊」していったこと。物悲しげに響いたクジラの歌声。ブラームスの子守唄。そしてどこまでも続く深い深い青色ディープ・ブルー……。

 そうして思い返していると、零夜は未だ、キヤに真実を告げていないことに気が付いた。零夜が本当はどこから来たのか、これまでは頑なに、記憶喪失ということで通してきた。

 勘の良いキヤのことだ、それが嘘であることくらいは見抜いているかもしれない。しかしまさか、異世界から来たなどとは考えもしないだろう。

(……話すべきだ、きちんと)

 あの夢が「意味あるもの」だとしたら、零夜や理仁がこの世界に来てしまったその根源に、きっとキヤも無関係ではない。


「……なあ、キヤ。話したいことがあるんだ」

 目を細めて朝日を眺めていたキヤが、その紅い瞳を零夜に向けた。

「どうした、あらたまって」

「俺、実は……」

 開かれた零夜の口は、その先の言葉を紡ぐことなく静かに閉ざされた。視線は、ちょうど村の関所をくぐってすぐの辺りに立つ、二人の成人男性に縫い留められていた。

 その訪問者らは二人とも、ひと目で高級品と分かる質感の良い服を身に着けている。プラド村の人々が着ているような、質素な綿の作業着ではなく、かといってアランジャ族の衣装とも異なった身なり。石畳を踏むのは、草原を歩くには不似合いなハイヒールの靴だ。明らかに装いの異質な二人。長身で褐色肌の男が先頭に立ち、後ろをついて歩く従者風の男に何やら話しかけている。


「あれは……たぶん、異端審問官だ」

 零夜の視線を追って二人に気が付いたキヤが、声をひそめて言う。

「随分早いな。たまたま近くに来てたのかもな」

 しかしその小さな呟きは、零夜の耳には届かない。零夜の意識は、従者風の男ただ一人に釘付けになっていた。

 すらりと長い手足に、炭のように黒い真っ直ぐな髪。その左目は眼帯で覆われ、白い肌と美しいコントラストを描き出している。

 ――夢の中で見た「理仁によく似た男」が、そこに立っていた。


「理仁?」

 距離からして、零夜の声は届いていなかっただろう。しかし男はふと、零夜に視線を向けた。二人の視線が交差する。

 理仁の顔をした隻眼の男は、零夜の姿を認識しても顔色一つ変えることはない。夢で見た彼と同様に、冷淡な目つきを零夜に向けていた。


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