掛け違えた二人
永遠の時が流れたように感じた。心臓の音がすぐ耳元で鳴っている。隻眼の男は、もう一人の男になにやら耳打ちをしてから、ゆっくりと零夜に歩み寄る。
「ここの村の人間か?」
声も、
彼の問いかけに対し、零夜が口を開くより早く、キヤが前に出る。
「いや、旅の者だ。もうすぐここを発つ」
「賢明だな」
冷淡な声、冷淡な表情。そこに理仁を想起させるものはなにもない。それでも彼は、あまりにも理仁にそっくりだった。生き写しという形容こそがふさわしい。
(カルムさんの遠見……このことを言ってたのか?)
理仁に似た波長の人間に、近いうちに会えると示したカルムの予言。零夜の脳裏に、カルムの低い声が響く。
――リヒトくん本人であるかどうかは分かりません。
――大きすぎる期待は失望を生み、失望は絶望に変わります……。
「理仁?」
立ち去ろうとする男に恐るおそる呼びかけると、驚くべきことに彼は立ち止まり、振り返った。
「どこかで会ったか? なぜ俺の名前を?」
答えられず、零夜はただ呆然と目の前の男――リヒトを見る。リヒトもまた、零夜を凝視した。整った顔から冷酷の殻がわずかに剥がれ、人間らしい表情が浮かぶ。驚きから、徐々に困惑へ――。
「俺は……どこかで、君と……」
「リヒト、どうかしましたか?」
リヒトの言葉を遮るように、同行の男が彼を呼んだ。
「あ、いえ……なんでもありません、シースさん」
リヒトは我に返ったように顔を上げた。「教会へ知らせてきます」と言い、小走りでその場を後にする。呆然としたまま、情けない顔でリヒトを見送る零夜の肩を、キヤが軽く小突いた。
「おい、お前まさか、リヒトって」
「……俺が探してた、友達」
あいつだ。と続けると、キヤは「まさか」と呟く。
「何かの間違いじゃないか? 首元にトリディア紋章の金バッジがあった。あいつは
「はすう?」
「正式名称は何つったか……とにかく、異端審問官直属の従者だよ。次期異端審問官の最有力候補でもある。で、あっちが多分……」
キヤが、シースと呼ばれていた男を顎で指し示す。その男は、ただ立っているだけで不自然なほどの存在感を放っていた。異端審問官。
恐らく彼の外見のせいもあるだろう。身を覆う衣服はこの辺りでは見ない仕立てで、異文化の香りを強く放っている。不自然なほど真っ白なレースの袖と、色素の濃い肌とのコントラスト。左胸にゆったりと垂らされた、炭のように黒く艷やかな三編み。
しかし見た目のせいだけだと言い切れない引力が、彼にはあった。その何かに手繰り寄せられ、零夜の視線は彼から逃れられない。
自分を凝視する存在に気が付いたのか、シースは視線をそちらに返す。仮面のように張り付いた薄い笑み。黒い双眸が零夜を捉え、わずかに歪められた。
「審問官様、お待ちしておりました」
痩せた身体を折り、ダンニールが深々とお辞儀をした。シースは温厚な笑みでそれに応え、「ご苦労さまです」と出迎えを
「どっかの傲慢ちきな役人とは大違いだな」と嫌味を呟いたのはキヤだ。役所を遠巻きに見る野次馬の中に紛れて、二人もまた事の成り行きを見守っていた。
「審判の儀は正午から執り行います。北の塔の子供たちから順に西、最後に東塔……」
シースは取り巻く群衆に聞こえるように、必要以上に声を張って指示しているようだった。その効果は絶大で、儀式の予定を把握したことで安心した群衆は、今しがた聞いたことを別の誰かに伝えるために、一人また一人と散っていく。役所の人だかりはみるみるうちに解体されていき、零夜たちもこの場を離れないわけにはいかなくなった。
見物人が少なくなると、シースは一転して小さな声で、何事かをダンニールに囁く。それを零夜が盗み聞くことなど到底かなわず、耳語する二人を未練がましく横目に見ることしか出来なかった。
仕方なしに宿に戻り、ドアを開けると同時に、スカートの端が慌てて階段の上に引っ込んだ。一拍置いて「なんだ、レイヤたちかあ」とティエラが顔を出す。
「戻ってたんだ」
元気そうとまではいかないが、少なくともやつれてはいない彼女の顔を見て、零夜は思わず破顔した。ティエラは窺うように階下を見て、二階に来るように手招きをした。
零夜たちが宿泊している部屋の更に奥に、カルムとティエラが滞在している部屋がある。ティエラに連れられて入っていくと、窓際の椅子に座っていたカルムが、一瞬身を硬くした。
「大丈夫よカルム。レイヤたちだから」
「ティエラ。ああ、良かった」
ティエラの手を握って、カルムは安堵したように肩の力を抜いた。
「どうかしたのか?」
二人のただならぬ様子に、零夜もつい声を潜めてしまう。ティエラは怯えと苛立ちが混ざったような表情で、窓から外を窺い見た。
「どうもこうも、異端審問官が来たっていうから、慌てて帰ってきたのよ」
「……見付かるとまずい?」
「誰が来たかによるわ。レイヤ、審問官を見たんでしょ? どんな人だった?」
「えっと、背が高くて、三編みの……」
「シースって呼ばれてたぜ」
要領を得ない零夜の説明を、キヤが引き継いだ。それを聞いて、ティエラは「良かった」と胸を撫で下ろす。
「ベルメリオじゃないのね。じゃあ多分、大丈夫かな」
窓から差し込む日光が、ティエラの青い髪を宝石のようにきらめかせている。ティエラは髪の先を指に巻きつけながら、ちょっと拗ねたように口を尖らせた。
「青い髪、青い瞳……私を欲しがる人はたくさんいるの。ベルメリオっていう異端審問官も、その一人。自分と一緒に来れば、ゼーゲンガルトで良い暮らしが出来るぞーとかって、しつこいのよね。だから、あんまり見つかりたくなかったの」
恵まれた容姿にも、相応の苦労があるようだった。零夜とキヤに椅子を勧めてから、ティエラは自分用の小椅子を窓際に運んだ。役人たちの動き、村人たちの表情、空模様。窓から見える全てのことを細かく観察し、小声でカルムに伝えている。カルムはそれを聞いて、頷いたり、時には「ああ」とため息のような声を漏らしたりする。
この部屋に居ても良いと示されたことは、零夜にとっては幸いなことだった。椅子の脚を踵に感じながら、零夜は「あの」と話を切り出す。「俺、……リヒトに会いました」
真っ先に嬉しそうな声を上げたのはティエラだった。
「わあ、良かった! 会えたんだね! それで……」
声のトーンはすぐに降下する。零夜の表情が、これが良い報告ではないことを如実に物語っていた。
「……彼は、あなたの探していた『リヒトくん』でしたか?」
カルムの言葉に、零夜は逡巡したのち首を横に振る。あれが『理仁』であると、零夜には断言出来なかった。
あれは、夢で見た隻眼の男だ。目の前で人間が溶け落ちても眉ひとつ動かさず、自らが溶け落ちてすら満足げに笑っていた男。金属のように冷え切った目をしたリヒトと、零夜の幼馴染であり親友でもある理仁とが、どうしても結びつかない。
「顔も声も、そっくりなんです。でも……でも、俺の知ってる理仁は、もっと……」
「あっちはレイヤのこと知らないみたいだったぜ」
キヤが口を挟む。
「それに、あいつは異端審問官付き端数だ。言っちゃ悪いがレイヤは、名前からしても習慣からしても、とてもじゃないがゼーゲンガルト人とは思えない。中央の公的機関に所属できるような人間と知り合いとは……俺は、信じがたい」
あくまでキヤ自身の考えとして話を締めたのは、彼なりの優しさなのだろう。しかし、キヤの言うことが全てだった。
あのリヒトは、この世界で確たる立場を持っているように思えた。零夜のような、世界からはみ出した放浪者ではない。けれどいくら異世界とはいえ、あんなに似ている人間が二人といるだろうか……。
「……俺、やっぱりさっきの……リヒトに会ってくる」
零夜がそう言い出したとき、キヤとティエラは心配そうに目配せをした。情勢の不安定なこのタイミング、それも審問の儀を数刻後に控えた今となって、異分子である零夜が村をうろつくことは良い選択とは言えない。それでも、零夜の意志は固かった。
いつになく意固地な光を見せる零夜の目を見て、引き止めることを諦めたキヤは「分かったよ」と溜め息をつく。
「審問官が来てるから、そう大きないざこざは無いと思うが、気を付けろよ」
「うん、分かった」
キヤに譲ってもらった革のベルトに短刀を挿し、零夜は部屋を飛び出した。階段を駆け下り、宿の外へ出る。一階の食堂にも宿の外にも、人の気配はまるでなかった。皆どこにいるかは見当がつく。子供たちが隔離されている教会に集まり、異端審問が始まる時を息を殺して待っているのだろう。
零夜もまた、迷わず教会へと向かった。正午まであまり時間がない。できれば異端審問が始まる前に、もう一度リヒトに会って確かめておきたかった。
彼はたまたま理仁と顔も名前も同じなだけの、全く関係のない人間なのか? あるいは――
(理仁本人? まさか、そんなことが……)
いくら考えても、答えなど出るわけがない。雑念を追い払おうと、零夜は頭を振った。
教会前に出来た人混み越しに、零夜は広場を確認する。名前も知らない役人たちが慌ただしく行き交っているだけだ。審問官と一緒に、どこかで待機しているのだろうか。広場の周囲に視線を走らせると、礼拝堂のすぐ脇にある建物が目に入った。
入り口の前には数人の男たちが見張りに立っている。あそこで聞けば、何か分かるかもしれない。わずかの期待を胸に、零夜は彼らに駆け寄った。
「すみません、こちらに異端審問官の方はいらっしゃいますか?」
「ああ、あんた、ソーグのとこに泊まってる……。それを訊いてどうするつもりだ? ん?」
刺々しい言葉尻に怯みながらも、零夜は「話がしたくて」と理由を告げる。男たちは「話がしたいだってさ」と、顔を見合わせてへらへら笑った。
嫌な態度だった。端々から漏れ出る侮蔑の空気を隠そうともしない。零夜は眉間にシワを寄せるが、あえて波風を立たせる必要はない。「どうしても話がしたいんです」と食い下がるが、彼らはわざとらしく目配せをし、不愉快な笑みをいっそう広げるだけだった。
「なあ、あんたが
男の指が地面を指した。取り次ぐ気など少しもないくせに、無様な姿を見てあざ笑ってやろうという悪意が、彼らの瞳を深く染め上げている。
心臓の音を間近に聞きながら、零夜はキヤの言葉を思い出していた。
――あの人たちがとりわけ嫌な人間ってわけじゃない。みんな怖いんだ。恐怖は人間性を変質させる。
(この人たちも怖いんだ。怖いから、恐怖に理由を見出そうとする。異質なものに、恐怖の原因を押し付けようとする……)
取り合う必要などない。どくどくと煩い鼓動の中、自分に言い聞かせる。気にするな。怒るな。誰も悪くない。相手をしちゃいけない。
「……失礼します」
激高も反論もせずに背を向けた零夜の襟首を、ぶ厚い手が捕まえた。
「待てよ、謝れって言ってんだろ」
いつの間にか彼らの顔から嘲笑は消え失せていた。代わりにあるのは、曇りのない憎しみだけだ。
「プラドからは、今まで異端なんて一人も出なかったんだ。お前が穢れを持ち込んだに決まってる。おい、何とか言ったらどうなんだ!」
抵抗も虚しく、土の上に引き倒される。誰かが零夜の腹を蹴り上げた。「うっ」と呻いて丸めた背中に、誰かの靴跡が残される。
「俺じゃない……」
弁解しようと口を開けば、うるさいとばかりに頬を踏みつけられる。砂と血の味を感じながら、零夜はもう一度「俺じゃない」と繰り返した。腹に二度目の蹴りを受けて、その声は誰に届くこともなく土にまみれて消えていく。
蹴られながら、零夜は昔のことを思い出していた。幼いころも、見た目の異質さを理由によくいじめられていた。
あのころから、零夜はいつだってやられっ放しだった。抗って余計に傷付いたり、相手を傷付けてしまうのが怖かった。そして、こうして身を縮こまらせて耐えていたら、いつだって理仁が助けに来てくれた……。
(でも今は、助けてくれる理仁はいないんだ……)
人の目は多かったが、零夜を助けようというものは誰一人いなかった。誰もが目を逸らすか、あるいは「当然だ」と言わんばかりの冷徹な視線を向け、一方的な暴力を看過する。
「おい、何してる?」
いよいよ収拾がつかなくなり始めたとき、暴力の波を止めたのは、聞き覚えのある声だった。男たちが見張りをしていた建物から出てきたのは、零夜が待ち望んだ面影ではなく――ダンニールだった。
「こいつ」
率先して零夜を蹴っていた男が、いくらかばつが悪そうに言う。
「こいつがこの村に穢れを持ち込んだんですよ。ダンニール様も、そう……」
「ああ、そう言った。それで? 転がってるゴミを蹴って遊ぶのが、お前の仕事か?」
「す、すみません……」
「東塔の人手が足りていない。お前たちが行って来い」
はい、と従順な返事をして、男たちはそそくさとこの場をあとにする。彼らの足音が消えてから、零夜はのそりと起き上がった。
「……いつかの言葉を訂正しよう」
痛む背に、ダンニールの言葉が突き刺さる。
「アランジャ族の人間が冷酷で陰湿だと、僕はお前にそう言ったな。だが、アランジャ族だけじゃない、人間は皆そうだ。異質なものは排除される。他者と異なるものは居場所を追われるか……自分を殺して、同化するほか道はない」
顔を上げてダンニールを見る。彼の目にはあの男たちのような、悪意の光は宿っていない。愚者を見下ろす、哀れみと軽蔑の色がそこにあった。どんな悪意の視線よりも、零夜の心を掻き乱す視線だった。
「それで、あんたは自分を殺したのか。排除されたくないからって、排除する側にまわって……」
「お前に僕を責める権利があるのかよ」
その批難はいたって落ち着いた声だったが、零夜を萎縮させるに充分だった。
「ついさっき確信したよ。いくら善人ぶろうが僕には分かる。お前は、自分だけは加害者になりたくない、ただの卑怯者だ」
「そんなこと……」
何か反論しようと口を開いたが、何の言葉も続けられなかった。言い返すはずだった唇が無音を吐き出し、睨み返すはずだった視線が宙を彷徨う。そして行き場を失った気勢にとどめを刺すかのように、晴れた空に鐘の音が響き渡った。
禍々しい、割れた鐘の音。大きく長く響いた音を見上げながら、「審問の儀が始まる」とダンニールが呟いた。
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