ひとすじの希望


 アランジャの集落は、族長の幕家を中心に住居用、調理用、作業用など用途に応じた幕家が立ち並んでいる。零夜が案内されたのは、その集まりから離れた場所に、ぽつりと立てられた幕家だった。幕布や柱は豪奢に装飾されていながら、なぜだか他の幕家より寂しく見えるのは、それが意図的に隔離された場所にあることが明白だからかもしれない。


「カルム、入るよ」

 バータルが声を掛け、布戸をまくる。中には生活のための調度品が並んでおり、炉のそばに座るカルムが、微笑みをもって二人を迎えた。そばにはティエラもいる。彼女もカルムと同様に微笑んではいたが、カルムのような余裕のある表情ではなく、どこか不安げである。

「バータルと……ああ、レイヤくん。きみが来たということは、アランジャに力を貸してくれるんだね」

「レイヤは勇気ある男だ。友人のため、危険を承知で我々の要求を飲んでくれた」

 アランジャ族の人々の褒めかたは直球だ。褒められた嬉しさよりも恥ずかしさが勝り、零夜は赤面しながらうつむいた。照れている零夜に、カルムは穏やかな笑みを向ける。


 カルムは不思議な男だった。盲目でありながら、零夜の表情を全て見透かしているようだ。あるいは、見透かされているのは表情だけではないのかもしれない。たとえばもっと奥底の、零夜自身すら気が付いていない心情ですら、彼の相貌には映っているような気すらする。あり得ないとは思いつつも、そう思わせてしまうほどの神秘性が、カルムにはあった。

 彼の纏う、青く染められた衣装には、細やかな金刺繍が施されている。零夜は刺繍の美しさに目を奪われながら、彼らの信仰では青色は聖なる色だった、と思い出していた。



「終わったら俺の幕家に来てくれ」と言い、バータルは布戸をくぐり外へ出た。神聖な儀式である「遠見」は、カルムとティエラ、そして零夜の三人だけで行なわれる。促されるままカルムの向かいに座ると、ティエラが遠見の説明を始める。


 遠見は、カルムの持つイマジアだ。彼の両目は視力を持たないが、代わりに「女神の残滓ざんし」をることができる。

 女神の残滓とは、この世界に存在する全ての生命、全ての物質が残す痕跡――匂いのようなものだと、ティエラは説明した。それを辿れば過去、そして現在の様々な出来事を知り、未来に起こるであろうことの予測すら可能なのだという。


「まず私を介してレイヤに『接続』して、あなたの記憶から探し人の情報を引き出します。それから、その人の残滓がイグ・ムヮの周辺にあるかどうかを探っていくの」

 神聖なる、青い色を持つ少女――「女神の愛子いとしご」であるティエラは、女神の残滓を視る際の媒介として最適なのだという。

 ティエラが零夜の手を握る。彼女の手のほうが、零夜の手よりほんの少しだけ温かい。こんなときだというのに零夜の心臓は愚直にも高鳴ってしまい、そのことがティエラに伝わってしまわないか、気が気ではなかった。

 ティエラはというと、そんなことは全く気付いていないようで、慣れた様子で説明を続ける。


「接続の前に、了承を得ておきたいんだけど」

 ティエラは、「遠見をするためには、秘密を暴かなければならない」と言った。

 個人に「接続」するということは、その人の過去や心を覗き見るということだ。秘密にしておきたいことや思い出したくないことでもお構いなしに、カルムだけでなく媒介であるティエラにも、筒抜けになってしまう可能性がある。

 説明を受け、零夜は戸惑いつつも了承した。隠しておきたい秘密や薄暗い感情に、心当たりがないわけではない。けれど露呈の恥よりも、親友の安否を確認したい思いがまさった。


「では両手のひらを、ティエラの手と合わせて。そう、そのまま目を閉じて……」

 カルムに促され、零夜とティエラ、二人の両手のひらが合わせられる。さらにカルムの大きな手がそれを包み込むと、零夜の身体の芯に、わずかな揺らぎが生まれた。魂が波打つような、澄んだ水面に全身を預けているような感覚。


 ティエラもまた、同じ感覚を共有していた。ティエラはさらにそこから、意識を自分の外側へと集中させる。自分と外界との境界が失われ、自己は世界と同化する。

「さあレイヤくん、探し人の名を。あなたとの関係と、いつはぐれたかを教えてください」

「名前は、るり……いえ、リヒト・ルリサワ。年齢は十七歳、男性です。俺の幼馴染で、別れたのは……たぶん、三日くらい前」

「分かりました。まずレイヤくんの過去に接続し、リヒトくんの『魂の波長』を把握しましょう。それから時間と空間の両方において、可能な限り範囲を広げて、その波長の痕跡を探っていきます。ではティエラ、頼んだよ」

「はい」


 ティエラが手のひらに意識を集中させると、皮膚の温かさを通して、零夜の情報が彼女に流れ込む。それは文字や言葉のように、はっきりとしたものではない。音、匂い、皮膚の感覚……肉体と魂の記憶が、モザイクのように入り乱れ、鮮やかに点滅する。



 手始めに、零夜の過去の記憶を、幼少期から順に辿っていく。

泣いている女性の横顔、胸が張り裂けそうなほどの寂しさ、孤独、諦め。鬱屈した感情と、子供のすすり泣く声が、記憶の隅々まで充満する。

 そこからわずかに現在に近付くと、小さな光が現れた。もみじのような、丸みを帯びた手。甘いミルクの匂い、柔らかな頬。「みかず」と呼ぶと、「おにいちゃん」と返ってくる、ささやかな幸福。


 そして過去のある一点から、急に感情が波立ち始めた。一人の友を得てからだ。友との衝突から生ずる怒りや不満。その先にある、孤独を癒やすには充分な幸福や、楽しげな笑い声。

 その友こそが「リヒト」であると、ティエラは直感した。幼いころから、ずっと零夜の隣にいる人物。ティエラはその存在に集中し、記憶をさらに現在へ近付けていく。


 冬の風の冷たさ。大きな建物に、独特な音階を奏でる鐘の音。大勢の人のざわめき。さらに現在へ近付く……真っ白で無機質な部屋。「おにいちゃん」と呼ぶ少女の声。並んで歩く坂道を彩る、血のような赤……視界を覆い尽くす青……そして、



「あ、あれ?」

 思わずティエラは声を上げた。突然、情報が遮断されてしまった。

 肉体的な接触――合わせた手のひらが、離れたというわけではない。外部からの干渉があったわけでもない。なんの理由もなく、唐突に、真っ暗になってしまったのだ。ティエラは十年以上遠見の手伝いをしているが、こんな切断のされかたは初めてのことだった。

「ティエラ、接続が切れたようだが」

 ティエラを介して情報を視ていたカルムも、不思議そうに言う。

「分からないの。急に……全然、見えなくなっちゃった」


 零夜にだけは、その理由が推察できた。この「途切れ」こそ、零夜が本来存在すべき世界と、この世界との隔絶なのだろう。

「ちょっと待って。もう一回やってみるから」

 ティエラはより神経を研ぎ澄まし、再接続を試みる。しばらく難儀はしたものの、再接続は間もなく成功した。しかし、入り込む情報は極めて曖昧になっている。濃い霧を通して見る風景のように、何もかもが暗く、ぼやけてしか分からない。もはや「リヒト」の波長どころか、零夜本人の記憶すら、輪郭がはっきりしなかった。


 これ以上の遠見は不可能かと諦めかけた時、泥が沈殿して上澄みが透き通るがごとく、やおら感覚が澄み渡り始めた。これなら遠見を続行できる。ティエラが安堵した、その瞬間。

 耐え難い苦痛が濁流のごとく流れ込み、ティエラは思わず「うっ」と苦悶の声を漏らした。

(痛い――痛い、痛い痛い痛い!)

 腹部を貫く、強烈な痛み。内臓が焼けるような熱さ。実際に痛みを感じているわけではない。にもかかわらず、記憶はティエラの意識を、苦痛のただなかへと引きずり込む。呼吸は乱れ、脂汗が滲み出る。


 彼女の異変に、声を上げたのは零夜だった。

「やめよう、駄目だ!」

 零夜により、接続は強引に振り切られた。ティエラは息を切らしながら絨毯の上に倒れ込む。

 顔すら上げられないまま、ティエラは荒い呼吸を繰り返した。頬を伝って顎から垂れた汗が、厚い絨毯に染み込んでいく。心配そうに自分を覗き込む零夜に、ティエラは「だいじょうぶ」と力なく言った。


「ティエラ、大丈夫か?」

 激痛は、カルムまでは届かなかったらしい。カルムはティエラの肩を抱き、自分の胸へともたれ掛からせた。ティエラはカルムに身を預け、ゆっくりと呼吸を落ち着けていく。

 息を深く吸い込み、細く長く吐き出す。それを三度。脂汗が乾き、少しの肌寒さに、ティエラは首をすくめた。肌寒さを意識できる程度には、混乱は収まりつつあった。


「ありがとう、もう平気」

 姿勢を戻し、ティエラは零夜の瞳をまっすぐに見つめる。

「ごめんなさい、まだ途中だったのに。もう大丈夫だから、続けましょう」

 その言葉に、信じられないといった面持ちで、零夜は首を横に振った。

「駄目だよ。俺、接続ってよく分かってなかったけど……俺が怪我した、あの時の……あの痛みを感じたんだよな? あんな痛い思い、させられない」

「でも、友達の居場所が知りたいんでしょう?」

「そうだけど、でも……でも、駄目だ」

 零夜は、きっぱりと言い切った。気弱な雰囲気の中に一片の頑固さを感じ取り、ティエラは困りきってカルムを見た。「カルム、さっきまでの接続で、どこまで探れたの?」

 カルムは眉間に皺を寄せ、ティエラを介して得た「波長」を追うように、幕家の外――遠く草原の向こうへ、意識を寄せる。


「……似た波長は掴めました。しかし、これが本当にリヒトくんの波長なのか、確証は持てません。もう一度接続すれば、確かめられますが……」

 零夜は間髪を入れずに「これ以上、接続は駄目です」と、遠見の継続を拒否する。

「本当にいいの? 私は大丈夫なんだよ」

「だ、大丈夫じゃないよ。あんな、痛かったのに」

 ティエラが何を言っても、零夜の意見は変わらないようだった。

 親友を探したいという気持ちに、嘘も誤魔化しもない。そのことは、零夜の魂に接続したティエラが、零夜自身よりもよく理解していた。しかし、だからこそティエラには、彼のこの決断が優しさではなく甘さに感じられた。

「……そう」

 幼いころより「遠見の媒介」としての仕事をこなしてきた彼女の、その深い矜持ゆえ生じた、わずかな不快感。ティエラはまだ不調なふりをして、カルムの肩に寄り掛かった。



 結局、零夜は遠見を続行せず、分かったことだけでいいから教えてほしいと、カルムに頼み込んだ。カルムは不完全な情報を渡すことに多少の抵抗はあったようだったが、零夜の追い詰められた気迫に押され、「分かりました」と頷いた。

「先ほども言ったように、リヒトくんに似た波長は掴めました。彼は……この波長が彼だとしたら、思いのほか、近くにいるかもしれません」

「本当ですか!」

 零夜の大声に驚いたのか、足元で休んでいたらしいトカゲ型のミトラが慌てて走り去った。ここ数日で初めて、零夜の瞳に、薄く希望の色が広がる。


「ええ、きみと彼との間に、青いほだしが見えます。とても深い縁で繋がれているようだ。女神の導きのままにいれば、二人は引き寄せられ……近いうちに、再び会うことができるでしょう」

「会える……近いうちに」

 カルムの言葉をオウム返しにして、零夜は糸が切れたようにこうべを垂れた。深く肺の底から、安堵の息が吐かれる。

「会える、よかった……よかった、理仁……生きてるんだ」


 肩を震わせながら「よかった」を繰り返す零夜に、ティエラの頬もようやく緩む。これほどまでに探し求めていた人にまみえる希望を与えられたのならば、あの激痛も無駄ではなかったということだ。

「よかったね、レイヤ」

 声を掛けると、零夜は顔を上げて頷いた。それはティエラが初めて見る、零夜の笑顔だった。笑顔というには心もとない、わずかに口角が上がっただけのそれは、本当に心の底から安心した人間がする表情だということを、ティエラはよく知っている。


「ありがとう、ティエラ。カルムさん。ずっと理仁が無事かどうか……それが気掛かりで、だから……」

「役に立てたのならばよかった。しかし、レイヤくん」

 カルムの、釘を刺すような厳しい声に、零夜の身体が強張った。

「もう一度言っておきますが、先ほどの遠見では接続が不完全で、確実に『視る』ことはできませんでした。私が探ったその人が、リヒトくん本人であるかどうかは分かりません。心に留めておいてください」

「分かっています。でも会えるなら……会えば分かります」

「大き過ぎる期待は失望を生み、失望は絶望に変わります。どうかそれを忘れないで」

 カルムの忠告に、零夜は戸惑いながらも頷いた。希望の糸に、細い不安がより合って絡まり合う。ようやく見えた希望に心は浮き立つが、しかしそれが本当に希望なのかは定かではない。



 そんな、曖昧で不明瞭な空気に終止符を打つように、「さて」とカルムが両手を叩いた。

「レイヤくん、バータルが待っていますよ」

 零夜の探し人が、近くにいるかもしれない。その遠見の結果を受けて、近隣の村へ使いを向かわせるよう、族長へ頼んでくれるという。

「些細でも、手掛かりがあれば伝えさせます」

「ありがとうございます、カルムさん。それから、ティエラも」

 零夜は深くお辞儀をして、「じゃあ、バータルのところへ行ってきます」と幕家をあとにする。

 カルムはその背中を、見えない目でいつまでも見つめていた。


「どうしたの?」とティエラが訊ねる。

「彼はいったい、どこから来たのだろう」

 カルムの疑問に、ティエラは「さあ」と軽く答える。

「記憶を失っているんだってね。きっととても遠い所よ。彼の記憶にあった空気の匂い、こことは全然違ったもの」

「とても遠い所……」

 カルムが腕を組むと、袖にあしらわれた金糸の刺繍が、深い青の布地に煌めいた。

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