大山風の楔編
重責
バータルのプライベートな幕家は、そこかしこに木彫りの人形や吊るし飾りがあった。「俺じゃない、ナランが置いていくんだ」と、バータルは弁解する。ナランとは彼の幼馴染で、刃物の扱いに長けているらしい。
「あいつの彫った人形は、子供たちに受けが良いんだ。魔除けの飾りなんかも上手い。作ること自体が楽しいみたいでな。で、つい作りすぎて」
作りすぎたものを、バータルの私室に置いていくのだという。ナラン本人の幕家はすでに人形でいっぱいで、置き場がないためらしい。奥の小棚の上から、六本足の奇妙な木彫り人形が、
「ナランも交渉小隊の一員だ。もしよかったら、彼にことわって、ここにあるどれかを貰っていってくれ。ありすぎて困る」
バータルが、部屋の中央にある鉱石灯に光を灯す。時おり
ナランが幕家に到着したのは、それから間もなくのことだった。
「バータル、一週間ぶりだな! ウサギ獲ったぞ、ウサギ」と言葉尻を弾ませながら、八重歯の目立つ笑顔をみせる。ナランは、バータルの目の前にウサギをぷらぷら揺らしたあとで、数秒経ってから零夜に気が付いた。
ああ、と小さく呟くと、ぶら下げていたウサギをバータルに押し付け、ナランはその手をそのまま零夜に差し出す。零夜は内心で
「ナラン・ナム・ハルナーンだ。話には聞いてるよ。きみが例の、ミトラの言葉が分かるお客?」
「はい。レイヤ・マイトです」
「敬語なんていいよ。なあ、バータル」
ナランは、生真面目そのものといったバータルと違い、かなり気さくな人柄らしい。
「ナラン。大事な仕事だ。分かってるだろう?」
「うん。ザクロ採ってきた。あとナツメも」
「ナラン!」
自分のペースを崩そうとしないナランに、バータルは容赦のないげんこつをお見舞いする。その鉄槌を受けて、ナランはようやく絨毯の上に腰を落ち着けた。ただし、今から食べる気なのだろうナツメの実を手に山盛りにしたままだ。
零夜は苦笑しながらナランの隣に座り、最後にバータルも輪に加わった。
「俺たち三人が、
「キヤって?」
遠出から帰ったばかりのナランはキヤを知らない。旅の人だ、とバータルが簡単に説明する。
「食料と薬、あとは、いくらか金銭に替えられるものを対価に協力してもらうことになった。彼は戦闘能力も高いし、人柄も信用できる。さすがに楔に近寄らせることはできないが、道中の護衛なら充分に任せられる。営地を守る人手を、減らさずに済むのはありがたい」
ふうん、と間延びした声を発したナランは、ナツメを丸ごと口に放り込む。特に急ぐ様子もなくじっくり噛んで飲み込み、種を吐き出すついでに水を飲んでから「じゃあ、行くのは五人だけ?」と尋ねる。バータルは、首を縦に振った。
「ふうん。もし交戦することになったら、ちょっと心もとないな」
「戦闘になりそうならすぐ逃げる。そのための少数編隊でもある」
バータルは、垂れがちの目を零夜に向けた。楔と呼ばれるミトラの強大さは、零夜には推し量ることしかできない。しかしバータルの眼光の鋭さから、少しの油断も許されない相手なのだろうことは充分に伝わってくる。
レイヤ。と、バータルが改めて零夜を呼んだ。彼が背筋を伸ばして零夜に向かっているため、零夜も居住まいを正す。
「レイヤに楔と話してもらって、もし決着がつかなかった場合は……楔を地中深くに封印し、古くからの掟に従って、生贄を捧げなければならない」
決着をつける。その具体的な状態を尋ねると、バータルは「楔との和解」だと答えた。
この営地に暮らす
「人間を敵とみなした楔は、もはや神ではなく災厄だ。即刻封印せねば、アランジャだけでなく、イグ・ムヮ周辺の集落も襲撃されかれない。そして封印された災厄たる楔を、元の豊穣神に戻すためには……」
「生贄が必要、なんですか?」
零夜が尋ねると、ナランが「生贄には、楔を元に戻す以外の役割もある」と、零夜の疑問を言外に肯定する。
「生贄は、封印された楔の代わりに土地を富ませるんだ。生贄の魂を土地に打ち込んで、地下の生命力を地上に誘導する。先々代のころだったか、急に楔が弱って悪い病気が
同意を求めてバータルを見るナランの瞳には、固く目をつぶったしかめっつらが映っている。
「一時しのぎの手段だ。楔が元の豊穣神に戻るまでの、繋ぎに過ぎない」
バータルの低い声は、悲痛に沈んでいる。
「しかしそれでも、一時しのぎだろうとも……事態は切迫している。土地が完全に腐りきったあとでは、楔を封印したとしても土の下で朽ちてしまう。そうなればゼーゲンガルトは好機とばかりにこの地を支配し、我らの文化を駆逐するだろう。それだけは避けなければならない」
バータルは、長く細い息を吐いた。
「今回、もし生贄を捧げることになったら……選ばれるのは、ティエラだ」
「ティエラが生贄に?」
零夜は思わず声を上げた。
ついさっきまで手を繋いでいた少女の、体温も、手の柔らかさも、睫毛が青い弧を描いていたことまでも、鮮明に思い出せる。その彼女が、生贄になるという。
生贄になるとは、どういうことだろう。零夜は考えるが、そもそも生贄などという単語は、比喩表現としてかフィクションの中でしか聞いたことがないため、ピンとこない。しかしバータルの表情を見るに、彼らにとっての「生贄」と零夜の想像する悲惨なイメージの「生贄」は、そう違わないのだろうと思われた。
「ま、そうなったら、俺がティエラ連れて逃げるけどなー」
間延びした声で言うナランは、表情ものんびりと微笑んでいる。バータルは閉じていた目を開けて、ナランを睨み付けた。
「ナラン、これは公的な会談だ。
「んー」
零夜には、ナランの声からも表情からも、彼の真意は汲み取れない。鉱石灯の光が揺れる。バータルはしばしナランを睨んでいたが、やがて溜息をついて緊張をほどく。
「長々と話したが、望む結果は楔との和解だ。我々アランジャ族は、ゼーゲンガルトのやりかたに賛同するつもりは毛頭ない。ゼーゲンガルトの奴らが楔を抜こうとするならば、全力で抗う。それを楔に理解してもらい、怒りを鎮めてもらえれば、それが一番良いんだ」
幕家の中に沈黙が満ちる。鉱石灯の光を網膜に焼き付けながら、零夜は乾いた唇を舐めた。
たった今、話されたことの意味を考えれば考えるほど、自分に課せられた責任の重さに押し潰されそうになる。自分が楔と話して、その結果の
生贄になった人は、どうなるんですか。訊きたくても訊けなかった。それを詳しく知って、自らにさらなる重責を課す気にはなれなかった。息苦しさは氷水の冷たさのように、じわじわと
「それと万が一、楔と交戦状態になったら……」
バータルは腕組みをしたまま零夜を見た。
「もちろん逃げるんだが、逃げるにも時間を稼ぐ必要がある。その時は、レイヤにも力を貸してほしい。前衛には我々が立つ。きみは安全な後衛から、炎で援護してくれないか」
「そ、それはちょっと、無理……だと、思います」
勇ましい彼らの前で自分の無力を認めるには、ある種の勇気を必要とした。しかし、ここではっきりと言っておかなければ後悔することになるし、場合によっては後悔で済まない事態になりかねない。
「俺、力を上手く扱える自信がないんです。炎が出せたとしても、加減ができないと思います」
「……なるほど。きみは、祝福の言葉を忘れてしまったのだったな」
バータルの言葉に、ナランはザクロを口いっぱいに頬張ったまま「えっ、そうなの」ともごもご驚いた。記憶を
「そうかー、レイヤは大変な目に遭ったんだな」
ナランは手を伸ばし、無遠慮に零夜の頭を撫でる。初めは子供にするように優しい手付きだったが、次第に髪の毛を乱すがさつな動きになる。「あの、ちょっと、やめてください」という零夜の控えめな拒絶もお構いなしだ。バータルが止めに入って、ようやくナランは「レイヤはおとなしいな!」と言いながら手を引っ込めた。
「交渉への出発は七日後だ。それまでに心身の準備をしておいてくれ」
ぐしゃぐしゃに乱された髪を整えている零夜を見て、隠しきれない不安を滲ませながら、バータルが念を押した。
会議の解散前に、ナランが零夜にナツメの実を差し出した。零夜が素直に手を差し出すと、その手にナツメを握らせる時、ナランは正面からまっすぐ零夜と目を合わせた。
明るい琥珀色の奥に翡翠の緑が輝く、玉のような瞳だ。相変わらず人懐こい笑みを浮かべたままだし、目にも
「あ、ありがとうございます」
礼を言って手を引っ込める。ナランは目を細めながら「敬語、抜けないな」と笑った。
昼食には、ナランが獲ってきたウサギを調理することとなった。後ろ脚を縛って吊るしてあるウサギは、零夜の知るウサギそのものだ。耳が長くてふわふわしていて、可愛い。
小学生のころ、零夜は飼育係だった。そういえば妹の
そういうわけで、バータルから「ティエラを探してきてくれないか」と頼まれた時には、内心で安堵した。あのふわふわの生き物が解体される様子を見ずに済む。
「ノワケを燃やした丘があるだろう。たぶんあそこにいると思う」
バータルに言われ、零夜は丘へ向かった。よく晴れた青い空に、雲はほとんどない。遥か遠くの山の頭が、帽子をかぶったように真綿の白に隠れている。零夜は少し歩き、丘の中腹からアランジャの営地を振り返った。
白い幕家が立ち並ぶ光景は、社会科の教科書で見た「遊牧民たちの生活」というタイトルの写真そのものだ。幕家が
零夜は再び丘の方を向く。登りきるには、まだ少し歩かなければならない。
一歩を踏み出した時、ふと風に乗って、歌が聞こえてきた。昨晩、狼の遠吠えに隠れて聞こえた気がした、あの歌声だ。囁くような、それでいてたおやかなハミングは風にたゆたい、零夜の鼓膜を優しく揺らす。
聞き覚えのあるメロディ――ブラームスの子守歌だ。
声の主を探して、急ぎ足で丘を登る。登りきったところで辺りを見渡すと、営地とは反対側の斜面に座り、彼女は歌っていた。
一陣の風が吹く。草原の緑色の中で、ティエラの青い髪が波のように
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