その視線の先に


 幼いころからティエラは、遠見の手伝いをしたあとは決まってこの丘へ来た。丘からは、空も山もよく見える。夜になれば淡いミトラの輝きが草原を満たし、足元にも星空が広がっているように思える。この丘から見る光景こそが、ティエラの原風景だった。


 遠見は、ほとんどの場合、つらく苦しい。誰かの死が視えることもあるし、迫り来る疫病えやみの過酷さを、自らの感覚をもって思い知ることもある。

 そんなときは丘の上から、遠く山の向こうへ呼び掛けるように歌を歌うのだ。そうすると、心の中にある悲しみや苦しみが歌声と共に身体の外へ出ていって、身体が軽くなっていくような気がする。

 短いメロディを繰り返し口ずさみながら、ティエラはこれからのことを考えていた。これからのアランジャ族のこと。これからの自分のこと……。



 楔との関係が悪化していることは、今やスチェスカうじの者ならば誰もが知る事実だった。関係が修復不可能と判断されれば、掟の通りに、楔は封印される。その場合、楔を元の楔に戻すため、そして楔不在の土地を潤すための生贄に自分が選ばれるだろうことも、彼女は知っていた。そのことに不満はない。

 ティエラは、女神の愛子いとしごと特別視される存在だ。生贄の役目を拒むことはできるだろうが、そうすれば代わりに、ほかの子供が生贄に選ばれる。年齢から考えると、恐らくユーイになるだろう。それを知りながら「生贄になるのは嫌です」などと言えるティエラではなかったし、そも妹のように可愛がっているユーイの、その犠牲の上に成り立つ己の幸福など、とても考えられなかった。


 これで良い。私の人生は、これで良い。


 ようやく決心がついた矢先に、何の前触れもなく現れたのが零夜だった。どこからどうやって来たのか分からない、ミトラと話せる人間。

 彼の力があれば……楔と話し、楔の真意さえ分かれば、もしかしたらティエラは生贄にならずに済み、アランジャはこれまでの平穏を取り戻せるかもしれない。

 空から振ってきたような希望に、アランジャの年寄り方は喜び沸いていた。しかし零夜の存在は、ティエラの胸を、あまりよくない感情でざわめかせた。


 ノワケの襲撃から助けられた時――あの枯茶色の、内気な瞳と目が合った時、奇妙な幻視がティエラを襲った。

 まるで自分が、深く冷たい海の底に沈んでいくような感覚。そして頭に響く、聞き覚えのある旋律。それは確かに、今まさにティエラが口ずさんでいる歌にほかならなかった。


 幼いころ死別した母親が、ティエラを寝付かせるために口ずさんだのがこの子守歌だ。吹きすさぶ風が獣の唸りを上げ、恐ろしくて眠れないと母に泣きついた夜も、その歌を聴くと不思議と安心し、いつの間にか夢の世界へいざなわれた。

 その歌が、なぜあの時、頭に響いたのか。ティエラは納得のいく理由を見付けられずにいた。


 そしてもうひとつ。幻視以上に奇妙だったのは、自分の中に湧き立った未知の感情だ。零夜の腕に抱きとめられた瞬間、強烈な叫びが胸の奥底に響いたのだ。


 ようやく会えた。会いたかった――寂しかった!


 それは明らかにティエラのものではない、身を裂くような切なる感情だった。ほんのわずかな間の出来事であり、あれ以降は、その感情は片鱗すら見えなくなってしまった。しかしあの瞬間は、自分が絶叫しているのではないかと錯覚するほどに強く、強く強く、不可解な感情に心を支配された。

 あれはいったい何だったのか? 


 不吉な予感に、ティエラの表情がかげる。零夜個人の人格に不信の念を持っているわけではない。それでも、ティエラは落ち着かない思いでいた。零夜は本当に「希望」なのだろうか。

 不安を紛らわせようと、子守歌を口ずさむ。

歌詞はない。あるのかもしれないが、ティエラは知らない。ハミングを唇に乗せ、音と共に陰鬱な気持ちも吐き出してしまうように……ティエラは歌う。



「ティエラ?」

 彼女を呼ぶ声と共に、メロディは途切れ、草原に静寂が戻った。営地に群れる子羊たちの声と、吹き抜ける風の音。そして、草陰でミトラが身動きをする、かすかな音しか聞こえない。

 ティエラが振り向くと、少し離れた場所に零夜が立っていた。声が届いたことに、ひどく安堵しているように見えた。

「レイヤ。どうしてここが分かったの?」

「バータルに聞いたんだ。昼ごはんだから呼んできてくれって。その……体調は大丈夫?」

「うん、平気」

 遠見で激痛に見舞われたティエラを心配しているのだろう。負い目を感じさせるまいとティエラは微笑んだが、当の零夜はティエラの表情を見ておらず、微笑みは空振りに終わった。


 零夜は、あまり人と目を合わせようとしない。相手の正面より、少し下に逸らされる視線。これといって特徴のない素朴な顔つきに、右目を覆う青い痣だけが異様に目立っている。

 零夜の顔を見た人間の多くは、彼のことを顔立ちではなく痣で覚えるのかもしれない。ティエラは何となく、そう考えた。



「お腹すいたな。お昼ごはん何だろ」

「ナランがウサギを獲ってきたから、それだって」

「ナランに会ったの? 彼、面白い人でしょう」

 連れ立って営地に戻りながら、ティエラは零夜の横顔を盗み見る。やはり何度見ても、もうあの強烈な感情は湧き上がらない。しかし気のせいで片付けるには、あの白昼夢はあまりも鮮明で、鮮烈だった。


 横顔を横目で見ること三度目にして、どうやら零夜も、ちらちらとティエラを盗み見ていたらしく、両者の視線がかち合った。二人はお互い、反射的に目を反らす。

 気まずい空気の中、「あの……」と、先に切り出したのは零夜だった。

「さっき、歌ってたよね。あの歌って、何の歌?」

「子守歌よ。お母さんが、よく歌ってくれてたの」

 零夜は足元に視線を落とし、じっと考え込む。

「それって……ええと、アランジャの人たちがよく歌うの?」

「いいえ、みんなは何の歌か知らないって。私も、小さいころお母さんに歌ってもらったのを何となく覚えてるだけ」


 どこか腑に落ちない様子の零夜は、「そっか」と呟きうつむく。少し黙ったあとで、意を決したように「ティエラのお母さんに会って、詳しく聞けないかな」と言ったが、ティエラは首を横に振った。

「ごめんなさい。お母さん、もう死んじゃってるんだ」

「あ……ご、ごめん、無神経なこと言って」

「いいの。ずっと昔の話だから。でも、どうして知りたいの?」

 零夜は唇を少し舐めて考え、「知ってる歌だったから」と言った。彼が答えづらそうにしているのを見て、ティエラもそれ以上訊ねようとはしない。「そう」と会話を切ると、合いの手を入れるように、子羊がメエーと高く鳴いた。



 ウサギの肉はティエラの好物だ。それを知って、ナランは機会があればウサギを獲ってくる。

 口に運ぶ前に、零夜はまじまじと肉を見つめる。ウサギを食べたことがないの、とティエラが訊ねると、零夜は肉を頬張りながら頷いた。表情からして、零夜の口にも合ったようだ。


「毛皮はどうする? 要り用がなければ、町に出て売ってくるけど」

「春に産まれた子がいるでしょ。ハラヤさんとこの。あの子に上着を繕ってあげたいって、ユーイが言ってたわ」

「じゃあ、一つはユーイにあげちゃうかー」

 ナランとティエラは、毛皮の算用を話し合う。零夜は先ほどの会話の延長か、今までに食べたことのある肉について、バータルと話している。



 日常の、何ということのない会話を耳にし口にしながら、ティエラはその尊さを噛み締めるように目を細めた。今日この日が、自分に残されたわずかな時間の一端なのかもしれない。そんな考えが、ティエラの胸を締め付ける。

 糸紡ぎのイマジアを持つユーイは、紡いだ糸を染めるのも、服をこしらえるのも、とても上手だ。春に産まれた赤ん坊のために、ユーイがどんな服を作るのか。それを、ティエラは見届けられないかもしれない。ウサギを食べるのも、今日が最後になるかもしれない。


「ティエラ」

 名前を呼ばれ、ティエラは物思いのふちから戻る。ナランが、小さな白い骨にナイフの先をあてて削っている。形状から予想するに、髪につける飾り筒を掘っているのだろう。

「大丈夫だよ、ティエラ」と、ナランは手元から目を離さずに言った。「大丈夫。何もかも、きっと上手くいく」

 うん、と小さく返事をすると、ナランはやはり手元を見たままで微笑んだ。



 火を挟んで向こう側では、零夜が馬に乗れないという事実を知ったバータルが狼狽うろたえていた。零夜は恥の感情を頬に乗せて、「ごめん」としきりに謝っている。

 馬に乗れないなど、この辺りでは考えられないが、海の方まで行けばそういう人もいるかもしれない。別段謝るようなことではないが、零夜は本気で恥じているようだった。できないならば、これから練習すればいい。わざわざ恥じる必要などない。

 ティエラには零夜の、卑屈にも思えるほどの自信のなさが、不思議でならなかった。抜き身の短刀ひとつを手に、暴れ狂うノワケの懐へ飛び込んだ、ティエラの命を救った勇敢な人間と同一人物とは、とても思えない。


「じゃあ、バータルが教えてあげたら? 乗れないよりは乗れる方がいいでしょう」

 提案すると、零夜はまた、恥じ入るように視線を下げる。伏せられた目を、ティエラは遠慮なく見つめた。彼の態度へ対する呆れや苛立ちもあったが、それと同じ程度、興味もあった。


 どこから来たか分からない、自分の出自すら分からないという、不詳の人。祝福の言葉を忘失していながら、青い炎を操り、ミトラと話す神秘の人。生き別れた人を探すための遠見を、ティエラに痛い思いをさせたくないという、ただそのためだけに諦めた、甘く優しい人。

 零夜は、これまでにティエラが出会ってきた、どんな人とも違っていた。

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