その視線の先に
幼いころからティエラは、遠見の手伝いをしたあとは決まってこの丘へ来た。丘からは、空も山もよく見える。夜になれば淡いミトラの輝きが草原を満たし、足元にも星空が広がっているように思える。この丘から見る光景こそが、ティエラの原風景だった。
遠見は、ほとんどの場合、つらく苦しい。誰かの死が視えることもあるし、迫り来る
そんなときは丘の上から、遠く山の向こうへ呼び掛けるように歌を歌うのだ。そうすると、心の中にある悲しみや苦しみが歌声と共に身体の外へ出ていって、身体が軽くなっていくような気がする。
短いメロディを繰り返し口ずさみながら、ティエラはこれからのことを考えていた。これからのアランジャ族のこと。これからの自分のこと……。
楔との関係が悪化していることは、今やスチェスカ
ティエラは、女神の
これで良い。私の人生は、これで良い。
ようやく決心がついた矢先に、何の前触れもなく現れたのが零夜だった。どこからどうやって来たのか分からない、ミトラと話せる人間。
彼の力があれば……楔と話し、楔の真意さえ分かれば、もしかしたらティエラは生贄にならずに済み、アランジャはこれまでの平穏を取り戻せるかもしれない。
空から振ってきたような希望に、アランジャの年寄り方は喜び沸いていた。しかし零夜の存在は、ティエラの胸を、あまりよくない感情でざわめかせた。
ノワケの襲撃から助けられた時――あの枯茶色の、内気な瞳と目が合った時、奇妙な幻視がティエラを襲った。
まるで自分が、深く冷たい海の底に沈んでいくような感覚。そして頭に響く、聞き覚えのある旋律。それは確かに、今まさにティエラが口ずさんでいる歌にほかならなかった。
幼いころ死別した母親が、ティエラを寝付かせるために口ずさんだのがこの子守歌だ。吹きすさぶ風が獣の唸りを上げ、恐ろしくて眠れないと母に泣きついた夜も、その歌を聴くと不思議と安心し、いつの間にか夢の世界へ
その歌が、なぜあの時、頭に響いたのか。ティエラは納得のいく理由を見付けられずにいた。
そしてもうひとつ。幻視以上に奇妙だったのは、自分の中に湧き立った未知の感情だ。零夜の腕に抱きとめられた瞬間、強烈な叫びが胸の奥底に響いたのだ。
ようやく会えた。会いたかった――寂しかった!
それは明らかにティエラのものではない、身を裂くような切なる感情だった。ほんのわずかな間の出来事であり、あれ以降は、その感情は片鱗すら見えなくなってしまった。しかしあの瞬間は、自分が絶叫しているのではないかと錯覚するほどに強く、強く強く、不可解な感情に心を支配された。
あれはいったい何だったのか?
不吉な予感に、ティエラの表情が
不安を紛らわせようと、子守歌を口ずさむ。
歌詞はない。あるのかもしれないが、ティエラは知らない。ハミングを唇に乗せ、音と共に陰鬱な気持ちも吐き出してしまうように……ティエラは歌う。
「ティエラ?」
彼女を呼ぶ声と共に、メロディは途切れ、草原に静寂が戻った。営地に群れる子羊たちの声と、吹き抜ける風の音。そして、草陰でミトラが身動きをする、かすかな音しか聞こえない。
ティエラが振り向くと、少し離れた場所に零夜が立っていた。声が届いたことに、ひどく安堵しているように見えた。
「レイヤ。どうしてここが分かったの?」
「バータルに聞いたんだ。昼ごはんだから呼んできてくれって。その……体調は大丈夫?」
「うん、平気」
遠見で激痛に見舞われたティエラを心配しているのだろう。負い目を感じさせるまいとティエラは微笑んだが、当の零夜はティエラの表情を見ておらず、微笑みは空振りに終わった。
零夜は、あまり人と目を合わせようとしない。相手の正面より、少し下に逸らされる視線。これといって特徴のない素朴な顔つきに、右目を覆う青い痣だけが異様に目立っている。
零夜の顔を見た人間の多くは、彼のことを顔立ちではなく痣で覚えるのかもしれない。ティエラは何となく、そう考えた。
「お腹すいたな。お昼ごはん何だろ」
「ナランがウサギを獲ってきたから、それだって」
「ナランに会ったの? 彼、面白い人でしょう」
連れ立って営地に戻りながら、ティエラは零夜の横顔を盗み見る。やはり何度見ても、もうあの強烈な感情は湧き上がらない。しかし気のせいで片付けるには、あの白昼夢はあまりも鮮明で、鮮烈だった。
横顔を横目で見ること三度目にして、どうやら零夜も、ちらちらとティエラを盗み見ていたらしく、両者の視線がかち合った。二人はお互い、反射的に目を反らす。
気まずい空気の中、「あの……」と、先に切り出したのは零夜だった。
「さっき、歌ってたよね。あの歌って、何の歌?」
「子守歌よ。お母さんが、よく歌ってくれてたの」
零夜は足元に視線を落とし、じっと考え込む。
「それって……ええと、アランジャの人たちがよく歌うの?」
「いいえ、みんなは何の歌か知らないって。私も、小さいころお母さんに歌ってもらったのを何となく覚えてるだけ」
どこか腑に落ちない様子の零夜は、「そっか」と呟きうつむく。少し黙ったあとで、意を決したように「ティエラのお母さんに会って、詳しく聞けないかな」と言ったが、ティエラは首を横に振った。
「ごめんなさい。お母さん、もう死んじゃってるんだ」
「あ……ご、ごめん、無神経なこと言って」
「いいの。ずっと昔の話だから。でも、どうして知りたいの?」
零夜は唇を少し舐めて考え、「知ってる歌だったから」と言った。彼が答えづらそうにしているのを見て、ティエラもそれ以上訊ねようとはしない。「そう」と会話を切ると、合いの手を入れるように、子羊がメエーと高く鳴いた。
ウサギの肉はティエラの好物だ。それを知って、ナランは機会があればウサギを獲ってくる。
口に運ぶ前に、零夜はまじまじと肉を見つめる。ウサギを食べたことがないの、とティエラが訊ねると、零夜は肉を頬張りながら頷いた。表情からして、零夜の口にも合ったようだ。
「毛皮はどうする? 要り用がなければ、町に出て売ってくるけど」
「春に産まれた子がいるでしょ。ハラヤさんとこの。あの子に上着を繕ってあげたいって、ユーイが言ってたわ」
「じゃあ、一つはユーイにあげちゃうかー」
ナランとティエラは、毛皮の算用を話し合う。零夜は先ほどの会話の延長か、今までに食べたことのある肉について、バータルと話している。
日常の、何ということのない会話を耳にし口にしながら、ティエラはその尊さを噛み締めるように目を細めた。今日この日が、自分に残されたわずかな時間の一端なのかもしれない。そんな考えが、ティエラの胸を締め付ける。
糸紡ぎのイマジアを持つユーイは、紡いだ糸を染めるのも、服を
「ティエラ」
名前を呼ばれ、ティエラは物思いの
「大丈夫だよ、ティエラ」と、ナランは手元から目を離さずに言った。「大丈夫。何もかも、きっと上手くいく」
うん、と小さく返事をすると、ナランはやはり手元を見たままで微笑んだ。
火を挟んで向こう側では、零夜が馬に乗れないという事実を知ったバータルが
馬に乗れないなど、この辺りでは考えられないが、海の方まで行けばそういう人もいるかもしれない。別段謝るようなことではないが、零夜は本気で恥じているようだった。できないならば、これから練習すればいい。わざわざ恥じる必要などない。
ティエラには零夜の、卑屈にも思えるほどの自信のなさが、不思議でならなかった。抜き身の短刀ひとつを手に、暴れ狂うノワケの懐へ飛び込んだ、ティエラの命を救った勇敢な人間と同一人物とは、とても思えない。
「じゃあ、バータルが教えてあげたら? 乗れないよりは乗れる方がいいでしょう」
提案すると、零夜はまた、恥じ入るように視線を下げる。伏せられた目を、ティエラは遠慮なく見つめた。彼の態度へ対する呆れや苛立ちもあったが、それと同じ程度、興味もあった。
どこから来たか分からない、自分の出自すら分からないという、不詳の人。祝福の言葉を忘失していながら、青い炎を操り、ミトラと話す神秘の人。生き別れた人を探すための遠見を、ティエラに痛い思いをさせたくないという、ただそのためだけに諦めた、甘く優しい人。
零夜は、これまでにティエラが出会ってきた、どんな人とも違っていた。
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