希望への出立


「いってえ!」

 乗馬の練習のため痛む尻を思いきり叩かれ、零夜は間抜けに叫んだ。絶対わざとだ、と恨みがましくキヤを睨むと、やはりわざとだったらしく、にやにやと笑っている。

「よう、なんとかサマにはなってるみたいだな」

 零夜は案外すじが良く、馬に慣れるのも早かった。ただ初日は、くらが合っていなかったせいもあり、主に臀部を中心とした下半身にダメージを負うこととなった。


 バータルのイマジアは癒やしの力で、鞍擦れをいとも簡単に治してみせる。彼のイマジアにはキヤも世話になっており、零夜とキヤは、バータルの幕家でよく顔を合わせた。

 イマジアによる治療とはいえ、傷を埋めるための血も肉も患者の身体に由来する。そのため傷を一気に治すと身体への負担が大きく、キヤは何度かに分けて治療を受けているのだという。

 零夜はただの鞍擦れなのですぐに終わるのだが、なにせ毎日のことなので、必然的に何度もバータルの世話になることになる。二人は傷を治してもらいながら、次第に打ち解けていった。


 キヤの傷――肋骨の骨折と内臓の損傷は、随分よくなったようだ。

「気合い入れろよレイヤ。いよいよ楔に会いに行くんだからな。尻をズル剥けさせてる場合じゃねえぞ」

「その言いかたやめろ。っていうか、だったら悪化させるようなことするなよ」

 再び振り上げられたキヤの手を軽めに叩き落とすと、キヤはけらけらと笑った。


 護衛として楔との対話について行く以上、キヤにも危険は伴うはずなのだが、どうにもキヤには緊張感というものがない。あるいは、この程度の危険ならば、キヤにとってはあってないようなものなのかもしれない。彼の豪胆さを見習いたいものだが、そこは一朝一夕の訓練でどうにかなるものでもない。


 キヤの性質を欲しがるよりも、零夜のすべきことは、とにかく馬に乗り馬に慣れることだ。暇さえあればバータルたちに頼んで、馬に乗せてもらった。ヒルカンという名の栗毛の馬が、零夜を気に入ったようだった。

 ヒルカンは穏やかだが気ままな馬で、時おり零夜の意図を無視して勝手に早駆けをした。それでも落馬するほど暴れないのは、ヒルカンの優しさと賢さゆえなのだろう。

 まだ、一人で手綱を操るには心もとない。バータルにかたわらで控えてもらい、馬に先導されつつ草原を駆けた。丘のもっと向こうへ行ったり、窪地のそばにある村の近くまで走ったり、乗馬の練習は案外楽しくて、思いがけず良い気晴らしとなった。



「やあ、随分慣れたな」

 ようやく手綱裁きも板についてきて、初めて一人だけで草原の中ほどまで馬を走らせた日。ちょっとした達成感に浸っている零夜に、あとから追いついて来たバータルが笑顔で手を振った。零夜は「うん」と答えたあとで、「おかげさまで」と付け加える。

 今日も、草原には穏やかな風が吹いている。ヒルカンが鼻をひくつかせた。イグ・ムヮの風は山から海に向かって吹く。昼夜問わず、この風向きは変わらない。零夜は無意識に、風の吹いてくる方――草原地帯の向こうの山に視線を向けた。


「あそこに、楔の棲む風穴がある」

零夜の視線の先を指差しながら、バータルが言った。光の加減だろうか、山腹には黒く塗り潰されたように見える一部分があり、バータルはしっかりそこを指差している。

あの闇の奥に、大山風おおやまじの楔が棲まうのだ。そう考えると、昨日まではただの風景でしかなかった山が、意思を持って零夜の前にそびえ立っているように思えた。


速歩はやあしのイマジアを使えばすぐなんだが、今は速歩の使える者は、ほとんど街や港に出ているからな。営地に残っているのはリクザだけだが、彼だけではせいぜい二人しか運べないし……」

「速歩のイマジアって……走るのがすごく速い、とか?」

「そんなところだ。速歩の者たちは毛皮や肉を持って街へ行き、我々の生活では手に入らないものと換えて帰ってくる。ほら、向こうに小さく海が見えるだろう。海辺に大きな港街があるんだ。レイヤは、海を見たことがあるか?」

 零夜は頷いた。「そうか」とバータルは短く答える。きっとこの営地に暮らす人々の中には、海を見たことがない人も多くいるのだろう。


 零夜にとっては異世界であるこの地に生まれ、この地で生き、この地のほかを知らない人々。本来ならば、彼らと決して交わることなどなかったであろう零夜が、今ここにいて、同じ風に吹かれている。それを考えると、不思議な気分だった。


「あの川が、海に流れこんでいるんだ」

 バータルは、楔の山よりいくらか東寄りの辺りを指差した。夕日に赤く煌めく光のすじが、長くたおやかに伸び、青々とした草原を横切っている。

「楔の山から流れで、我々に恵みをもたらしてくれる。この地にあるものは全て、俺たちを育んだ父であり母だ。その恵みが、人間への憎しみに染まりきってしまうところは見たくない」

 零夜はじっとバータルの言葉に聞き入る。ヒルカンも聞いているのか、草を食むでもなく、おとなしく立ち止まっている。


「レイヤ。ミトラと話せるきみの力があれば、きっと事態は好転する」

 バータルの両眼には、深い決意と憂いがたたえられていた。

「よろしく頼む」

 零夜の返事は、風に掻き消される。乾いた空気。草の匂いのする風に吹き払われるかのように、出発までの七日間は、あっという間に過ぎていった。





「どう? 身体に合うように、仕立て直してみたのだけど」

 ナシパに手渡された上着に袖を通すと、それは軽い割りにとても暖かかった。袖や襟元には毛皮が縫い付けられており、これならば長時間馬を走らせても身体が冷える心配はなさそうだ。

 ナシパの長男のものだったという上着には、それほど華美な刺繍はされていないものの、裏地にひっそりと布護符が縫い付けられている。上等そうなものなのに貰ってしまってもいいのかと零夜が訊ねると、ナシパは「いいのよ。着る人がいないんじゃ、服も可哀想だもの」と言った。その言葉の意味は尋ねなかった。


「ありがとうございます。大切に着ます」

 零夜が礼を言うと、ナシパは微笑んだあとで短く息を吐いた。あかぎれのした手を、零夜の頬に添える。自分の母もこんなふうに、しなやかな手を日々の暮らしに傷めていただろうか。考えても、どうしても思い出せなかった。


「レイヤさん、くれぐれも、お気をつけて。私たちが、行きずりのあなたに頼りすぎていること、どうか許してね」

「いいんです、そんな……」

 そのあとに続けるべき言葉を探した。お世話になっていますからとか、親友を見付けるためですからとか、現実に即した理由はふさわしくないような気がした。もっと情緒に根付いた動機が、零夜の中にある。


 わけも分からないままに異世界へ迷い込み、怪物に襲われるわ理仁りひととははぐれるわ、散々な目に遭った。アランジャの人々がこれほどまでに親身に接してくれなければ、零夜の心はとっくに折れていただろう。

 彼らは零夜を女神のつかいのようだと言ったが、零夜にしてみれば、彼らアランジャ族こそが天の助けだったのだ。

「俺、アランジャの人たちが好きだから。力になれるなら、それが嬉しいんです」

「……そうなの」

 微笑んだナシパの目尻に、煌めくものが見えた気がした。


「あ、レイヤさん、ここにいた」

 なかなか現れない零夜を迎えに来たのは、ユーイだった。ティエラとカルムがミトラに襲われていた際、彼らの危機を真っ先に営地へ知らせに来たこの少女は、あの件以来、零夜によく懐いていた。

「レイヤさん、みんな待ってるよ。準備はできた?」

「うん、すぐ行く。じゃあナシパさん、行ってきます」

 行ってらっしゃい。という柔らかな声が、零夜の背中を押した。



 外へ出ると、ユーイの言う通り、皆すでに支度を終えて零夜を待っていた。ヒルカンまでもが「遅いぞ」とでも言いたげに、ぶるりと上唇を震わせる。

「待って、レイヤさん。これ」

 隊へ加わろうとした零夜を引き止め、ユーイが何かを差し出した。受け取ると、それは鮮やかな赤い糸で編まれた護符だった。

「私、糸紡ぎのイマジアなの。私が紡いだ糸でお守りを作ったから、レイヤさんにあげる。お話し合いが無事に終わりますようにって、お祈りをこめたから」

 キヤが護符を見せびらかすように顔の前に掲げながら、「俺も貰ったぞ」と笑う。バータルもナランもトモルも皆、首から同じものを下げている。


「ありがとう。頑張ってくる」

 零夜たちを見送る面々の中に、ティエラの姿も見えた。交渉の結果によっては自分が生贄として捧げられるというのに、彼女はいたって平然としていた。零夜の視線に気が付き、青い瞳が揺れる。

 いってらっしゃい。彼女の唇がそう動いた。零夜は微笑みを返そうとしたが、唇の端が奇妙に痙攣しただけだった。


「では、行って参ります」

 バータルがかしこまって言うと、アルヌルが重々しく頷いた。そして一行は出発する。大山風の楔、神と崇められるミトラの元へ。



 ヒルカンの背に揺られながら、零夜は目的地である山を見やった。山は空を背景に、影絵のように浮き上がり、いやに存在を主張している。早朝の空の青は、ティエラの瞳よりもずっと明るく淡い。


 出会ったばかりだというのに、あの少女のために頑張りたいなどと思うのは、自己陶酔が過ぎるだろうか。零夜は自問するが、しかし、そう思う自分がいるのも確かだった。

 あの子を生贄になんてさせたくない。ティエラはちょうど、妹の美和と同じ歳のころだ。面影を重ねずにはいられなかった。


 零夜の胸で、ユーイがくれた赤い護符が揺れる。

(美和が作ったミサンガ、貰っておけばよかったな……)

 少し呼吸が苦しくなったのは、冷たい空気に、肺がかじかんだせいかもしれない。

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