いずこよりかの子守唄


「レイヤはやっぱり、なにかと防御一辺倒なのがいけないと思うのよね」

 昼食に挽き肉入りのパンをつまみながら、戦闘訓練の反省会に花が咲く。ティエラの論調にキヤが同意し、「もっと攻撃的に行こうぜ」などとアドバイスをする。零夜としては、気の持ちよう以外のアドバイスを欲していたのだが、意外にもそちらの指摘点はほとんどないようだった。


「レイヤは、優しすぎるんだと思うわ」

 一通り食べ終わり、満足げに肘をついたティエラが言う。

「さっきも言ったけどさ。昨日だって、あんなにダンニールに怒ってたのに。私の話を聞いたらすぐダンニールに同情して、怒ってたのなんて忘れちゃったでしょ?」

「お、それ何の話だ?」

 キヤが好奇心満々で食いつき、零夜が気をつかって話さなかったダンニールの生い立ちが白日の下に晒されることとなる。

 しかしキヤにとって、彼の境遇はそう珍しいものと思えなかったらしい。「ま、よくあることだな」と無関心に言い放つ。

「対立する双方の血を持つ人間は、生まれながらの裏切り者みたいなもんだ」

「そんな言い方ないだろ」

 零夜が反論すると、キヤは心外そうに右頬を歪める。

「俺がそう思ってるんじゃなくて、そういうふうにみなされるって話だよ」

「言い方の問題だよ」

「言い方を変えたところで、現実が変わるわけじゃないだろ」

「でも」

 言い争いに発展しそうになったところに、タイミング良くアリエがデザートの皿を持ってきた。深皿に盛られたヨーグルトをそれぞれ小皿にぎ、乾燥ナツメを乗せる。爽やかな味が、無益な口論をかき消していく。



「でもさあ、レイヤ」

 小皿のふちについたヨーグルトをスプーンで掻き取りながら、間延びした声でティエラが言う。

「ダンニールの性根が悪いのはホントのことなんだから、嫌なこと言われたって、いちいち同情して我慢することなんてないんだからね」

 付け上がるんだから。と言うティエラは、何かを思い出しているように苦々しげな表情だ。「付け上がらせたのか?」と深入りするのはやはりキヤで、ティエラはにやりと笑って「まあね」と答える。

「レイヤには言ったっけ? 私の両親も政略結婚なのよね。だから、何となく分かるのよ。ダンニールの気持ち。生まれたときから、勝手に『友好の証』にされるのって、ちょっと息が詰まるのよね」

 長い溜息。軽く言ってはいるが、ティエラの細い両肩にも、他者からの一方的な期待が重くのしかかっているのだろう。しかしそうした彼女の、似通った境遇としての同情……もしくは共感も、あのダンニールには一蹴されたに違いない。


「とにかく、私はもう、あの人は嫌いなの。一時期は縁談もあったみたいだけど、破談になってよかったわ」

「え、縁談って、ダンニールとティエラの?」

「そうよ」

 何ということもないという調子で、ティエラは肯定した。零夜はアランジャ族の婚姻事情については全く知識がなかったが、話を聞くに男子は二十歳を過ぎてから、女子は十六、七頃に結婚するのが一般的らしい。ティエラは十六歳なので、彼らの文化的にはまさに結婚適齢期というわけだった。

「でも、縁談か……。アランジャ族って……そのー、えーと、恋愛結婚……とかじゃ、ないの?」

「半々くらいかな。でも、私は恋愛結婚なんてまず無理よ。ほら、この色でしょ」

 窓から差し込む光に、青色が煌めいた。混じりけのないこの青色は宗教的に――あるいは政治的に――零夜が知識として理解しているよりも、ずっと重い意味を持つのだった。

「それに私、族長の娘だから」

「えっ」

 驚きの声を出したのは零夜だけだった。キヤは「やっぱりな」という顔をして、驚く零夜の横顔を横目で見る。当のティエラは「言ってなかったっけ?」と口をすぼめた。


「族長さんって、アルヌルさんのことだよね。ティエラのお父さんだったんだ。そんなふうには見えなかったけど……あ、」

 失礼なことを口走ってしまったことに気が付き、零夜は「ごめん」と即座に謝る。しかしつい口に出てしまうほど、二人が全く親子に見えなかったのは事実だ。

「人前でお父さんって呼んだら怒られるから、私もみんなと同じように族長アヴニって呼んでるんだ。だからかな?」

「……でも、そしたらあの時……ティエラが楔への生贄になるって話の時……」

 零夜が言わんとしていることを察して、ティエラは口元に微笑を浮かべた。「そうだよ」と肯定する声は低く落ち着いている。

「お父さんは、私を生贄に選んだ。私が一番、生贄としてふさわしかったから。族長として正しい判断だわ」

「……」


「あのね、誤解しないでほしいんだけど」

 ティエラが前のめりになった拍子に、木製のスプーンが小皿のふちを叩いて乾いた音を立てる。

「お父さんは、ちゃんと私を愛してるんだよ。ただ、背負っているものが大きすぎて、時には私を投げ出しても守らなきゃいけないものがある。それだけ」

「うん。……分かってる」

 楔の騒動が落着したとき、アルヌルは零夜の手をしっかりと握りながら、絞り出すような声で「ありがとう」と言った。その言葉に含まれていた切実さが、今になってよく理解できる。

 父親の愛情深さを理解してもらえたことが嬉しいのか、ティエラは声を潜めて笑う。

「ふふふ、二人が見たら驚くよ。お父さんったら、ホントは私に甘くってしょうがないんだから」

「それは……全然想像がつかないな」

「でしょ? お母さんとも、すっごく仲が良かったんだって。この髪の色、お母さん譲りなんだ」

 ティエラは誇らしげに、美しい青い髪をなびかせる。彼女の母親も、女神を象徴する聖なる色を持っていたのだ。


(ティエラのお母さん……あの歌を知ってた人……)

 耳の奥で、消え入りそうなオルゴールの音が鳴る。この世界に来て唯一見付けた、元の世界との小さな接点。色々なことがありすぎて、この歌についてティエラに聞くのをすっかり忘れていた。

 これは、今が好機というやつかもしれない。「あのさ」と、零夜は話を切り出してみる。

「もしティエラが嫌じゃなかったら……ティエラのお母さんの話を、聞かせてくれないかな」

 隣に座るキヤをちらりと見る。彼が「さっさと訓練に戻るぞ」と言い出さないかだけが心配だったが、ティエラが歌っていた子守唄が零夜のに存在する曲と同じものだと説明すると、幸いキヤの興味を惹けたようだった。彼はヨーグルト用のナツメを直につまみながら、「へえ」と声をこぼす。ティエラも似たような反応で、「そうなの?」と青い目を丸くした。

「聞いても良い?」と改めて尋ねると、ティエラは嬉しそうに頷いた。

「もちろん。記憶がないって、きっと凄く不安だと思うし、気にしないで何でも聞いて」

「ありがとう」


「えーっと、そしたら何を話せば良いのかな。お母さんのこと? お母さん、ヤクトーニカ族の人なの。ヤクトーニカっていうのは、イグ・ムヮを流れる川をずっと上流に辿っていった先の、高い山の向こうに住んでる一族よ。アランジャ族とヤクトーニカ族との友好の証として、お父さん……アルヌル・スチェスカのところに嫁いできたのがお母さん。お母さんが、私と同じくらいの歳だった頃じゃないかな」

 ティエラは弾んだ声で、人づてに聞いたのであろう母親の思い出を、実に嬉しそうに語った。自分のルーツである両親が、心底誇らしくて仕方ないといった様子だ。

 ティエラが身振り手振りを交えて話す婚姻譚は、実に情趣に富んだものだった。


 豪奢な花嫁衣装に身を包んだ少女サルヒは、七日七晩かけて山を越え、アランジャの里へやって来た。ヤクトーニカの特産である青い宝石を散りばめた衣装は、イグ・ムヮでは到底見られないほど神秘的なものであり、花嫁の姿はまさに女神のようだった。

 彼女は、初めはアランジャ族の慣習に上手く馴染めず、夫であるアルヌルとも険悪な仲だったそうだ。しかし春の訪れと共に雪が解けていくように、夫婦は次第に打ち解け、愛を育んだ。

 やがて二人の間には、何にも代えがたい愛しい娘が誕生する。娘は両親からの愛を一身に受け、すくすくと成長する。しかし、瑕のない幸福の日々は、長くは続かなかった……。


「私が三つの時、お母さんは病気になっちゃって、玉依たまよりの祠に籠もったの。玉依の祠っていうのは、イグ・ムヮのずっと奥……楔の山の近くにある洞窟よ。たとえどんな大怪我をしていても、不治の病を抱えていても、祠に籠もった者がであれば、玉依の祠が生かしてくれるの。……お母さんは、帰ってこられなかったけど……」

 そう語るティエラの声に、まだ幼い子供のような響きがわずかに滲んだ。母親の話は、それが楽しい記憶であろうと悲しい記憶であろうと、ティエラの心から容赦なく「幼い」部分を引っ張り出すのだろうと、零夜は思った。


「それから……えっと、あの歌について話した方が良いんだよね? って言っても、歌ってくれる声がすっごく優しかったこととか、あの歌を聞いたらすぐ眠くなっちゃったこととか、そんなことしか覚えてないんだけど」

 幼くして死別した母親のことなど、その程度の記憶しかなくて当然だろう。零夜が肩を落としかけたとき、ティエラが小さく「あ」と声を漏らした。

「そういえばお母さん、これは私の歌だって言ってたかも」


 期待の込もった枯茶色の瞳が、ティエラを真正面から捉えた。普段は俯いてばかりの零夜に見据えられ、わずかにたじろぎながら、ティエラは両手を顔の前で振ってみせる。

「すっごくどうでもいいことかも知れないけど。お母さん、あの歌を歌うときはいつも『これはティエラの歌よ』って言ってたような……」

「ティエラの歌……」

「多分、私を寝かしつけるために歌ってたから、そういう言い方をしてたんだと思う。……ごめんね。助けになれなくて」

「いや、良いんだ。どんな情報でも嬉しいから」

 彼女が心苦しく思う必要はどこにもない。零夜が笑うと、ティエラも同じように口の端を緩ませる。



 途切れた会話の合間に、ティエラがあの歌を口ずさむ。キヤが「綺麗な歌だな」と呟く。それに小さく頷いて、零夜は視線を伏せる。やはりどう聞いても、この歌は確かに「ブラームスの子守唄」だった。

 美和みかずの病室で、漂白された空気を震わせていたオルゴールが、繰り返し繰り返し奏でていたメロディ。これが偶然の一致であるのか、あるいは運命とも呼ぶべき強大な繋がりがあるのか、零夜には判別がつかなかった。


「変なこと聞くみたいだけど……お母さんは、俺みたいな境遇じゃなかった? お母さんじゃなくても、お母さんと親しい人とかが……」

 零夜が尋ねると、ティエラは歌うのをやめて考え込む。

「レイヤみたいな境遇って、記憶がないってこと?」

「とか……自分の故郷がわからないとか。……すごく、遠くから来たとか」

「お母さんは間違いなくヤクトーニカ族の人だし、お母さんの血縁の人までは分からないけど……少なくとも今まで一度も、そんな話は聞いたことないかな」

「そっか……」


 あるいは、と考えていた仮説は早くも行き詰まる。

 ティエラの母親がなぜ「ブラームスの子守唄」を知っていたのか。最も単純な仮説は――彼女もまた、零夜と同じ世界からやって来た「異世界人」だったのではないか? というものだった。しかし、この世界での血縁がはっきりしているのならば、その仮説は成り立たない。

 よく考えてみれば、青い髪などという「現実離れした」色を持つ人間が、零夜と同じ世界の出身であるわけがなかった。その点に遅れて気が付き、零夜は内心で落胆する。

 もうひとつ考えられる可能性としては、彼女の周囲に異世界人がおり、ブラームスの子守唄を伝えたというものだが、その仮説はもはや検証のしようがない。



「でも、不思議なもんだな。ティエラの母親が歌ってた歌を、レイヤが知ってるとは……。もしかしてお前、ヤクトーニカの出身なんじゃないか?」

「う……ん、どうかな」

「そういえばレイヤって、家族のことは覚えてるんだっけ」

 少し気づかうような声色で、ティエラが言った。「家族」という言葉が零夜の頬を弾く。


 まず妹の顔が、零夜の脳裏に蘇った。次に母親の顔、そして父親の顔。記憶の中の美和は病室のベッドに座ったまま、逆光の中で笑顔を浮かべている。その傍らに、心細げな顔をしている母親の姿。一度まばたきをすると二人の姿はかき消え、父親の後ろ姿が現れた。相変わらず、世界の重圧に負けてしまったような酷い猫背で、深くうなだれていた。

「うん、覚えてるよ」

 しばらくの間ののちに、零夜は思い出したようにティエラの問いに答えた。

「両親と妹。妹はちょうど、ティエラと同じくらいの歳かな」

「へえ。レイヤってお兄ちゃんなんだ。ちょっと意外かも」

 いたずらっぽく笑うティエラに、美和の面影が重なる。帰るあてがない以上、元の世界のことはあまり考えないようにしていた。学校、友達、両親、そして何より妹――思い出すと、蓋をしている感情が溢れ出してしまいそうだった。


「レイヤが探してる友達が見つかったら、故郷ふるさとのこともきっと思い出せるよね。そしたら、レイヤは故郷に帰るんでしょう。私、レイヤの家族に会ってみたいな」

 恐らく不可能であろう小さな願望に、零夜の頬に弱気な笑みが広がる。

 あの真っ白な病室に、もしティエラを連れて行くことが出来たら……彼女の青い瞳や髪を、美和はさぞ珍しがるだろう。天真爛漫な二人の少女はすぐに打ち解け、肩をつつき合い、額を寄せ合い、きゃらきゃらと眩しい笑い声を立ててはしゃぐに違いない。



 ふと――零夜は胸の奥が、未知の感覚でうずくのを感じた。零夜がこの異世界に迷い込まなければ、目の前の少女と出会うことは決してなかった。彼女がティエラ・スチェスカという名前だということも、彼女の歌声がオカリナのように素朴で澄んでいることも、海色の瞳が時おり不思議に深い光を瞬かせることも、一生涯知ることはなかったのだ。

 そして元の世界に帰ってしまえば、もう二度と、彼女に会うことは出来なくなる。

 この出会いは、運命の奔流の中で一瞬触れ合った木の葉のようなものだった。ティエラだけでない、キヤも、カルムも、アランジャ族やプラド村の人々も……。零夜がここに来なければ、会うこともなかった人々。存在することすら知り得なかった人々だ。

 零夜の胸を引っ掻いた感情は、はかない奇跡に対する祝福であり、そしてそれ以上の――途方もなく巨大な何かへ対する恐怖だった。


 流れ惑う木の葉に必死にしがみつき、自分一人が溺れないようにするだけで精一杯な日々。そんな中で、理仁を探し出して、元の世界に帰る手段も探し出す。それがどんなに困難なことなのか。考え始めると、足元が音を立てて崩れていくような錯覚に陥る。

 一体どういった覚悟で運命に臨めばいいのか、零夜にはさっぱり分からなかった。何が最善なのか、どうすれば正解にたどり着けるのか、見当すらつけられない。

 弱気になりかけた思考に、「それでも」と強い声が入り込む。それでも、進まなくてはならない。小舟で嵐に漕ぎ出すような無謀なのだとしても、行かなければならないのだ。あの白い病室で待つ妹のために。彼女のかたわらに、恋人を帰してやるために。

「話が聞けてよかったよ。ありがとう」

 ティエラに向かって微笑むと、彼女は「どういたしまして」と照れくさそうに笑った。



 話が一段落したところを見計らって、カウンターの向こうで繕い仕事をしていたアリエが寄ってきた。

「ティエラさん。さっきの歌って、なんの歌? とっても素敵だった」

「えへへ、アリエも一緒に歌う?」

 二人の少女の歌声が、ブラームスの子守唄を奏でる。二人はそうと知らないだろうが、これは遠い遠い異世界の歌だ。本来ならば、彼女たちは決して知り得ない歌。この世界では奏でられるはずのないメロディ。


(お前は一体、どこから来たんだ?)

 耳をくすぐる心地良い音楽に、零夜はそっと尋ねる。答えが返ってくるはずもなく、歌は伸びやかに窓を抜け、異世界の空に飛び去っていった。

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