イグ・ムヮの動乱編
闇を追い行く
走る馬の前を、銀色の光が先導するように流れている。キヤはその光から目を離さないように、慎重に馬を走らせていた。
ヒルカンは乗り手が変わったことに、もちろん気が付いているだろう。キヤは手綱裁きも何もかも零夜より大胆で、しかしヒルカンはその変化にも嫌がることなく足を進める。
イグ・ムヮは今、不気味なほどに静まり返っていた。風は吹いている。途切れることなく、一切の緩急もなく、海から山へ向けて不自然に吹き続けている。
草原を照らすミトラの光は忽然と失せ、光といえば星と月から注がれるわずかのものばかりだ。それでも進行方向に煌めく銀色は、まるでそのものが発光しているかのように光を反射して瞬いていた。いや、あるいは――本当に発光しているのだろうか。
銀色は時おり、その頭部らしき器官をぐるりと後ろへ向けて、キヤが追ってきているかどうかを確認した。距離が開いていれば立ち止まり、キヤが追いついたころにまた走り出した。滑るように――
「ん、あれは……」
遠くの闇の中に、人工の光群が見えた。十人ほどが一団になって、馬を走らせているようだ。キヤは、自分の持っていたカンテラをマントに隠す。しかし向こうからも既に、キヤの持つ光は見えていたのだろう。橙色の光はキヤの方へと向きを定め、近寄ってくる。相手も馬に乗っている。
「……アランジャの者か」
光に反射した、煌びやかな装飾の馬具は、アランジャ族の工芸品だ。キヤは警戒を解き、馬上から大きくカンテラを振った。向こうも応答した。
キヤが真面目に追ってきていないことに気が付いて、銀色の光が何事か文句を言った。キヤは「ちょっと待ってくれ!」とミトラに叫んで、またカンテラを振る。こうしてミトラに声をかける癖がついたのは、当たり前のようにミトラと話す、あの少年のせいだった。
「キヤ!」
駆けてきた一団の先頭は、バータルだった。その後ろにはリクザの姿も見える。ほかにも、アランジャの営地で見知った顔がいくつも、険しい表情で並んでいる。
「無事だったのか。プラド村で何があった? ティエラとカルム様は?」
「時間がない。簡潔に言うが、あんたらのとこのお姫さんが連れ去られた」
夜の中で広がったバータルの瞳孔が、更に大きく拡大した。反射的に膨れ上がったその激情を隠すかのように、バータルは目を細める。
「……ゼーゲンガルトの連中か?」
「いや、連れ去ったのは異形の何かだ。『何か』としか言いようがない。あれは人間じゃなかった。とにかく俺は、それを追ってる。あいつが」
キヤは、少し離れたところで困ったように立ち止まっている、銀色のミトラを指差した。
「案内してくれている。多分な」
「多分?」
「レイヤがいないことには、ミトラの考えてることなんて分からんからな。だがあのミトラはレイヤとは見知った仲のようだったし、レイヤはあれに先導を頼んだ。今はあれを追うほか手立てがない」
「……」
果たして、この話が本当なのか。見極めるように黙り込むバータルに、キヤは苛々と手綱を握りなおす。
「時間がないと言っただろ。何人かついてきてくれるとありがたいが、俺の言うことが信じられんと言うなら、俺一人で行くぜ」
「待て、キヤ」
バータルは銀色のミトラを、鋭い視線で一瞥した。そしてすぐに、今にも馬を走らせそうなキヤに視線を向ける。
「俺も行く。カハルとトモル、それからサヌーイ。俺と一緒に来てくれ。ほかの者は村へ。カルム様を探すんだ」
アランジャの面々は、無言でうなずいた。剣の達人であるトモルと、弓の達人であるサヌーイ。カハルは営地いちの剛腕だ。バータルがこの後なにを想定しているのかはキヤの目にも明白で、そしてその判断は恐らく正しかった。
「行くぞ、早く」
バータルらを急かして、キヤは馬体を軽く蹴った。ヒルカンは軽快に走り出し、それを見た銀色のミトラも、先導を再開する。
「キヤ、走りながらで良い。説明してくれ。プラド村で何があった?」
馬を並走させながら、バータルが尋ねる。キヤは目の前を行く銀色から目を離さずに、しかし表情はあの惨事を思い出してわずかに歪む。
「正直なところ、本当に何が起こったのかは俺にも分からん。あの場にいた誰も分かっちゃいない。夜になって、嵐が山から降りてきたんだ。風が、プラドの村を破壊し尽くした」
プラド村で異端が出たこと。発症前に異端審問官が到着し、異端は問題なく『処理』されたこと。しかしその夜、意思を持つ嵐が村を襲ったこと。その嵐と共に現れた男が、ティエラを連れ去ったこと。
それらを簡潔に説明する。
キヤが目撃したものは、実のところそれほど多くはなかった。断言できることといったら、あの嵐が異様であったこと、嵐を引き連れてやって来た男が、とても人間とは思えない何かであったことくらいだ。
「そいつはどうやら、最初からティエラを狙っていたらしい。俺たちを殺すよりも、ティエラを連れ去る方を優先した」
「異形の男の正体に、心当たりは?」
「いや、……どうかな」
言葉も態度もいつもはっきりとしているキヤにしては、珍しく煮え切らない答えだった。
「あるんだな?」
バータルが答えを促すと、
「敵は、
キヤは、彼にしては珍しい早口でそう言った。そして、わずかに顔をしかめる。認めたくない事実を認めざるを得なくなった時の、自棄的な感情を伴う表情だった。
キヤの言葉に、誰も、何も言わない。説明を求められているのかと思い、キヤは口を開きかける。しかしその前にカハルが「あり得ない」と反論した。
「その男は、人間の姿をしていたんだろ? 大山風の楔は神と言えど……ミトラだ。ミトラは人間の姿にはなれない」
「ああ。だが、多分間違いない。これは俺の……直感みたいなもんだが」
「直感だけで、それほど突飛な話を信じられるか?」
カハルの言うことはもっともだった。ミトラはあらゆる生き物の姿を取るが、人間の姿にだけはなれない。この世界では絶対の事実として認識されている、いわば常識だ。それがキヤの直感ひとつで覆るわけがない。
しかしバータルは、険しい顔をしながらも「あり得るかもしれない」と呟いた。
「楔の騒動の後、レイヤに聞いた話をずっと考えていたんだ。大山風の楔が言っていた『核』とは何なのか。ミトラの力を大幅に強化するものだということは分かる。レイヤの体を乗っ取った男……アイラに核を奪われた楔は、急速に弱体化していった。そうだったな?」
キヤが頷く。そしてバータルの次の言葉を待たないうちに「そうか」と呟いた。
「楔の『核』は楔自身のものじゃなかった。誰かから奪った、もしくは譲り受けた。だからアイラに回収されたんだ。そうすると、最初に楔に『核』を与えた人物が……」
「そう。再び『核』を楔に与えた可能性がある。もし仮に、その『核』が前回のものよりも強大なものだとしたら?」
「……『核』の力を借りて、楔が、人間の姿になった?」
そんなことがあり得るのか。その疑問を口にしたのは、カハルとサヌーイだけだった。楔と対峙したあの場にいた者たちは、それがあり得るかもしれないことを分かっていた。
ハロ……あの銀色の髪をした、美しい異形の何か。あれは果たして人間であったのか。ミトラは絶対に人間の姿になれないと、本当に言い切れるのか?
「……敵の正体について、ここで断定はしない」
埒が明かないと思ったのか、バータルがそう言って議論を断ち切った。
「ただ、敵が人間離れした力を持っていることは確かだ。それだけは念頭に置いておこう」
そして一行は、シュラムフラの導きに従って山を目指す。シュラムフラは背後の人間たちが増えたことを不思議がってはいるようだったが、特にそれを警戒することもなく、進行を続ける。
村を出た頃にはあちこち逃げ回っていたミトラたちの姿は、もうどこにも見当たらなかった。みな逃げてしまったのか、あるいはどこかに身を潜めているのか……静かだった。
戦闘に備えるため、先へ進みながらそれぞれの保有する武力を確認する。カハルは身体強化のイマジア。彼の投擲をまともに受けると、肉体に穴が穿たれるほどだという。サヌーイは弓のイマジア。遠くの目標、直線上にない目標にも正確に弓を射ることができる。
トモルとバータルのイマジアは、今さら確認するまでもない。キヤの雷撃の実力も、アランジャの皆々の知るところである。精鋭と言って過分ない面子だった。しかし、キヤの胸中に淀む戦慄は、未だ絶えることがない。この面子でも、果たしてあれに対抗できるかどうか、怪しいところだ。
(せめてあいつがいればな……)
そう考えて、自分が思いのほか彼をあてにしていることに気が付き、密かに苦笑する。頼りなく、片手でどついただけでよろけるような軟弱な男ではあるが、彼の持つ力は頼るに値する。あの青い炎、そしてミトラと話す能力。
肩越しに振り返っても、もうプラドの灯りは見えなかった。プラド村の騒ぎはどうなっただろう。
村人たちも、役人連中も、異端騒ぎに続いて襲い来た脅威に、気が立っていたに違いない。その元凶――そうではないのだが、そうとしか思えない人物――を捕まえたとき、果たして人心は正常でいられるだろうか。
「死ぬなよ、レイヤ」
キヤの呟きは流れる風に溶けていく。赤い目が細められた。こんなところで死んでもらっては困る。ヒルカンの横腹を軽く蹴ると、ヒルカンは速度を上げて大地を蹴った。目前を行く銀色との距離が、少しだけ縮まった。
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