ミトラの言葉
ナシパに示された竈を覗けば、そこに火の気配はなく、冷たい灰が敷き詰められているばかりだった。しかしよく見ると、灰がわずかに蠢いている。
「ヒグイよ。灰の中に棲んでいるミトラで、ヒグイがいると火力の調整が楽だし、火が長持ちするのよ」
ナシパは、火掻き棒で灰を掻き混ぜた。姿を視認することはできないが、ヒグイと呼ばれるミトラたちはかすかに煙を立てながら、灰の中を動き回っているようだ。
「どうにも、先月辺りから調子が悪いのよね。火も消えやすくなってしまったし」
ナシパは火掻き棒を置くと、空中で何かを包み込むように両手を前に出した。すると彼女の手のひらからかげろうのように、橙色の炎が立ち上る。
「私もレイヤさんと同じ、炎のイマジアなのよ。私の持つイメージは竈の炎だから、レイヤさんのように、戦闘に使えるような火力はないけれど」
そしてナシパは、頼るような目を零夜に向けた。
「レイヤさん。ヒグイの調子が悪い原因が、どうにか分からないかしら」
零夜がミトラの言葉を理解できると聞いても、ほとんどの男たちは半信半疑に笑うだけだった。信用したのは、零夜の人となり――つまり、実直で嘘をつくのが苦手――を理解し始めたキヤとトモル、そしてちょうど追加の料理を持って幕家に入ってきた、ナシパだけだった。
そしてナシパが「そのお話が本当なら、見ていただきたいものがあるのだけれど」と、零夜を調理場に連れてきて、今に至る。
客人が何か面白いことをするらしいと聞きつけて、観衆は見る間に増えていく。人の目に晒されることに慣れておらず、どちらかというとこういう状況が得意でない零夜は、今すぐこの場を去りたい思いでいっぱいだった。
しかし、期待に満ちたナシパの視線を裏切りたくもない。零夜は竈のそばに膝をついた。次に何をすればいいのかも分からず、しかし何かせねばなるまいと焦るばかりで、ついに零夜が取った行動は「取り敢えず声を掛けてみる」という、間抜け極まりないものだった。
「あの、ちょっと聞いてもいいかな」
もちろん、灰からは何の返答もない。いったい自分は何をやっているんだと思いつつも、零夜は人差し指の第一関節までを灰に突っ込んで、もう一度同じ質問をした。すると。
きょろり、と灰の中から現れたのは、小さな目玉だった。
ひとつ、ふたつ。目玉は次々に出現し、彼らの領域に突然に差し込まれた異物を凝視する。無数の小さな目玉たちは、ひととおり指を眺め回したあと、ようやくその大元にある、零夜という存在に気が付いたようだった。
「こ、こんばんは」
不思議と、不気味さは感じなかった。零夜が挨拶をすると、目玉たちは音もなく
『こんばんわー』『だれ?』『しらないひと』『ゆびじゃまー』
灰の中の目玉、ヒグイたちは、それぞれが好き勝手に喋っている。
零夜は会話の対象として、ヒグイたちのうち、比較的自分に興味を持っていそうな個体を探す。人差し指のすぐ右にある、大きめの目玉がそのようだ。その目玉に向かって話し掛ける。
「俺、零夜っていうんだけど」
『れーや?』
「そう、零夜」
その時、明らかに彼らの反応が変化した。目玉という目玉が零夜を凝視し、目玉だけの彼らに表情などないはずが、その視線はどこか驚愕の色を帯びているように見える。
『れーや、れーや?』
「そうだよ。きみたちは、ヒグイだよね」
『ぼくたちのいってることが、わかる?』
「解るよ」
ぽわん、と白い灰煙が上がった。灰の中で、ヒグイたちが大騒ぎしているためらしい。
『ぼくたちのことばがわかる!』『にんげんなのに、おはなしできる!』
『すごーい!』『すごいね、れーや! おはなししよう!』
ヒグイはぽわぽわ灰を撒き散らしながら興奮し、飛び跳ねる。その間にも、見物人たちの視線は、どんどん零夜に集まっていく。ヒグイが急に騒ぎ始めたため、いったい何事かと興味をそそられたようだ。
ヒグイたちをなだめるのにたっぷりと時間を費やして、ようやくヒグイたちが落ち着きを取り戻すと、零夜は「最近、調子が悪いみたいだけど」と本題を切り出した。まるでクラスメイトと雑談でもしているようだと、おかしな気持ちになってしまう。
ヒグイたちは『ちょうしわるい?』と互いに尋ね合う。
『わるいかな』『わるいよ、すっぱいの』
『すっぱいもんね』『そうだ、すっぱいからちょうしわるいね』
彼らの答えは判然としないものばかりだったが、要約するととにかく「酸っぱい」ということだった。それ以上の情報は得られず、零夜は仕方なく、そのままをナシパに伝える。
「酸っぱい?」
ナシパは何やら考えていたが、しばらくして「ああ!」と手を打った。
「もしかしたら、焚き付けの木材を変えたせいかも。最近大きな荷車を解体したので、その木を使っていたのよ。それで、灰の性質が変わってしまったのかしら」
そこで、夜ながら明かりを片手に、灰の入れ替えをすることになった。ヒグイらは始めこそ渋っていたが、零夜に説得され、即席の避難場所である陶器の灰入れに小さく収まった。
竈に広がっていた灰を掻き出し、よその竈から集めた灰を運び込む。見えないままに
やがて埃っぽい作業が終わった。零夜はヒグイの入った灰入れを竈へ傾け、丁寧に灰を
目玉たちは灰の隅々、竈の隅々まで動き回り、念入りにチェックをする。果たして新たな環境は、彼らのお眼鏡にかなったらしい。小鳥のさえずるような音と灰の煙を立てながら、彼らは歓喜した。
「すごいね。ほんとにミトラの言葉が解るんだ」
すぐ背後から聞こえたその声に、零夜は灰入れを持ったまま慌てて振り向いた。青い瞳に好奇心を煌めかせ、ティエラが中腰で竈を覗き込んでいる。
「ね、あなたのイマジアで、ここに火をつけられる?」
彼女の言葉に、零夜は正直に首を横に振った。思うように炎を出せるかどうかも分からないし、出せたとしても、全てを焼き尽くしてしまうような猛火は、この竈にはふさわしくない。
ティエラは「そっか」と言ったきり零夜の炎にはこだわらず、焚き付け用の木材を組んだあとで、皮袋から小さな種を取りだした。銀杏のような形をしているそれを、竈の中央にある台皿へ乗せて、
火の中に小さな手が見えた気がして、零夜は目をしばたたいた。見間違いではない。細く長く伸びた手は炎の中を自在に動き回り、踊っているように見える。それがヒグイの手であると気が付いたのは、炎の中からヒグイたちの笑い声が聞こえてきたためだった。水場で遊ぶ幼児のように、屈託なくきゃらきゃらと笑っている。
「ありがとうございます、レイヤさん」
零夜から灰入れを受け取りながら、ナシパが言った。
「火の勢いが全然違う。ヒグイたち、具合が良いみたい」
「よかったねナシパ。火が弱くて汁物が作りづらいって、言ってたもんね」
「ええ。ティエラさんも、火種をありがとうございます」
竈の中には、先ほどティエラが割った種の殻がいまだ燃え残っている。炎に舐められて、それは鈍色に金属質な光を放っていた。
さて、零夜が本当にミトラの言葉を理解できると知って、アランジャの人々は再び沸き立った。それならばあれをしてくれ、これも頼むと、あちこちから依頼の声が挙がる。それを一声で制したのはティエラだった。
「みんな、待った待った! 私とカルムを助けてもらって、ナシパの竈もよくしてもらって、これ以上は頼み過ぎです!」
不満のひとつも上がらなかった。彼らは「そりゃそうだな」とか「確かになあ」などと口々に言いながら、またそれぞれ、宴の席に戻っていく。調子の良い者は去り際に「また今度、頼むよ!」などと零夜に声を掛け、零夜はそれに軽い会釈だけ返した。
幕家から野次馬たちが去ると、あとに残ったのは、零夜も見覚えがある面子だった。キヤとトモルは「おう、終わったか」と言いつつ、酒をあおっている。入り口の付近で、微笑みながら零夜を見ているのはバータルだ。
「やあ、きみは本当に不思議な人だな」
彼は大股で歩み寄ると、零夜越しに竈を覗き込んだ。炎は楽しげに火の粉を吐いており、明々と幕家の空気を温めている。
「女神の色をした炎を操り、ミトラの言葉を理解する……記憶はなく、出自すら分からない」
穏やかではあるが意思の強さも秘めているバータルの瞳が、零夜の瞳をしっかりと捉える。
「俺にはきみが、神の
それが単なるものの
どう反応していいか分からず、零夜はバータルの眼光から逃れたく、ついと視線を逸らす。その仕草に、意図したわけではないにしろ圧を掛け過ぎたことに気付いたバータルが、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「明日、我らの族長も交えて少し話がしたい。異邦の人よ、どうか今夜はよく休んでくれ」
よく休めと言われて、零夜はふと今は何時なのだろうと考えた。
この世界に時間という概念が、どれほど正確なものとして存在しているのかは分からない。それでも、もう随分と夜も更けているのではないかと思われた。あれほどはしゃいでいた子供たちの姿が見えないし、大人でも眠そうにしている者がちらほらいる。
「そうだな、さすがにもう寝るか」
まだ名残惜しそうではあるキヤは、ちゃっかり右手に陶器の酒瓶を吊るし、零夜を引き連れて外に出た。
草原の夜風が、竈の炎に火照った零夜の頬を撫ぜていく。キヤはかなり飲んでいたはずだが、ようやく気持ちよく酔い始めたところだといったふうに、気分がよさそうに鼻歌を歌っている。
「ご機嫌だね」
零夜が声を掛けると、あーとおーの中間のような、曖昧な声が返された。
「酒も飯も美味かったからな。お前はどうなんだ?」
「俺は……」
言葉に詰まる。今日の宴が楽しくなかったわけではない。料理は美味しかったし、交わされる冗談に笑いもした。人の役に立ったことは純粋に嬉しいし、それで感謝されることに悪い気はしない。
それでも、零夜の胸中をいまだ圧倒的面積で占めているのは、不安と危惧だった。
「それどころじゃねえか」と、それを察したキヤが言う。
「はぐれた友達ってのは、よっぽど親しい奴なのか?」
「うん。小さいころからずっと一緒で……」
妹の恋人だということは、何となく伏せておいた。
「ま、アランジャ族はここいらでは顔が広いからな。この辺りにいるなら、すぐ見付かるさ」
この辺りにいるなら、という言い回しが心臓をひと刺ししたが、零夜は何も言わなかった。理仁も、零夜と同じくこの世界に引きずり込まれたのだとしたら、きっとこの辺りにいるはずだ。無根拠に、そう信じていたかった。
遠くから聞こえたのは、狼の遠吠えだろうか。高く物悲しげな声が夜を割いていく。その声の中に、細い歌声を聞いたような気がして、零夜は耳を澄ました。二度目の遠吠えが聞こえた。それだけだった。
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