第7回『桜、ふたたびの加奈子』
●「桜、ふたたびの加奈子」 主演:広末涼子・稲垣吾郎
これは、すさまじい映画だった。
もちろん、私が紹介したい映画はどれも独特の味わいがあり、決して優劣をつけられるものではない。
でも、あえて私なりの価値基準で言えば、これまで見た映画の中で、たぶんベスト10入りする。
申し訳ないが、輪廻(命の循環)というメッセージ性においては、あの 『クラウド・アトラス』を超えている。
むしろ、こっちのほうが分かりやすいし、数倍胸に響く。
もちろん、これには感じ方に個人差がある。少なくとも私に関しては、ということでご理解いただきたい。
『あの子はきっと、生まれ変わって帰ってくる——』
これが、この映画のキャッチコピーである。
文字通り、輪廻転生をうたったものである。
容子(広末涼子)は、自分が少し目を離したすきに、小学校に上がる娘を車にはねられ、死なれてしまう。
その日以来、容子は娘が死んでいない、そこにいると言い張り、あたかも生きているかのように何もない空間に話しかけたり、手をつないで歩いたり、食事を用意したりする。
そんなある日。娘の大事にしていた飼い犬が逃走。
追いかけている道中で、苦しんでいる妊娠中の女子高生・正美(福田麻衣子)を助ける展開に。その出会いの中で、正美のお腹の中にいる子こそ、死んだ娘の生まれ変わりだと信じるようになる。
しかし、だからといって状況は当然容子の望むようになるはずもなく……登場人物たちの悩みや苦しみ、試行錯誤の果てに、意外な結末へと導かれていく。
はっきり言って、この映画はオススメである。
しかし全編、最初から最後までめっちゃ暗い。
最初から最後まで、見ていて痛々しい。めっちゃ辛くなる。
かわいい盛りの子どもがいる方なら、胸をかきむしられるほどに、演出に妥協がない。だから、フツーは人に薦めにくい。
でも、私はあえてこの映画をオススメする! 目をそらさずに受け止め切るのは大変だが、きっと『見て良かった』と思えるはず。
ネタバレになるので具体的には言わないが、ラストのオチが秀逸。
並のサスペンス映画よりも、伏線の張り方がうまく、意外性がある。
ラストの衝撃とカタルシスは、あなた自身で鑑賞の上感じていただきたい。
ここまで言うと、この映画の回し者かと言われそうだが——
これに関しては、映画の回し者だと言われてもいい。
そうです! 私はぁ、この映画の回し者ですぅ!
(決して広末涼子の大ファンだ、というわけでもない)
スピリチュアルの内容で、サラッとこう言われる。
「死などない。人は本当の意味で死ぬことなどない。
肉体はなくなるが、意識は消えない。
そして、この世ゲームを再び続けるため、またキャラを得て戻ってくる」
これが、輪廻転生……『命の循環』ということになる。 そこには、「だから何も問題などない。起こるべきことが起こっている。全ては無常であり、命あるもの・形あるものはうつろいゆく。だから、執着しないがよい」というメッセージ性が、そこにはある。
この映画に似た構造をもつものに、手塚治虫の「火の鳥」という作品がある。
人の苦しみや悲しみ、生きようとするエネルギーを見事に描くことで、その営みを見つめ、そしてそれを超える天の摂理(ことわり)を示している。
私は、この映画に登場する容子という登場人物に、人は死んでも大丈夫、とか言えない。娘を事故で失った方に、正論など語れない。
恐らく、無言で抱きしめるだけである。(嫌がられるかもしれないが)
見えない空間に話しかけても、見えない空気と手をつないでも——
おかしい、とは言えないし、また思わない。
その人の「今ここ」において、それは紛れもない真実だから。
ただ、変化の時というものは訪れる。
それまでの認識や考え方ではやっていけなくなる節目が、誰にでも来る。
力を振り絞って変わろうとするのは、そのタイミングで十分なのだ。
焦る必要はない。追い立てられる必要もない。
宇宙は、すべて計算してくれている。私たちは、その流れに乗っかればいい。
人は時として、人生の中で残酷なドラマに巻き込まれる時がある。
幼くして、子どもに先立たれる親。
これなど、本当に言葉もないケースである。
そういうドラマに、もしもおあなたが巻き込まれた時。
●気の済むまで泣いていい。
あなたの気が済むなら、何を考えても、何をしてもいい。
終わったら、その時教えて。
私たちは、その時こそ全力で、あなたを支えよう——。
乗り越えろ。向上しろ。いつまでも泣いてるんじゃない。
泣いたからって、そんなことをしたからって、あの子は帰ってくるのか?
もっと、幸せになることに目を向けようよ。前を向いて、生きなよ——。
劇中、娘を失って、娘の幻影が見える容子に、夫(稲垣吾郎)はそう言う。あの子は、いなくなったとは言わないけど、少なくともそこにはいないはずだ、と。
それはある意味、正論である。的を射ている。でも、今ここというケースにおいて、その正論は傷の癒えていない容子を救わない。
けがをして血を流して倒れている人に、頑張れ、立つんだなんて叱咤激励する人がいるだろうか?
抱え上げて、病院に連れて行って、けがを手当てするのではないか?
私たちは、その当たり前のことをたまに忘れる。
自分の基準で、苦しんでいる人にこうあれ、ああするのがよいと語る。自分は親切心から言っている、その人のためを思って言っている、と勘違いしているが——
ほぼ間違いなく、『自分の都合』である。
相手がよろしくない状態のままだと、自分がイヤなだけなのである。
厳密に言えば、人が、魂が『傷付く』などという現象は、あり得ない。
それは、幻想である。
傷付き得ると信じているから、そう認識しているから——
本来は存在しえない、そういう状況があたかもリアルなものとして創造される。
でも、それは決して悪いものではない。
私は、そのエネルギーが愛おしい。
人を愛するエネルギー。特定の命を、他にも増して愛そう・守ろうという強い想い。それとコインの表裏の関係にあるのが、大事なものを奪い去られた時の悲しみ・やるせなさ。
確かに、歓迎されるものではない。そんなものなければ、どれほど生きるのが楽か! でも、それを執着、などと一蹴できないほどの美しさが、そこにはある。
逆説的だがー
●愛する何かを失って、悲しめるのは、狂えるのは——
実は、別の形の「強さ」ではないか。
そしてその強さの方が、世間一般でいう強さに勝るのではないか。
この作品の脇役的存在として、事故で夫と子どもを一度に失った女性が登場する。
いつ見ても、無人のベビーカーを押して歩き回っている。
その表情に、本当の強さを見たのは、私だけではあるまい。
低学年の小学生に、急いで今すぐ中学生まで成長して来い、などと要求できない。
待つしか、どうしようもない。
だから、私たちも待つ。
信じて、待つ。
その人が泣き止むのを。
新たな気付きを得て、自分の足で上がって来るのを。
急がなくていいから、ゆっくりしておいで。
いつでも、私は変わらずあなたのそばにいるから。
あなたは私だから。同じだから。命はただ、巡っているだけー。
そのことに、急がず無理せずゆっくり気付こうとしているのが、地球上の人生ゲームというものなのだ。
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