第33回『テルマエ・ロマエⅡ』
【ストーリー】
古代ローマの浴場設計技師が現代の日本へタイムスリップするヤマザキマリの人気コミックを実写映画化した 『テルマエ・ロマエ』 の続編。新たな浴場建設を命じられアイデアに煮詰まったルシウスが、再度日本と古代ローマを行き交うさまを描く。
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こういう映画を、別格と言うんだろうなぁ。
面白いかなぁ、当たりかなぁハズレかなぁ(めっちゃ主観です)なんて考えながら行く映画もある中、これはもう何の不安もなかった。1で勝ち得た絶大な信頼が、何のためらいもなく2に足を運ばせる。
何という脚本の安定感! ずっと、安心して笑って見ていられた。
信頼していた職人が、期待に見事に応え最高の仕事をしてくれた、みたいな感覚を味わった。
スピリチュアル的にどうこうというよりは、まぁ楽しめ! ってカンジ。
てか、ただ楽しめ! 以外にスピリチュアルで大事な話があるのか?
ローマ時代の人間であるルシウス(阿部寛)は、現代にやってきてさえなお——
自分の経験と基準で、現代を測り続ける。
日本人を、「平たい顔族」と呼び。
(彼には、タイムスリップという感覚はほぼない。ローマ時代と同じ時間軸にある、とんでもなく遠い異国という認識らしい)
すべての機械仕掛けを 『奴隷が頑張っている』と真面目に考え。
プールの滑り台で滑り落ちてくる人を見て、『これは罪人の処罰』。
足ツボマッサージの踏板のことを、『痛みに耐える訓練装置』。
これでもか、ってくらい『超自分視点』で捉えてくれるのが、面白い。
私たちは、観客というお気楽な立場から笑っていられるが——
ルシウスと我々は、そう変わらない。
あそこまでギャグな誤解ではないが、朝から晩まで無数の「自分を絶対神とする勝手な解釈」をしている。いや、ルシウスのほうが「笑える誤解」である分、まだマシかもしれない。
我々の現実のケースでは、シャレにならない深刻な事態すらある。
改めて『人は主観でしかモノを見ることができない』ことを感じれる映画である。
だから、「人は正しくモノを見ることができません」と指摘する奇跡のコースという教えは的を射ている。ただ、だからと言ってそれを何とかしよう、とは考えなくていい。正しく見れないことを問題とは捉えなくていい。
むしろ、祝福と捉えるくらいがいい。
そもそも、正しく見れないことは問題ではないどころか——
この世界には、それをわざわざしにきたのだ。味わいに来たのだ。
それ自体がすでに目的なのだから、直す必要はない。
ただ、逆手に取って楽しめばいいだけのこと。
この映画の一番の面白味は、ここ。
●話や認識がかみ合っていない者同士が——
なぜか、最終的にはうまく絡み、最善のオチへと収斂していく。
時代を越えて、ローマ側や現代側、双方の人間を巻き込みドラマは展開する。
時代をまたぐ者は、事態に関してまったくわけ分かってない。
(特にローマへ飛ばされる現代人……温泉宿の住人や指圧爺ちゃん、相撲取りなどはパニクリもせず適応し、やることをちゃんとやるのだからすごい)
ルシウスをめぐるすべての登場人物は、相互理解になどほぼ至っていない状態なのに、何でこんなにドラマがうまく絡み合うんだ?
注目するべきは、誰も相互理解などしようとはしていない点だ。
ルシウスなどはその代表格で、最後まで現代を未来だとか、先進技術により高度に進んだ結果なのだと理解しようとしない。現代人側もルシウスに対し「変わった外人さん」程度の認識。
真美(上戸彩)は確かにローマの言葉を勉強するなどの努力はしているが、それは単にローマ好きなのと、個人的にルシウスが好きなだけである。
こんなに物事の認識が天地ほども隔たりがある人たちで、なぜこんな美しいドラマができるのか。
●この世界に起こっているのは、すべてシナリオ。
起こるべきことが起こっている。
映画のフィルムが回っているのと同じ。
あなたは心配したり頑張ったりするが、それらもちゃんと決まっている。
個々人などどうでも、次元を超えた監督がちゃんと流れを作っている。
私たちは、基本的に「大いなる流れ」への信頼が低いので——
自分たちで頑張ってしまう。
誰も助けてくれない。世界を変えられるのは、自分の行動だけ。
自分が呼びかけなければ、世界は黙ったまま。
そう考えて、「行動こそが大事」と言う。
そして、行動を生み出す「意志力」を鍛えようとする。
でも、その努力は大したことにならない。
例えば、小さな子どもが 「はじめてのおつかい」 に行くとする。
子どもははりきって出かけ、メモを頼りに見事に買い物を済ませ、無事帰ってくる。何も知らない子どもは、『自分の力でできた!』と自慢気になる。
お母さんも、「よくできたわねぇ。偉いわねぇ」と褒める。
しかし。
お母さんは黙っているが、実は道沿いにあるタバコ屋のおばあさんや店の人には、こっそり子どもがお使いに行くと連絡をいれてあり、便宜を図ってもらえるように頼み込んでいたのだ。
微笑ましいお話なので、声をかけられた町の人たちは大乗り気。
実は、そういう裏の支えがあり、おつかいは成功している。
知らぬは、本人ばかりなり。
だから、「この世界で何かを生み出すのは、自分の意志と行動だけだ」と気負っている人は、本当に孤独である。
本当は、あなたの足元には大いなる宇宙の天の川の流れがあるのに——
上ばかりを向いているから、その流れに気付けない。
流れがあなたの友であることを、気付けない。
まぁ、それすらもゲームだから大した問題ではない。
だから、「ちゃんとしよう」なんて思わなくていい。
誤解や認識の食い違いを、問題の元凶として必死に正そうとしなくていい。
この映画を見てみなさい! こんなに分かり合えていない人たち同士でも、素敵な物語を紡いでいるじゃないか! 彼らは相互理解に万全を期そうなどとはせず、ただ各自が「したいようにしている」。
したいようにするということはすなわち「内なる流れのオーダーに従って」ということであるから、事態は理屈抜きに最終、見事に着地する。
テキトーでいいんだよ。
あなたがあなたらしくあるだけで、一人ひとりがかみ合っていなくても素敵なドラマが生まれるんだよ。
あなたの知らないところで、そういう流れが作られていることを、信頼したらいいんだよ——
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