第125回『ザリガニの鳴くところ』

【作品紹介】


 ディーリア・オーエンズの小説「ザリガニの鳴くところ」を実写化したミステリー。6歳のときに両親に捨てられ、湿地帯でたった一人で生き抜いてきた少女カイヤ。村人たちは彼女を『湿地の娘』と呼び、差別と見下しの対象としていた。

 彼女が成長し大人と言っていい年齢になった頃、ある日彼女と接触した青年男性の死体が湿地で発見され、カイヤは殺人の嫌疑をかけられる。

 殺人事件の容疑者となって法廷に立つカイヤ。証拠もないに等しいのに差別や偏見から彼女をどうしても犯人にしたい検察側、カイヤに味方し検察と戦う老弁護士。果たして、カイヤは無罪を勝ち取ることができるのか、そして真犯人は誰か?



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 久しぶりに、面白い映画を見た。

 たとえば『スターウォーズ』とかを見て「いい映画だった!」というのとは違う。地味だし、自然は美しいけど風景はちょっと暗みがかってるし。お話は淡々と進むし、そもそも主人公が孤独なので、絡んでくる主要登場人物の数もそう増えない。逆にそれがお話の分かりやすさにもプラスに作用するけど。

 でもなんでしょうね。何だか「見てよかった」という気にさせるのだ。内容的には、完全な「メデタシメデタシ」ではなく、ちょっと心に引っ掛かる結末になっている。この映画は、本当にネタバレ厳禁の映画だ。できたらそうならない記事にしたいが……無理だ!

 どんなに頑張って伏せようとしても、ほとんどの人は以下の文章で「察してしまう」と思うので、直接犯人は誰誰です!とは書いてませんが、推測できてしまう情報をどうしても載せることになるため、この映画を前情報なしで楽しみたい方は、見るまで以下を読まないこと。鑑賞後、戻ってきてください(笑)。



 カイヤは、ずっと一人だった。

 父親の暴力にまずは母、そしてたくさんいた兄弟たちも上の年齢の者からひとり、またひとりと愛想を尽かして出ていき、そしてカイヤは父親と二人きりに。それでもなんとかやっていたところへ、極めつけにはその父親までもいなくなる。

(この父親が本当はどうなったのか、ただ出ていっただけなのかについては想像の余地が残されている)

 ただ味方は、後に彼女を弁護することになる弁護士、食料品店の気のいい黒人の老夫婦、一度は彼女を捨てたが改心して(?)戻ってきた元カレ。で、彼女が殺したと疑われることになるのが、二番目のカレだが自分勝手で凶暴性のある人物。その本性に気付いた時には遅かった。



 カイヤという女性の心の奥を垣間見れる、ふたつのセリフがある。

 ひとつは、ホタルの生態に関する彼女の説明。「ホタルのメスが光るのは、ひとつには交尾のためだが、もうひとつには他種のオスを捕食するためでもある」と話している。そして、「自然界にはおそらく人間のような善悪というものはない」という言葉。守られるべきはずの弱者(子ども)の段階で捨てられ、自然界の中で生き抜かねばなならなかった(そして実際に生き抜いてもきた実績をもつ)彼女であれば、生き抜くためには躊躇なく何でもするだろう。

 守られ、差別を受けることもなく無事に生きている私たちは、甘っちょろい「倫理・道徳観」「善悪観」を持てる。人を殺すのはいけないこと。他人の物を盗むのはよくないこと。これらはもちろんそうなのだが、それを声高に言い守れる人間が上質な人間なのかというと、そうでないことが多い。実際を知らないで、正しいと分かり切っていることを簡単に叫んでさえいればいい人間ほどずるいものはない。

 人間は知性(理性)がある、そこが動物とは違うと言われる。でもそれは、逆にひっくり返すと「人間も動物の一種」であるということも言える。自然界に属する生物のひとつであることは免れない。



●その「個」が生き抜くために、どうしても仕方のないことというのはある。

 それは、善悪を越える。



 この映画の結末に関して、普通に「けしからん」とか「人を殺すのはどんな理由があってもだめなこと」というような正論感想はレビューサイトにほとんどなく、おしなべて皆さんラストに「好意的」であった。私は嫌悪感を示す人が少ないことに驚くと同時に、その理由は「やっぱり映画を見る人も自然界の生物なのだなぁ」ということも思った。

 もしカイヤが、普通に育ち恵まれた環境にいたとしたら、視聴者は彼女のしたことを責めるだろう。だが責めない(責める気持ちにならない)のは、建前上の善悪を越えた世界がそこにはあることを認めたからに他ならない。



●私たち人間の中には、身の安全が確保されている中で持てる「建前上の善悪観」と、のっぴきならぬ事態に巻き込まれ狭い選択肢の中で生き抜くことを強いられた際に突発的に生じる「その時限定で生成される判断」の、まったくちがうふたつのものがある。



 この映画の鑑賞によって、視聴者は普段意識しない「ふたつめの基準(もはやそれは基準とは言い難く、生き抜くために何でもするという本能)」を刺激されたのだ。だから、文句のつけようもない世間一般の善悪観で主人公を責める人が少ない。

 似たような例では、赤穂浪士の討ち入りがある。いくら吉良が悪いいけ好かない奴だからといっても、殺すまでするのは今の倫理・道徳観から言えば「たとえ復讐でも、人殺しはダメ」という基準に思いっきり引っ掛かる。

 でも日本人はこのお話が大好きで、年末になると必ずと言っていいほど赤穂浪士を題材にしたドラマが作られ、皆喜んで見る。所詮は人殺しなのにですよ? で、最後は潔く切腹? それも、現代の建前上の「倫理観・道徳観からすると」潔しとして感動するのはめっちゃおかしいはず。



 この映画を読み解くキーワードは、「人間とてそもそも大自然の一部」であるということ、そして「善悪とは人間にとって結局何だろう」ということ。

 他人の意見は、どんなに立派でも所詮他人の意見。この機会に、あなたなりの「善悪とは何か」「世界の捉え方が全く違う無数の個体がひしめく中で、自分が生き抜くためにどこまでしていいのか、何だったらすべきでないのか。だが果たしてそれは非常時でも守れるようなものなのか」について考えてみるといい。

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