第23回『かぐや姫の物語』
●かぐや姫の物語 (スタジオジブリ作品 監督:高畑勲)
これは、すごい映画である。
確かに、昔話としてのかぐや姫の物語が137分というのは、長すぎると感じる人もいるだろう。実際、映画のレビューサイトでは厳しい評価も目立つ。
それは重々承知しながらも、私はこの作品を押す。
ホントにね、見てちょうだいよ、これ。
何がそんなにいいか、って——
これはまさに、スピリチュアルのキモとも言うべき『空(くう)とこの世界との関係』を見事に象徴化したものだからである。人気度や見た目のインパクトだけのことを言えば、ジブリの他の作品に勝るものではない、という評価を下す人は多いかもしれないが、スピリチュアルなメッセージ性ということで言えば、ナウシカに匹敵するエネルギーのある作品だと感じる。
かぐや姫の父親的存在である、翁(声:地井武男)は、よかれと思って田舎暮らしを脱却し、かぐや姫を都に出す。そして、ハイソな暮らしこそがかぐや姫の幸せであると信じ、そのための努力を惜しまない。
結果として、それがかぐや姫を精神的に追い詰めることになる。
浅いものの見方として、「娘の幸せに関して父親がでしゃばると、ロクなことがない」という感想がある。親のエゴ、というものを教訓として実感できる、と。
でも、私は人を 「演劇上の役割」という観点で見るので、何の問題も見出さない。翁のズレた愛が、かぐや姫を不幸にした、というのは滅茶苦茶誤った認識である。それどころか、すべてが最善に運ばれたのだ。
表面的には、かぐや姫は苦しんでいるように見えるが——
実は、かぐや姫の「プレイヤー意識」(※かぐや姫がこの世界に現れる前に、かぐや姫として生きることを選択し、始めた大元意識)は、望んでいた。それを味わいたかった。
ただ、神としてのすべてを忘れてやってきて、この次元での認識を切り盛りしている「エゴ」さんには、それがまったく分からない。だからこそ悩む。苦しむ。
でも、神であることを忘れるからこそ、それが味わえる。
忘れないままでは、あらゆる感情が「色あせた」ものになってしまう。
味覚を感じないで料理を食べるようなものである。
かつて、交通事故でケガのしどころが悪く、味覚を一時的に失った友人がいる。
体験談によれば、味のしない食事をしていると、空しくて「死にたくなった」こともあるそうだ。
かぐや姫は、もと月の住人。
バシャールの星みたく、精神文明的にはかなり進んだ星の設定のようだ。
ただ、この映画の描き方だと、エゴにまみれた醜い地上世界と対照的な『天国』の象徴として描かれているように思う。それを証拠に、かぐや姫を迎えに現れたのは、どう見ても「お釈迦様」である。
その「完全な世界」から、「地球(地上)世界」 を見た時に——
あこがれてしまった。行きたいと思ってしまった。
あまりにも強く望んでしまったために、現実になってしまう。
それは、願いがかなったというよりも、とんでもないものにあこがれてしまったことへの「罰」として、その実態を身をもってとくと味わえ! という月世界の沙汰なのである。
で、かぐや姫はこの地上に (なぜあえて日本?)やってきたのであるが——
月にいた時の記憶は、封印されている。(しかし物語中盤で思い出す)
常人離れした成長現象は見せるものの、まぁぎりぎりセーフでその社会に適合して生きていく。
しかしその中で、いつの時代だろうが直面する、人が作る社会のもたらす「生き難さ」を体験する。
出会いと別れ。思うようにいかない人生。
物質的には恵まれていながら、自由のない半奴隷生活。
そんな展開の中で、姫は切実に思う。
「月へ帰りたい」 と。
その思いがきっかけとなって、実際に月へ帰れることになってしまう。
でも、姫の中には帰りたいという自意識に反して「やはり帰りたくない」という隠れた思いも共存していた。そもそもこの世界に来たい、と強く思った時の「初心」が、魂の底には住み続けていたからだ。
高度に成長しきった、問題のない世界に飽きかかっていたかぐや姫にとっては、起伏の激しい感情ドラマを演じている地上世界のほうが生きがいのある、魅力ある世界に見えたのだ。
その初心を思い出したかぐや姫は、かつて慕った田舎の男、捨丸(声:高良健吾)に会いに行き、自分の気持ちをますます確認する。
(ただ、捨丸本人には夢の世界の出来事として認識される)
でも、一度月の記憶に目覚めてしまった者は、もう帰されるしかない。
帝や翁が軍隊を使ってまでも守る中、月からの使いはそれらを無力化し、姫を連れ帰る。
天の羽衣をかけられたが最後、もう地上での記憶は消える。
しかし。記憶からは消えても、なぜか地球を見ると涙が出てしまう。
本人には不思議だろうが、記憶を消すことぐらいでは拭い去れない 「強烈な感情体験」が、依然として住み続けているからである。
空 (神)は、完全・絶対・永遠な一元性の存在であった。
そのままで完全で、あえて何かを「する」必要性はなかった。
なかったが、どういうわけか退屈した。
そのままでも完全なのに、その完全以上になお望み見る気持ち——
そのエネルギーこそが、この世界の生みの親である『情熱』である。
そうして最終的にできたのが、この二元性の変化の世界・冒険の世界。
「完全な存在が、あえて不完全な存在を作った」のではない。
これは、革命的な言い方であるが——
●この世界は、「完全を超えた価値をもつ世界」 。
だって、完全な存在がなお望んだほどの代物だから。
この世界が、一元性の世界(ワンネス)より劣っているなんてとんでもない。ましてや、宗教が言うように、人の罪や失敗のゆえに間違ってできた世界などではない。
そのように考えると、もと完全な月の世界の住人やかぐや姫は「空」の象徴。
かぐや姫が行きたいと願った地球は、空があえて生み出したこの宇宙世界。
完全なることに飽きて、あえて感情冒険ドラマを生きたいと願った。
かくして、空は「分離」という幻想をあえて創り、無数の人間キャラとして地上に降り立った。
その際に、神としての全能の自覚と力を持ったままでは、地上で面白くない。
だから、あえてその記憶を封印して、人として降り立った。それは、かぐや姫が月での記憶を封印されて地上に降り立たされたことに対応する。
しかし、あこがれて来たはいいものの……
(もちろんかぐや姫にその自覚はない)
生きることが、辛くなってくる。
で、何故私がこの地上に存在しているのか、と考える。
(我々が、なぜこんな自分でこんな人生なのか? 何の意味があるのか? と悩むのと同じ)
私たちも、この世界に人間キャラとして来ようとしたプレイヤー意識が自覚できないので、「なぜ? なんで? 理不尽だ!」の思考の嵐。
かぐや姫は、ある日突然、自分が月の世界の住人であることを思い出す。
これは、人間キャラどっぷりでこの世界に生きていながら、『覚醒』してしまうケースと同じ。自分の正体に気付き、本来の自分の居場所に帰りたいと思う。
でも、それとは裏腹に、それでもこの世界にとどまっていたい、という思いも否定できない。なぜなら、空はもともと望んで「二元性ゲーム」をすることが本望で来たのだから。
帰ったって、そのうちまた「来たくなる」ことを、魂のどこかでは理解している。
かぐや姫を迎えに来たお釈迦様一行は、言う。
「さぁ、こんな汚れた世界は離れて、争いも苦しみもない月の世界に帰りましょう——」
その一言にカチン、ときたかぐや姫は叫ぶ。
●汚れてなんか、いません!
大天使のメッセージ、とかいうのを読んだことのある人は分かると思うが——
きれいごとしか言わない。
そりゃそうだよね、というメッセージばかり。
天使は、土臭い地上世界を生きた体験がないから。だから、こちら側の事情を汲んだ、本当に励ましになる言葉はかけようがないのだ。
だから、月の使者がかぐや姫にした 「こんな世界おいといてさぁ……」 的な無神経発言は、天使のチャネリングメッセージのような「きれいごとメッセージ」に通じる部分がある。
かぐや姫の最後の叫びは、もっとも私の胸を打った。
そうだよね。確かにエゴが辛いと感じること、苦しいと感じることはあるけれど、そもそもそれを承知でやってきたんだよね。
だから、今辛くても、結局好きなんだよね。この宇宙ゲーム世界が。
私も、かぐや姫と口をそろえて、こう言おう。
色々なことを差し引いても、この世界はやはり、生きるに値する。
それどころか、そもそも空は「完全」を放っておいてでも、味わいたかった。
だから、完全を超える価値を持つのが、この世界。
「不完全」という名は、この世界にふさわしくない。
かぐや姫があこがれるほどの世界なんだから。
空があえて創りたかったほどの世界なんだから。
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