第24回『劇場版 SPEC ~結(クローズ)~ 爻(コウ)ノ篇』

【ストーリー】


 戸田恵梨香と加瀬亮と堤幸彦監督による、“未詳”こと未詳事件特別対策係捜査官対“SPEC”こと特殊能力者との激戦を描くシリーズ完結編二部作の後編。最終章となる本作では、これまで隠されてきた数々の謎がついに解き明かされる。



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 この映画を見終って、思った。

 私は、かなりの量の映画を見てきているが、これは、まれに見る傑作である、と思った。私が言いたいことを、見事に代弁してくれているからだ。

 よくもまぁ、こんなに見事に映像化してくれたものだ、と感心した。

 しかし、映画のレビューサイトなどを見てみると、かなり評価が低いようだ。

 それもそのはず。私が見る限り、世間の低評価には二つの理由がある。



 もともとこの作品は、SPEC (特殊能力)を利用した犯罪に対して、頭脳派の天才と肉体派の不死身男という異色の刑事コンビが見事に解決していく、という趣旨だった。その展開や真相の意外性、解決方法のユニークさに見所があった。

 TVシリーズからのファンは、そこが楽しくてSPECファンになったのだ。

 なのに、劇場版に突入してからというもの——

 話が大げさにというか、スケールが 「人類の存亡」とか「世界の終わり」とかいうところにまで広がって、SPEC本来の『SPEC犯罪者 vs それを暴く側』という図式がないがしろにされてしまった。

 そこに、不満を持つ人が多いのだろう。



 もうひとつ、スピリチュアル的な事情がある。

 これは、まさに空(一元性)と我々(二元性)との関係を象徴的に描いた映画。

 まさに「悟りの映画」である。

 前回紹介した『かぐや姫の物語』もそうだったが、やはり時代的な恩恵か、こうした本質を突いた映画がどんどん生まれてきている。

 多くの人は、人間意識(空という概念を受け入れていない、あるいは理解できない意識状態)でこの作品を見るので、ただ「つまんねぇの」という感想になる。

 それもそうだ。そもそも、なぜ空(神)がこの世界をつくった?

 それは、空(神)であることを忘れ、この幻想に遊びたかったから。

 当然、我々のどこかには「目覚めたくない。もっと遊んでいたい」という思いがある。そう。まだ、目覚めたくないのだ。

 そういう選択をした魂たちには、この映画のメッセージが読み取れない。読み取りたくない。

 目覚めを嫌がる個々人のエゴは、新興宗教がかったアヤしさとしてこの作品の正味の認識を回避し……結果として、嫌悪感しか感じない方もいるだろう。

 でも、この映画はこの時代において、出るべくして出たスピリチュアル・メッセージである。「耳のある者は聞くがよい」という。

 もちろん、究極には目覚めたから目覚めなかったからどうだ、ということはない。

 そこに優劣はない。

 最終的にはただ、全員がそういう演劇上の役割を演じただけのことなのだから。



 新世紀エヴァンゲリオンもそうだ。

 最初は、EVA (ネルフ。人間側)と使徒という正体不明の敵との戦いというか、いかに通常倒せない敵を倒すか、ということろに面白さがあった。しかし、話が収束に向かうにつれ、内容は宗教がかったような哲学的な内容にどんどん傾いていく。そしてその結末の解釈は、難解である。

 SPECもエヴァも、そういうところが共通しており、そのあたりの批判も多いのだが、不思議なことに批判が多い割には見られている。ヒットしている。

 内容が新時代の本質を突いており、古い価値観に挑戦しているので——

 受け入れる者は受け入れ、反発する者はする。 

 また、誰が見ても簡単に分かるメッセージではないので、見る人を選ぶ。

 これは、作者(制作陣)にとっても、不思議かもしれない。

 なぜ、こんな風な流れになったのか……?

 その背後には、時代の要請として、大きな「気付き(目覚め)」のうねりが働いているのだ。

 だから、気付けば目覚めへのヒントとなるようなものをつくってしまっている。

 我々は、意識のかたくなでない者から順番に、空に用いられているのだ。

 目覚めを加速するための働きに、知らずに巻き込まれているのだ。



 特に面白いのは、普通の人間を越えた能力をもつ存在・セカイ(向井理)と謎の白い女(大島優子)、そしてその二人の思惑を阻止しようとする刑事(人間側)、当麻(戸田恵梨香)と瀬文(加瀬亮)との対立。

 ネタバレになるので細かくは言えないが、セカイたちは 空 (神)のような立場だと思ってもらったらいい。で、当麻と瀬文は、二元性の住人である人間の立場だと考えていただけたらいい。

 空は、実にクールである。

 完全。絶対。永遠。

 幻想世界で起こることなど、究極にはどうでもよい。

 星がひとつ滅びようが、どうということはない。

 だから、エゴをむき出しにしてガイア(地球)を汚す現在の人類をこのままにしておくともう救いようがない、と判断したセカイは——

 この世界を消滅させることで歴史を白紙に戻し、数億年の浄化の時をかけてまた新たな地球の歴史が始まるように意図した。悩むことなく、サラッと。

 ちょっと買い物にでも行こうか、という程度のノリで核戦争を誘発する。



 全体として救いようがないから、滅ぼしちゃってまたいちからやり直すほうがいい——。実に合理的かつクールで、文句を言えない理屈である。

 でも、正しさの中にはもろさがある。

 それは、正しいがゆえに「全体性」でしかモノを考えられないという点。

 それが、セカイの弱点であり、また空という一元性が持てないもの。(空が持ってはいるが、自覚できないでいるもの。キャラクター側である我々が、空より先に体得したもの)

 当麻と瀬文は、愚かではあったが「人」であった。

 空(神)が持てない視点を持っていた。

 空にはない視点。それは「分離」。

 分離という幻想上、人は無数の「個」として、まったく違う人生を生きている。まったく違うドラマをそれぞれが演じる中で、そこには希望・友情・そして愛といったものがある。

 当麻と瀬文は、人類は愚かだというところは反論できないとしても、だからといって世界を滅ぼすのは間違っている、と勝てないことは承知で、あえて神に挑戦する。

 しかし、どう見ても神が絶対的に優位である。勝てる道理がない。



 空には、希望も友情も愛もない。

 よく、神は愛だとか、世界の根源は愛だとか言う人がいる。

 それは違う。空(神)はただの無味無臭なエネルギーである。

 人間が口にするような、感じるような愛は、この二元性で生み出されたものだ。

 我々の指す愛と一元性のあちらとは、直接的な関係は何もない。

 むしろ愛を、希望を、友情を生み出したのは二元性世界そのもの。

 人類意識、あるいは地球意識と言ってもいい。

 だから、空よりすごいのはある意味我々である。

 そう。人間は、一元性(完全、絶対、永遠)を超えるものをこの世界で生み出した。一元性が理解も及ばない、ものすごい波動エネルギーを。

 それが、「どんな理由があろうと、大事にしたいものは守り抜く」という力だった。クールに事を運ぼうとするセカイ(神)には、理解できない不合理な力だった。



 皆さんは、思ったことありませんか?

 この世界には、死がある。病気がある。戦争がある。不幸がある。

 涙がある。苦痛がある。絶望がある。

 なるほど、空はすべてを体験するために、すべての可能性を味わうためにこの世界をつくったのだから、そういう担当の魂(個)があるのは仕方がないよね~とは知的に整理できても、それでも何だか釈然としないのではないですか? 身近に、死なれたり不幸な目にあった人がいる方なら、余計納得しにくいのではないですか? 頭では、この世の仕組みがそういうものなのだ、と理解できても。

 その温度差が、空という一元性と、この二元性の世界との間にあるのだ。



 空は超クールなので、粛々とこのゲームを進める。ある意味、血も涙もない。

 でも、こちらにはそれがあるので、宇宙に最善が起こっていると思えず頑張って小さな命でも守ろうとする。圧倒的不利でも、あきらめることなく。

 セカイと当麻の戦いは、まさに「空」と「つくられた側」との真剣勝負なのだ。

 つくられたとはいえ、こちらもやはり別の意味で「神」なので——

(神のつくるものは神。それ以外のものはつくれない)

 こちらはこちらで、独自の力を創造できてしまったのだ。

 悟りの境地から言えば、「執着」と笑われるかもしれない。

 でも、それは泥臭く無様かもしれないが、守るとか、大事にするとか。それを壊されたくなんかない、という強い気持ち。

 空は、それに対処するすべがない。



 圧倒的力で、人間当麻、そして瀬文を負かすセカイ。

 時間を止められ、動きを封じて投げ飛ばされ——

 動けないはずの瀬文は、セカイに叫ぶ。



●友情をなめんじゃねぇ!

 人間をなめてんじゃねぇ!



 セカイは、驚く。しゃべれるはずのない人間がしゃべる。

 時間を止めたはずなのに、動く。

 当麻も、完全に意識を支配したはずなのに、勝手に動き、考える力を取り戻す。

 なぜ? おかしい。こちらの力は絶対なはず。

 まさに、「なめんじゃねぇ」の世界である。

 大事な友が。絆が。愛しい、守りたい思いが——

 絶対と思われた、神のごとき力を上回った。

 セカイ(神)は負けた。人の情的力、というものに。

 空があえて創造した分身、新たな神が独自に作り出したその力に。

 かくして、世界の滅亡は回避された。

 人間としての当麻と瀬文、そして彼らを信頼する者たちの思いの力が、大枠で地球の運命を決することのできる力をもつ、神ような存在の意図をくじいた。



 ラストシーン。肉体の滅びた当麻は空に帰る。

 現世を越えた彼女の意識は、過去・未来・現在をあてどもなく漂う。

 生きている瀬文に、その意識体が近づいた時——

 本来ならば、肉体をもって生きている者には感知され得ないはずの当麻の腕を、瀬文はがっちりとつかむ。

 それはまさに、現代という時代を象徴している。

 今まで人間キャラとして、空や悟りなどとは無縁で、感知すらできないほどこの幻想にどっぷりだったのに、この時代はもう多くの魂が宇宙の一瞥をつかみ、悟りに至っている。

 まさに、人が大いなる気付きを得た瞬間とそのシーンが重なり、涙した。



 ものすごく、型破りなメッセージだとは思う。

 でも、やはり言いたい。

 空は、観察意識として自分の可能性を知りたくて、この世界を創った。

 神が神をつくったので、全てを把握してるはずだった観察対象(人間)が、ものすごい変貌を遂げた。

 空にはなかった愛(我々が指す)・希望・友情・絆・不屈・信頼——

 今、観察意識は余裕をこいて客席にふんぞり返ってなどいない。

 身を乗り出すようにして、ハマっている。

 我々は、空をとりこにするほどに、ある意味優位に立ったのだ。

 我々の正体は神というだけでなく、一元性の神(空)を超える神なのだ。



 結局、世界の破滅は阻止され、平穏な日常が取り戻される。

 その結末に、混乱される方もいるだろう。

 えっ、だって雅(みやび)ちゃんが、壊れた国会議事堂前で野々村係長の手紙読んでたじゃん。日本も世界も壊滅しなかったのに(ましてや壊滅状態になりかかっていた時、セカイによって時間は止まっていた状態だったのに)、辻褄が合わない——

 


●パラレル・ワールドの概念が必要だ。



 当麻と瀬文の作戦は、成功する確率のかなり低い「ダメもと」作戦だった。

 映画の最初に流れた、日本壊滅のシーンは、占いと同じで——



 もし世界がこのままいくと、まずこうなりますよ!



 ……という一番の可能性を見せてくれたのだ。

 でも、意識による選択の力を最大限発動させたことにより、選ばれる可能性としては薄かった道が、最終的に取られた。

 なので、当初の有力候補ワールド(雅ちゃんの場面)が、結果として起こらなかった。(もちろん、「ここ」で起こらなかった分、別の並行現実で起こっている)



 そんなこんなでこの映画は、ちょっとややこしいが、スピリチュアル的な学び要素満載の、大変お得な映画なのだ。

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