第4回『ダークナイト・ライジング』 ~バットマン~

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、わたしは、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。



 新約聖書 コリント人への第二の手紙 12章9~10節



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 クリストファー・ノーランが監督・主演をクリスチャン・ベイルが務めた映画 『バットマンシリーズ』3部作の3作目に、『ダークナイト・ライジング』という作品がある。

 劇中、苦戦するバットマンに、ある人物が不思議な助言をする。



「お前は、死を恐れていない。

 いや、むしろ心のどこかで望んでさえいる。

 自分の命なぞ、どうでもいいと思っている。

 それは、強さではない。

 死を恐れないこと。それこそがお前の弱さだ」



 一般の感覚だと、「死を恐れない」というのは、究極の強さだと認識される。

 あるSF映画でも、命令に忠実に従うロボット兵士たちのことを『死を恐れない理想の兵士』と表現している。

 今日考えてみたいのは、なぜ「死を恐れないことは弱さなのか」である。



 スピリチュアルの世界や悟りの世界では、「執着しないこと」がよしとされる。

 執着こそが、苦しみを生み迷いを生む、と。

 そしてそれこそが、人が悟りの道に至るのを邪魔する、と。

 だからこそ、すべてを手放すこと・言葉は悪いが「どうでもいい」という境地を目指そうとする。



 宗教やスピリチュアルのやりすぎで、「この世の流儀」を忘れている人は多い。

 ちょっと、当たり前の感覚に戻って、考えてみませんか?

「死にたくない! 生きたい!」 というのがフツーの感覚。

「死など恐れない、生に執着しない」 という人は、どう数えてもマイノリティだ。

 大事なものを失うこと(この場合は命)は辛い、イヤだというのは自然だ。

 どこがいけない?

 それを問題視するのは、スピリチュアルだけである。執着はよろしくない! と言って。だから苦しみが生まれるのだと。

 でも、その苦しみを背負ってでも、特定の何かにこだわって生きたり、特定の何かを特に愛したり、ということを味わうことこそが、人生というものでは? それこそが、この世ゲームの本来の目的では?



 はっきり言いましてー



●執着しないでこの世ゲームを続けるなど、不可能。

 百歩譲ってそうできたとして、どこが面白い?

 この二元性の世界に遊びに来て、何も執着しないことを目指すのは——

 TVゲームのコントロールレバーにも触れず。

 Aボタン、Bボタンにも触れず。

 ゲームがどうなろうが、「これでいいのです」というようなもの。

 どうでも、よくないでしょう!



 もちろん、こう考える人もいるだろう。

 いやいや。物事にフォーカスして、頑張るからうまくいくのではなくて「求めていない、執着していない」からこそ、結果としてうまくいく、ということがあるのです、と。

 その理屈は、「全員が引き寄せの法則を、例外なく間違いなく使いこなせますよ」 と言うのと同じくらい暴論である。そうなる徳の高い人はいいでしょうよ。でも、これはどう見積もっても、執着しないでうまくいく人の方が全体数としては少ない。

 やっぱり、何かしら物事にフォーカスして、あえて向き合っていくことが、この世で何かを成す王道である。

 もちろん、そこには 「心からしたいという情熱」「ワクワクや喜び」 といったものが含まれているのは、いうまでもない。



 この際、認めちゃいませんか?



●執着自体に、善悪はない。

 むしろ、この世ゲームをする上では必要だ、と。

 これがあるから、世の中が面白い。

 人生が、面白い。



 その点では、「エゴ」と同じ。

 スピリチュアルの世界では、可哀想なくらいひどい扱いをうけているエゴさん。

 でも、エゴさんがいないと、この世は闇ですよ?

(この理屈、ビックリですか? 今までは、エゴがあるから闇なんだと思ってませんでした?)

 執着、っていう言葉のもつイメージや第一印象が、そもそも悪すぎる。

 あきらめずに、一心に何かを続けることだって、執着ですよ。

 ひたむきさ、というと聞こえが美しいですが、それだって 『形を変えた執着』 ですよ。それって本当に、良くないことですか?

 ちなみに、執着という言葉を辞書で引くと——



●一つのことに心を とらわれて、そこから離れられないこと。



 ……とある。

 例えば筆者は、この小説投稿サイトを利用する楽しさから、離れられない。

 もちろん、のっぴきならぬ事情やアクシデントにより、物理的に利用が不可能な状況に追い込まれたら、当然それが最善ととらえるだろう。でも、そうならないかぎりは、書き続けるだろう。

 これも、ある意味執着である。

 読者の中には、「いいことに対してだったら、執着って言わないんじゃないの?」 と思う人もあろう。

 でも、スピリチュアルの言う基準は厳しいですよ?

 覚醒(悟り)に至る上では、「この世の基準で良いことであっても、執着は執着」 って言われちゃいますよ?



 つまりは、何かに執着するくらいでなければ、パワーなんて生まれないのである。

 私は、覚醒は「自然に起きるのでなければ、オススメしない」という立場を取ってきた。だって、覚醒を目指すということは、「執着しない」ことを目指すのと同じだから。

 私は思う。そんなもの目指さなくていい。

 何かに心を向け、ひたむきに頑張るのって素敵です。

 それがうまくいかない時。思いが強いだけに、悔し涙を流したり、よし、もっと頑張ろう! と思うことって素敵だと思う。美しいと、私は思う。

 もしここで、悟った風に「まぁ、仕方がありませんね。これも最善です。別に執着していませんから、心は揺れていません」なんて涼しい顔で言う人がいたら、蹴っ飛ばしたくなる。



「お前、生きてんのか!?」



 一元性の素敵な世界に、お帰り遊ばせ。

(私がこう言わなくても、本気で覚醒目指す人は喜んでお逝きになるだろうが)

 この物理宇宙世界には、分離を味わいに来た。

 エゴを通して、自他の演ずるドラマを楽しみに来た。

 執着しに来たのだ!

 生きるということは、エネルギーの膨張と爆発である。さらに、生きるためのエネルギーを生むためのエンジンの構成部品のひとつに、「執着」がある。

 その部品をあえて抜くということは、この世ゲームを楽しむ上で「機能不全」に陥るのと同じこと。

 スピの世界では論理のすり替えが起こっており、その機能不全が「良いことである」「この不完全な世界 (罪の世界) から浄化されてきている!」なんて話になってしまう。

 そうなった人は、世間に通用しない「痛い人」になるか、逆に一握りの超有名人になって成功するか、のどちからかである。



 ちなみに筆者は、覚醒前に執着を手放した覚えはありません。

 執着バリバリでしたよ。

 そりゃあ、厳密な目で見れば一切を手放すかのような、執着から解き放たれたような境地になった瞬間があったのかもしれないし、ただ私の自我がそれを自覚していないだけかもしれない。

 でも、そんな自分でよう分からんような程度の代物が、何だというのだ。

 それでは、自分の自覚や努力など、ほとんど意味がないではないか。

 そうだ。本当に意味がないのである。

 自覚上は執着バリバリ、煩悩悶々の私が、ある日いきなり覚醒した。

 ちょっと爆弾発言だが——


 

●執着していても、悟る時には悟るもの。

 言い換えれば、悟りと執着との間に相関関係はない。



 厳密にまったく関係ないとは言わないが、もはや自我が認識できる次元を超えた話。だから、自意識上の「執着しない」なんて操作は、屁のツッパリにもならない。

 つまり、執着というものを過度にマークして、警戒しなくてもようござんすよ、ってこと。そのせいで、人として充実した人生を送れないなら、本末転倒。

 ただ、ひとつキーポイントとなる意識の在りようがある。



 執着することを、良くないとあなたが思うから、その願い通りの世界を見る。

 執着しても、私の人生の主人公としての魂の旅に、何のマイナスもないと思えばいい。そこに、罪悪感を抱くか抱かないか。ここがミソ。



 最後に、もう一度話をバットマンに戻そう。

 執着しない、つまりここで「生に執着しない」というのは、スピリチュアル的には 「最高」であり、もっとも理想とされる状態である。

 でも皆さん。こんなバットマンの映画見たいですか?



 バットマンが、敵に負ける。

 敵が叫ぶ。「お前の負けだ!ワハハハハ」

 バットマンは悔しそうでもなく、柔和な表情を浮かべて言う。

「確かに、私は現実としての勝負においては負けたように見える。でも、私の魂はそんなことに左右されない、もっと別のものをとらえたのだ。私は、このあるがままで完全なのだ!」 と最後に言い残して、死んでいく。

 敵は、ご都合主義のドラマのように、その言葉で改心したり感動したりしない。

 最後に一言。 『……バッカじゃないの?』



 死を恐れない、ということは言い換えると、「生きようが死のうが、どうでもいい」ということ。

 この 「どうでもいい」というのは、一見執着しない状態と相似形に見えるので、いいことのように思える。

 でも、次の例えをよく考えてほしい。



 ここに、女の子が一人いる。

 彼女は今、暴漢に襲われるという現実に直面している。

 さて、もしここに一人、女の子の近くに、ある人物がいたとして——



 ①この女の子を心から愛していて、絶対に失いたくないという思い入れのある人物。

 ②この子のことを知らない、他人。



 ①と②、女の子が助かる可能性が高いのは、どっちが一緒にいる時?



 もちろん、①である。

 必死で守るだろう。場合によっちゃ、命に代えても守るだろう。

 ②はどうか。人類愛的に、最低限は守ろうとする常識が働くだろうが、自分の命が危うい状況になったら、分かりません。逃げるかもしれない。

 それは当然、②の人が悪人なわけでも、ダメなのでもない。

 そこまでの執着が、この女の子にないからである。



 覚醒したい、と思っている方へ一言。

 執着しないようにしよう、と自意識で気を付けている程度で、本当の手放しなんてできませんよ。

 だって自我では、どうしようもないんだから……

 一切の縛り方ら解かれて、思いたいように思い、したいようにしませんか?

「執着を捨てる」ことで「悟りに近づける」なんて思うのは、ズバリ指摘すると『交換条件』です。これを差し出すから、見返りとしてこれを差し出せ、という。

 お願いですから、執着を捨てる、ということを『手段化』しないでください。

 もし、仮に執着を捨てることで悟ることなんてできないとしたら、あなたは本当に執着を捨てますか? それだったらやめとこ! ということなら、あなたの執着を捨てたいという思いは偽物です。

 何が得れなくても、何の見返りがなくても『執着を捨てたい』と思う時——

 それこそが、本物です。



 今日の結論。



●執着は、刃物と同じで使いようによって役に立つ。

 心配しなくても、生きる上で今ここを潤してくれる程度の執着は、悟りにおいて何ら障害にならない。

 むしろ、執着は悟りに障害だ、という決めつけの方が問題!



 バットマンが弱かったのは、執着がなかったからである。

 生きたい! 死は怖い! そう思うからこそ、湧いてくるエネルギーもある。

 スピの世界では、いくらすごいエネルギーでも、出所が恐れや執着というだけで、一蹴するだろう。それが楽しいなら、そう判断することがしっくりくるなら、そうすればよい。

 ただ私は、嫌だ。

 執着だと言われようがエゴだと言われようが、好きなものは好きだし、守りたいものは守りたい。

 時には、悔しいこともある。涙することもある。悟りには遠いと、笑わば笑え。

 何と言われようと、一生懸命な、一途な、泥臭くても熱い生き方が好きだ。

 例えこの次元でのゲームが、空(ワンネス)意識にとって 「壮大な暇つぶし」であったとしても。


 

『100万回生きたねこ』という素敵な絵本を知っていますか?

 はっきり言って、ラストシーンの主人公ネコの思いは「愛した妻への執着」です。

 でも、やっぱり美しいと思いませんか?

 あれを未練であり、執着だと片づけることが、あなたにはできますか?

 私にはできない。

 そりゃあ、あのネコは『覚醒者(覚醒ネコ?)』にはなれなかったかもしれませんが——

 幸せではあった、と思いますよ。

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