第3回『二代目はクリスチャン』


 志穂美悦子主演の、かなり昔の角川映画。

 シスターという、暴力や人殺しとは無関係な存在がヤクザがらみの抗争に巻き込まれていくというギャップが見どころな点では、「セーラー服と機関銃」も似た構造を持っている。

 先にやったもん勝ちというのもあり、順番的にはあとでできたこの映画はどうしても「二番煎じ」的な印象がぬぐえず、人気度・認知度ともに後者の作品の方が圧倒している。

 「セーラー服と機関銃」では長澤まさみや橋本環奈でリメイクさえつくられたが、こちらの 『2代目……』 のほうは冷遇され、微塵もそんな気配はない(泣)。

 私としては、こちらのほうが復活してほしいが。



 主役は、教会のシスター。

 当然であるが、クリスチャン(キリスト教信者)である。

 暴力をはじめ、人を傷付ける行為などあり得ない。

 そんなシスターに、密かに思いを寄せる男性がいた。

 彼は何と、ヤクザの組長の跡取り息子。

 シスターも、キリストの教えがしっかり入り過ぎ(?)て人を「偏り見ない」ので、嫌がらず接していく。跡取り息子の子分たちも、皆信者になる。

 任侠の世界しか知らなかったヤクザたちは、彼らなりに教会活動を頑張ろうとするが、自分たちの尺度で行動してしまうのでトンチンカンなこともする。しばらくは、そこの面白さを突いたコミカルな場面が続く。

 でも、話はだんだんシリアスになってくる。



 ついに、シスターはヤクザの跡取り息子とゴールイン。

 しかし、結婚式当日、跡取り息子は刺殺されて死ぬ。

 本当ならば、結婚と同時に彼の二代目襲名式も予定されていたのだが、それどころではない騒動になる。しかし、腹を決めたシスターは、「妻」として自分が二代目を襲名すると宣言する。

 本当の苦労は、その後からだった。

 縄張り争いで折り合いの悪かった他の組から、ことあるごとに嫌がらせと妨害を受ける。一人。また一人。シスターを慕って信者になった子分たちが殺され、死んでいく。挙句には、教会にロケット弾まで撃ち込まれ。

 シスターは、「敵を愛せよ」というキリストの教えと、この理不尽をゆるせるか、という煮えたぎる思いとの間で揺れる。

「神様、こんなのあんまりですよね。ひどすぎますよね……」

 その時。まるで神からの啓示のように。シスターに答えを示すかのように——

 ロケット弾を受けて崩れたキリスト像の後ろから、あるものが姿を現した。

 それは——ひと振りの日本刀であった。



「……私、もう頭にきました」

 生き残った子分、幼馴染の刑事とともに、敵の組事務所に殴り込み。


 

「てめぇら! 十字を切って悔い改めやがれ。

 でねぇと一人残らず叩っ斬るぜ!」



 聖書に、こういう言葉がある。



●一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。



 ヨハネによる福音書 12章 24節



 この言葉は、誤解されがちである。

 キリストの尊い犠牲によって、より多くの人に救いがもたらされた、という風に。

 自分以上に、他者の事を思う。その幸せを考える。

 そういう、自己犠牲愛(アガペーの愛)こそが、世界を救う、と。

 ゆえに、この言葉を苦労している人、今逆境にある人への励ましとして使ったりする。この言葉を引用して、あなたの辛さ・苦しみは必ず報われる、と。 

 さて、ここで筆者流解釈。



●一粒の麦=あなた。


●死ぬ=あなたを縛る常識。これは良くない、するべきでないという縛りに死ぬ。つまり、それらを破ってでも突き動かされる思いに従うこと。


●死ねば豊かに実を結ぶ=あなたが一度、自己保身や体裁を守るための縛りに死ねる (それらを捨てる)思いきりを持てたなら、あなたはその爽快さにびっくりする。「何でもっと早く気付かなかったのだろう?」 で、味を占めてあなたはどんどん今まで越えられなかったもの、向き合えなかったものをブレイクスルーしていく。そしてそれはあなたに利益をもたらすのみならず、周囲にも伝搬する。



 きっとイエスが実際にいたら、シスターに刀を渡すんではないか。

 気の済むまでやれ、って。

 キリスト教的理解の誤りは、ここでイエスはどんなに憎くとも、悔しくとも、復讐するべきではない。そんなものからは、何も生まれない。そのように言うはずだ、という理解。

 


 確かに、復讐からは何も生まれない。

 でも、本気でしたいのを無理に止めたんだったら、もっとひどいことになる。

 我慢からは、何も生まれないどころかひどいものを生み出す。

 ということは、復讐の方がマシであるということ。



 何かの教えや道徳で抑止できるんなら、大した問題じゃなかった、ってだけだ。

 どうしようもないから起こるんでしょ?

 例えば、あなたが自分の親兄弟子供を目の前で殺されたとして——

 あなたは 「殺してやる!許せない!」と飛びかかって殴りつけようとする。

 そんな時に、「こいつを殺して何になる! こいつを殺しても、お前の大切な人が戻ってくるわけじゃないんだ!」 と、ごもっともな言葉をかけて止められたら?

 そんな言葉、あなたをちっとも救いやしない。

 こんな時、もっとも救いになるのは 「あなたがある選択をするしかないような激情の波に囚われている時に、それを常識や理屈から否定せず、黙って(後押しはせずとも)受け止めてあげること」 である。もっとも、この映画では日本刀なんかタイミング良く出てきちゃったりして、「やれやれ」って後押しされてる感じだが……

 大丈夫。存在意識は死なないから。復讐が起こっても、それはひとつのドラマだ。

 死もそうだ。これは後に「ルーシー」という映画の評論でも触れたい。

 遊園地のジェットコースターと一緒で、安全だ、死にはしないと分かっていて、でも急降下や高速回転の瞬間はやはり「怖い」のと同じ。

 のど元過ぎれば、この世での人生は「演劇」だったと分かる。

 さぁ、安心して(?)思いっきりドラマ演じちゃってくださいよ。



 復讐を奨励する、という浅い話ではない。

 したいこと全般、したいようにすればいいということ。

 多くの人は、色々複雑に考え、常識的条件的縛りを徹底的に考慮し、しぼりかすのような選択肢に甘んじることに日々必死だ。

 体面を最後まで保とうとする。この世ゲームを、やりたいようにやり切るというよりも 「どんなにつまらない人生の成果であっても、人様から後ろ指をさされなければそれこそ勝利であり、成功」と考えている。

 判で押したような平和主義、愛だの仲良くだの、自分は安全なところにいて対岸の火事を見ながら言う人たち。治安のマシな日本にいて、海外の紛争などのニュースを見て 「何であの人たちはあんななんだろう。私なら、ケンカなんかしないのに」 と言う。

 かつて、飢える民衆を見てマリー・アントワネットが「食べ物がないなら、お菓子を食べたらいいのに」とか言ったとか言わないとか。その言い分に似ている。



 ……みんな、地球という壮大な演劇で振られた役をやるのに、忙しいんだよ。

 大真面目にちゃんと、シナリオ通りやってるだけなんだけど。

 あなたはあなた。よそはよそ。 

 よく考えたらさ、「アイツを殺しても、あの人が戻ってくるわけじゃない」 って理屈、安っぽくない? 殺された人が戻ってくるわけじゃない (何も得をしない) からやらないの? じゃあ、「殺したら戻ってくる」んだったら、やったらいいの?



 よく、「人殺しは絶対いけない」と言う人がいる。

 その意見はもう、水戸黄門の印籠のようなもので、まず皆ひれ伏す。

 誰も反抗できない。人殺してもいいんじゃない? なんて外に向かって言えば、人からまともに扱ってもらえなくなるだろう。

 私も、基本的には同意する。ただ、条件付きで。



●人殺しはいけない。

 ただし、起こってしまった分に関しては、もう振り返って評価をしない。



 もちろん、言葉で言うほど簡単ではない。勇気のいることだ。

 (その勇気がでることすらシナリオだけど)

 私は、世のすべてが映画としてのドラマに過ぎず、幻想であり中立であることを知った者として——

 人殺しに手を染めた者は、あくまでも「そういう脚本であった」と見たいのだ。

「この人はとんでもないことをした。道を誤った。人間として最低だ」という風に、役割上の事でその命まで価値判断をしたくない。



 もちろん、すべては感情ドラマだ。

 人殺しをすれば、社会的制裁を受ける。遺族からは恨まれる。

 もちろん、この世ゲームにおいてのあなたのプレイ内容に対して、周囲の感情反応という形でフィードバックされる。何らかの現象がその人に返ってくる。

 それは、甘んじて受けなければならない。

 でも、それで十分ではないか。

 やったことの波紋を受けること以上になお、その人を責めようというのか。

 この映画で、理不尽に善人を殺した敵ヤクザを刀で叩き斬り、復讐を果たしたシスターは、世間的には間違いなく 「人殺し」である。もっと言えば、英雄扱いの赤穂浪士だって、理由は立派とはいえ結局「復讐であり人殺し」である。そういうのは拍手喝采して見る癖に、リアルにそれがあるのはゆるせないの?

 ウソの世界での人殺しや戦争は大歓迎(映画・小説・テレビ)で、現実はダメ?



 我々は、生きているこの世界がリアル(現実)で、マンガや映画、小説の世界、見る夢などは虚構であり、命を持っていないと思っている。

 実は、この現実と虚構の物語との間に差はない。どちらも同じ「リアル(現実)」 である。ただ我々は、ゲームプレイの必要上こちらのワールドを基準に考える必要があるだけ。

 だから、やたら切り取ったこの現実が一番重要に見える、というだけ。

「~さん中心に、体操の体型に開け!」 みたいなもので——

 その~さんという中心が、この世界(舞台装置)なだけ。



 最後に、イエスの言う「敵を愛せよ」の解釈を。

 敵を倒さない。尊重して大事にする。そういう意味ではない。



 あなたの敵とは、具体的何かではない。

 人や組織ではない、災害や事故ではない。

 あなたの敵とは、あなたにふりかかる人生上の障害や問題という「概念そのもの」 である。

 嫌われるが、それがあるからこそこの次元ゲームの意味があるのだ。だから、あなたが生きる上で起こるすべてのことを 「それはそれとして認めること」 。

 それが、「敵を愛する」という意味合い。

 だから、決して「敵(誰かさん)を愛しなさい。争いはいけない」ってな風に、あなたの選択肢を限定・強制する意味合いではない。だから、したけりゃ遠慮なくケンカでも復讐でもしたらよろし。

 問題はあるものなんだ、という受け入れだけの話だから、具体的解決とは別問題。

 必死に解決していい。腹が立ちゃ、我慢せずそう主張したらいい。行動を起こしゃいい。

 したらしたで、そこでまた関わった人々の思いのエネルギーが絡み合い、またドラマが紡がれる。その連続が、この世界を作っている。



 もうね、難しく優等生的に考えないでさ——

 思いの振子が振れる方を選択したらいいじゃん。

 憎くて仕方なけりゃ、「叩き斬るぞ!」でええやん。

 ただ、ゲームルール上やったことの責任は取らないといけないけど。

 誤解覚悟で言えば、「腹さえ括れば、何やったっていい。」

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