第123回『母性』

【作品紹介】


「告白」で有名な湊かなえの小説を映画化。とある母子の半生がそれぞれの視点で語られていくが、おなじ体験やエピソードが語られているのに、微妙に食い違う。

 子どもを愛せない母・それをどこかでは分かっていながらも認められ愛されることをあきらめきれない娘の、悲しくも壮絶な人生模様。

 主演は戸田恵梨香・永野芽郁。



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 小説が原作だが、私は読んでいない。もし、この映画が原作を忠実に映像化したものであるなら、小説が残念ということになる。もしかして、映像化する段階での脚本化においてまずさがあったのなら、そこが悪いということになる。

 テーマ性というか、いびつな家族愛とそこにどうしたら救いをもたらすことができるのか、と考えさせるという点では秀逸である。

 ただ、このお話はいただけない。最後、文字通りのハッピーエンドとは言えないまでもある程度事態が「丸く収まる」ラストを迎えるのだが、そこに至るまでの必然性というか、視聴者が納得できるような材料が不十分なのである。

 なんであそこまでのことがあって、登場人物たちが皆こんなに納得して普通の日常を送ってんの? 私にはそこの納得材料が提供不足に思えた。

 最近は格好つけたがりなのか、時系列を多少いじって物語を時間の流れ通りにはしないのが流行っているのか、この作品も最初にラストシーンと同じ時間に起きたことを流し、そこから遡って……みたいなことをしているが、それが効果的に生きていない。むしろいたずらに視聴者を混乱させるだけでプラスになっていない。

 文句ばかり言ったが、これはエールである。日本映画を愛すが故である。

 ただ文句を言ってこきおろしたいのではなく、ここをこうすればもっと大勢が喜ぶ作品になるのに……という思いからである。ここをよくしたらもっといい作品になるよ! というダメ出しである。



 戸田恵梨香演じる「母」は、非常に不気味なキャラクターである。

 一見育ちがよく品がよく、まともで常識人に見える。だが、よくよく彼女の言ってることを聞いていくと、端々に「違和感」を感じることになる。

 この違和感の正体はというと、本人の誤った思い込みが突き抜けすぎていて、もはや真実(ホンネ)の領域に達していることによる。

 劇中に、母の次のような趣旨のセリフがあった。「私は、他人に奉仕できる(人の役に立ちたいと思っている)人間だ」。つまり自分は人を思いやれる、良識ある人間だと自認しているのだ。

 確かに、表面上はそうなのだがその自分がした「他人のためになること」が、きちんと評価されなかったり自分の思ったような流れにならなかった時、鬼と化す。結局自分が「こう」と思ったことが思い通りにならないと我慢がならないのであり、人の役に立ちたいというのは結局自分の満足のためで、なんら褒められたような愛他精神があるわけではないということに本人が気づいていない。

 この、「自分の間違いにまったく気付けない」というのは一種の才能である。才能という言葉が気に入らないなら、障がいである。欠損である。普通は、客観的にそういう自分を見つめて自己嫌悪に陥ったり罪悪感に悩んだりするのだが、この「母」は、まったく自分が正しいと信じ一片の曇りもない。そこが恐怖なのだ。

 世で、信じられない犯罪を起こすような人物にはこのタイプが少なくない。自分の中に独特の「正義」や「(自分だけが正しいと思う)掟」がはっきりあって、それを守ってさえいれば心が安定し、決してやっていいことや悪いこと、あるいは世の倫理道徳観という基準には無関係で縛られない。「なんでそんなことができるんだ」「人でなし」と責めても意味はない。

 彼らにはそれが普通で、何の思い切りも無理もない。



 スピリチュアルをやる皆さんに問う。

 この「母」と同じになっていないか?

 私は人に尽くせる立派な人間だ、と思えている。でもその実は自己満足のために利用しているだけ。それで相手が感謝し、自分が思い描いたような図になってれば満足なのだ。でも、親切を施す相手が自分が思い描いた通りの反応をしない場合、母の中の「地雷」を踏んだ時。その母は悲劇の元凶となる。



●もしかしたら、あなたは気付いていないだけかもしれない。あなたはただ自分の満足や利益のためにスピリチュアルを(人によっては宗教を)利用しているだけなのかもしれない、ということを。



 まともに取り組んでいれば、スピリチュアルは良いものではある。ただ、ちゃんとやっていると思ってるのは本人ばかりで、何かがズレていてどこかがいびつであるがゆえに、なぜか人生が良い方向に向かわない。一例に過ぎないが、たとえばそれをすることで友人や家族と何か揉める、価値観の違いからなにか感情的トラブルが起きるなら。(あなたに問題なくても他者が泣いたり怒ったり苦情を言ったりするなら)それは何かがおかしいサインである。



 よいことをしていると思い込んでいて、その実何にもなっていない。むしろ空回りどころか自分も周囲の状況も悪化させているだけ、という恐ろしい「スピリチュアル実践の状況」というのがある。世にこれほど勿体ないことはないので、一刻も早く気付いておやめになっていただきたい。

 スピリチュアルとは、あなたの個人的満足のためにあるものではないのだ。

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