第43回『ルーシー』
【ストーリー】
体内に埋め込まれた特殊な薬が漏れたことで脳機能が驚異的に覚醒し、人間離れした能力を発揮し始めるヒロインの暴走を描く。通常は10パーセント程度しか機能していない脳が、100パーセントへ向かって覚醒していく様子を、スリリングに描く。
主演はスカーレット・ヨハンソン。
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私としては、大絶賛の映画であった。
何、脚本としては穴が多い? 荒唐無稽?
色んな評価はあろう。
でも私としては、この作品が持つ大きなテーマ性、そして根源論的問題提起。それがあるだけで、細かいアラなどかすむほどの勇気ある力作である。
血も涙もないマフィアが話に絡んでくるので、少々流血シーンや銃撃戦が多い。
そういうのさえ我慢すれば、本当にオススメの良作である。でも、無理してまで見なくていい。
人間の脳は、普段は10%少々しか使われていない、というのは知識としては聞く話だ。子どもの頃、『北斗の拳』なるアニメが流行ったせいもあり、「脳の残りの部分も使えたとしたら、どうなるんかいな?」ということは考えた。
流石に、マンガ通り超人的な強さになる程度のことで済むとは。子ども心にも思わなかった私であったが。
今回の映画を支える発想の原点は、「人間の潜在的能力が100%覚醒したらどうなる?」ではあるが、そこには根源論的問いもまた潜んでいる。そもそも、我々は何者なのか。(人間、という知的認識で捉える情報を超えたところで) そして、何が我々(世界)を作ったのか? というところまで行く。
そういう意味では、娯楽映画ではあるが、かなりスピリチュアルな部分まで斬りこんでいる。
※作者注:近年の研究により、「脳の10%しか使っていない」は誤りである、という学者も現れてきた。ただし、では脳の領域のどこをどれくらいの頻度で使っているのか、という細かいデータを得るまでには至っておらず、この問題に関する確実な正解は分かっていない、というのが現状である。
我々は、脳が10数パーセント程度しか使われていないという事実に対して、ともすればこういうイメージで考えてしまうのではないか。
損をしている。
もったいない。
何とか使うことができたら!
そのように、「遊んでいるのはもったいないから、何とか使えないものか」という方向性の考え方になる。損得で考えることが身についている我々には、「残りが使えたらもっとお得なことになるのだろう」という夢想が膨らむのである。
さて。本当に、脳の残りが使えるように解放されていいのか?
いきなり、なっていいか?
肉体に筋力というものがあるように、人の心にも 「心筋力」というものがある。
重いバーベルがあっても、それを上げる筋力がないと持ち上がらない。
その理屈で、いきなりあなたに宝くじが当たって大金が入っても、今の経済状態が身の丈に合っているあなたが、何の成長もなく心を鍛えることもなく、その「重さ」を背負って扱いきれるのか? ということだ。
本当に、一生遊んで暮らせるような大金が今あなたに転がり込めば、幸せなのか?
この映画は、今まさに平凡なある女性が、脳の100%の覚醒の道へと押し出されたらどうなるか? を描いている。
脳の覚醒が20%に至ると、自分の体の支配が完全になる。
痛みもなく、目的のために生理的感覚を超越できる。
30%に達すると、他人をも操ることができる。もはや、自分という人間のアイデンティティが怪しくなってくる。今まで自他を分けて認識するのに役立っていたエゴ(自我)が崩壊しかける。すべてはひとつで、境目とは人間が五感や思考で認識している幻想に過ぎないと看破する。
非常に面白いと思った描写がある。
ルーシーが、携帯で母親に電話をするシーンだ。
「愛してる。ありがとう」という趣旨のことを述べ、涙をちょっぴり流して電話を切る。彼女は、なぜこのタイミングでそんな行動を取ったのか。
脳の覚醒が進み、自分が人間であり、ルーシーと名のついた分離個体であるという認識が崩壊しかかってきたからだ。
このまま行けば、人間らしい感情をすべて忘れると思ったルーシーは……
最後、まだ人としての感情が残っている内に、愛を告げておこうと思った。
だって、誰から生まれたとか、誰の子とかそういう次元を突き抜けて、生命の根源にまで理解が達しようとしていたから。神となった後では、両親も親友も、痛みも死もすべて何でもないと分かってしまい、もう後戻りはできないから。
実際、この電話の後、彼女は死を恐れない。
また、(必要最低限だが)人を殺したり、傷付けることを何とも思わない。
「死ぬかと思ったよ」と言った刑事に、ルーシーは一言。
「死など存在しない」
その後もどんどんと人間的な感覚から遊離していく。
彼女は、脳がどんどん覚醒していく自分の内側を、このように表現した。
●どんどん、人間らしい感情がなくなっていく。
痛みも苦しみも死もない。その代わり、喜びや気分の高揚などといったものもない。その代わり、内部で膨れ上がるのは情報。膨大な知識。
まるで、宇宙を構成する全データを取り込んだかのよう。
そうなのだ。
脳の100%を取り戻すということは、言わば「神に戻る」のと同じ。
神という言い方は誤解を招きやすいが、今回理解のしやすさのためにあえて使う。
完全世界(パーフェクト・ワールド)に満足できなくなった神は——
己の完全性を一度投げ打ってでも、物語(ストーリー)を作って、その流れを追体験してみたくなった。もちろん、自分が創ったという認識と全能性そのままでは、個としての旅立ちにおいて面白くも何ともない。スリルも何もあったもんじゃない。
だから、己の完全なる神としての能力(スペック)を制限した。
それは制限というよりは、かなりの部分を封印するような形になった。
50CCバイクの「リミッター」のようなものだ。
幻想ゲームを面白くするためには、それが必要だったからだ。
つまり私の解釈では、人間が脳の一部しか使えていない、というのは本来使えてもいいはずのところにマイナスになっている、という発想ではなく——
●むしろそれで当然。
エゴによって自他を分けて認識して生きる二元性体験マシーンとしては、ちょうどいいくらいである。
50ccの原チャリで、250ccのバイク並のスピードが出せてしまったら?
あんな軽いボディで時速百数十キロも出したら、絶対に怖い。危ない。
重たくて大きい車体だから、速度を出しても安定して支えられる。
脳が完全覚醒してしまったら、神である自分を人だと騙していたことがバレバレになる。ということは、己の完全性も思い出し、取り戻す。こうなったら、肉体というウソ見え見えの入れ物では、その神の意識を支え切ることはできない。
映画の中で、宇宙の究極根源にまで至ったルーシーは、決まった形(肉体)を失う。だって、もうそういう形に囚われることは不可能になったから。
ルーシーが消え、「彼女はどこへ行った?」と探す者達に、携帯のメール画面を通じてこう伝える。
『私は、いたるところにいる。』
汎神論みたいだが、最終的に彼女はすべての存在と同化し、ひとつとなった。
私が、映画を見終わって思ったこと。
●覚醒なんてせんでええやん。
一応ここでは、スピリチュアルでいう「悟り」を指す覚醒ではなく、「脳の潜在能力が100%開花する」という意味でのことを言う。
神は、自らが神であることを忘れてまでこの世界に遊びに来た。
遊ぶからには、徹底して神の記憶を封印し、本気で遊ぶ気だった。
このゲームを、ずっと続けたいのである。
脳の能力発揮を抑えたのは、決してマイナスなどではなく方便として、である。
だから、私見としてはしゃかりきになって能力開発を目指さなくていいと思う。
ギフトとして、流れとして来るなら、受け取ったらいい。
そうでなく、欲望のためにガツガツとして超人的能力を早く得ようなんて、愚かだ。人類は、大勢がそのゴールに今たどり着いていいほどには成熟していない。
いやむしろ、それでいいのだ。
ゴールには、まだまだ早い。ゆっくり楽しめばいい。
宇宙はそんなのんきな構えなのに、ヘンに知能だけが肥大した人間だけが、生き急いでいる。
「宇宙は急いでいる」。そんなことを言うスピリチュアル指導者もいるが、私は違う。筆者の意見では、焦っているのは人間ばかりで、天は全然そんなことはない、と教える。
もっと厳密に言えば、あちらには急ぐもゆっくりもない。
我々がもつような「意図」がないのだ。
我々は自分たちが意志を持っているので、究極存在も自分に当てはめて「意志がある」と考える。確かにそういう意志を持った「神」のごとき存在はいるが、究極原因とは何の関係もなく、二元性側の住人である。
この世界を創った存在はどちらかというと、イヌ科とかネコ科とかいう流儀で言うと「ヒト科」に近い。皆さんが神々だとか呼ぶのは、「空」とか「一元性」とは何の関係もない。
神だろうが何だろうが、意図を持ち思いを持ちメッセージの類を発信してくるなら、それは人間とそう変わらない霊的存在に過ぎない。本当の神には、意志がない。発信などもってのほか。究極の「虚無」である。
皆さん。
そんなに親への、子への愛情を忘れたいですか。
自分という、愚かしくも愛おしい存在のささやかな奮闘を、愛の奇跡を忘れたいですか。突き抜けた『覚醒』が手に入ったら、どうでもいいですか。
知らないから目指せるのだ。100%の覚醒とは、そういうことだ。
死も悩みも苦しみもないかわりに、喜びも他を他として愛することも、ドキドキしたり腹の底から笑ったりすることもない。
でも、ゲームであるからには、事態は進行していくのだろう。
それなら、それに従うしかない。
でも、自分から時計の針を早めるような行為は要らないのではないか。
本質に近付き過ぎると、人間性から遠くなる。
神には、人間性がない。だから、我々が人間感覚で「理不尽だ」と思うことも、何ともなくなる。
ルーシーは、射殺した人物がさっきまで食べていた食べ物をガツガツ食べても平気になる。気持ち悪いとか、人としてありえないとか、そういう解釈がなくなるのだ。
悪人ではあっても、射殺するのに一切のためらいがなくなる。
もうちょっと、この地球でゆっくりしようではないか。
分離した個として愛する人に囲まれ、また愛しながら。
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