第61回『寄生獣 完結編』

【ストーリー】


 右手に寄生生物ミギーを宿した少年・新一と人類を食糧とするほかのパラサイトたち、彼らの全滅を図る特殊部隊が入り乱れる、壮絶なバトルが展開。地球での生存を懸けた人類とパラサイトの激闘の行方に加え、新一とミギーの友情をめぐるドラマも見どころ。



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 前編を見ないでいきなりこれを見るのは、楽しめなくはないがやはり興は半減するだろう。知らない方は、まず前編を見ましょう。(笑)



 我々は、地球の平和を守る、という表現を使うことがある。

 特撮ヒーローものとか、特に主人公が口にするよね。昔の特撮ヒーローものでも「地球の(世界の)平和を守るため~♪」なんて主題歌の歌詞にある。

 でもそれってさ、よくよく考えたら——



●地球の平和なんか守っていない。

 単に、「人間だけの平和を守っている」だけ。



 もちろん、個々人や団体によっては 「地球にやさしい」 活動に力を入れているところだってあるだろう。環境問題や生態系の問題のことを真剣に考えている人だっているだろう。

 でも、現実的には人類全体として、自分たちの群れが死なず種として「独り勝ち」状態。科学の力で、その独り勝ち状態を続けることにより増え続ける。

 必然的に他の種は人間の都合により減っていき、種によっては絶滅種となる。そして、人はそれを当たり前だと思っている。

 この映画の中で、寄生生物側の言い分は、そこにある。



●人間は、人を食う我々を悪者扱いするが、我々は地球全体の生物同士のバランスを保つためにいる。人間は自分のために他の生態系や自然を破壊し、数が異常に増えておいて自分が殺されるとムキになって敵は悪だ、自分たちを脅かす敵だと言う。

 おまえたち人間こそ、この地球の自分以外の生物を食い物にする「寄生獣」ではないか!



 そう。この作品のタイトルになっている 「寄生獣」 というのは——

 単純には人を食う寄生生物のことだと思ってしまいがちだが、作者の意図と言うか、メッセージとしては「人間こそ地球の寄生獣」だと暗に問題提起しているのだ。

 寄生生物を「人を殺す悪」「ゆるせない」という動機から、手に入れた相手と同等の力で倒していく主人公の新一少年。でも、人間に興味を持ち理解しようとする風変わりな寄生生物、田宮良子とのやりとりを通して、自分の側(人類だけを守る)ことが絶対善、という決めつけの外側からものを考えることができるようになる。人類の平和を守る戦いの中で、人間側のエゴに気付けたのである。

 じゃあ、彼は「仕方がない」として寄生生物と戦うのをやめたか、というとそうではない。

 寄生生物と戦うのは(人間側にまったく損害ができないようにムキになるのは)エゴだと知りながら、でも彼は「自分は人間であり、したがって人間のために、ひとりひとりを尊しとして守り戦い抜きたい、と考えるのは仕方がない。そこを難しく考え過ぎたら幸せになんか生きられない」という境地に至る。



 クライマックスシーン。新一は、最強の寄生生物と戦う。

 この時点で新一は、人を食い殺す相手が悪で、それから人を守る自分たちに正義がある、とはもう考えていなかった。相手は相手で、自分たちは自分たちで、精一杯生き残ろうとしている。目に見えない神のいたずらか、寄生生物の食糧が「人間」であったという悲劇が、両者を戦わせるだけだ。どちらが悪い、というわけではない。

 辛くも勝利を収めた新一は、相手がまだ死に切っていないことを確認する。

 新一は、こう言ってとどめを刺す。

「お前は悪くない。でも、それでもオレたちは生きたいんだよ——」



 地球の平和とか、人類全体のためにとか、そんなお題目はメルヘンの世界である。

 そんなたいそうなスケールのことを口にしなくていい。



●自分の愛する人(大事な人)を守りたい。



 ただ、それだけのはずなのだ。事実、それでいいのだ。

 哲学や宗教の魔境は、そこにある。厳密に命について探求していけば、自分たちのやっていることがこの地球においていかに自分勝手か、ということが分かってくる。

 自分たちの群れが死なないこと、傷付かないことに異様にピリピリしている。実際、科学力というものを持つので人間は問答無用で他の種を圧倒している。だから、望めばそれができてしまう。

 もう、歴史がここまで来てしまった以上、覆水盆に返らず、である。

 生きるしかない。自分という個を持った以上、死んでもいい、なんてことはない。

 数が多かろうが、バランス的に運命の神に間引かれることもあろが、それでもがむしゃらに生きるしかない。生き続けるには、死んではいけない。

 皆が生きたいと願うならば、「一定数は自然の摂理でしゃーないか」ではなく、全力で守らないといけない。



 どうせ、人間なんて存在するだけで地球に迷惑かけるようにできてるのよ。

 だから、ある程度は、感謝の気持ちをもって迷惑かけさせてもらう。甘えさせてもらう。もちろん、節度をもってね。

 利益だけのために度を越して迷惑をかけると、結局それは我々に返ってくる。知識的な部分では頭がいいくせに、魂の知恵はまだ幼稚である。自分たちのため、と思ってやっていることが、自分の首を絞めていることに気が付けないんだから。

 


 存在する、ということは迷惑をかけることである。

 息をする。食べる。飲む。住む。寝る。雨風をしのぐ。便利に生活する——。

 知恵を使いたがる人間を、原始生活に縛り付けておくのは拷問だ。

 だから、もちつもたれつ。

 動植物のお世話になり、木も切り倒し家も作る。乗り物をつくり、道も作る。迷惑料として、人間側に行き過ぎはないか時々自らを省み、必要分だけの迷惑にする。



 この映画が教えてくれること。

 とにかく命として生まれたんだから、自分なりの幸せを求めて生きるしかない。

 自分が生きる上で、いろんな他の利害とからみ、何を優先すべきか迷うこともある。でも迷う心さえあれば、あなたは間違うことはない。

 最終的には迷いの中から、自分の愛する者と自分との幸せを選びなさい。

 命全体の摂理を悟り把握し、生き死にに対して達観するほどの境地でないなら、誰だって絶対に自分が死にたくはないし、好きな人にも死んでほしくない。でも、それでいいのだ。

 分離した個として生きる、っていうのはそうゆうことだから。



 分離が起こったのは、「個」としての幸せ (この幸せとは、単純に良いことだけではない)を体験しに来たから。全体性としての完全なら、すでに知っている。知らないのは、分離した時にそのまったく違う視点をもつ個々から見た「風景」だ。

 それを見たいがために、この世ゲームのプレイヤー全員が一度に幸せになるのは難しいと知りつつも、その困難の中を自分なりに納得できる「幸せ」にたどり着けるように、無数の魂が挑戦を続けているのである。



 新一のように、「本当の正義じゃないと分かりつつ、それでも人を守る」という姿勢。現代人がもつべきは、それである。

 自分たちのしていることを客観的に分かっていて、それでもなおそうしなければならいことを知っているのと、まったく自覚しないで当たり前のように生きているのとでは、同じ文明生活をしていてもその価値は全然違う。



 知っててやるのと、知らないでやるのとでは、同じ行為でも天地ほど違う。

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