第16回『終戦のエンペラー』
私は映画館でこの映画を見た。
劇場に入ったら、封切りしたてであったこともあってか、そこそこお客でにぎわっていた。たいていは空いている「両隣」の席も、今日は他人が座っていた。
しかし。見渡せば、若いのはまったくオレひとり!
客の9割強が、年配者だった。
若い人にこそいいと思うんだけどね、この映画。
でも、終始一本調子で緩急が少ないので、眠らないようにご注意を。
鑑賞前日に、睡眠を十分にとることをオススメします。
ジャンル的には、『歴史サスペンス』ということになる。
進駐軍を率いて終戦直後の日本に降り立ったマッカーサー元帥から、太平洋戦争の責任者追究を命じられた男が、衝撃の事実にたどり着く姿を、息詰まるタッチで追う。この映画の一番の肝は、天皇陛下に戦争責任があるか否か、である。
ここから私が述べる話は、この映画の内容を前提として展開する。
史実として正しいか間違っているか、はここでの話に関しては無視する。
戦争終結。
アメリカ政府は、戦争責任を日本の天皇に取らせたがっていた。
日本に派遣されたマッカーサー元帥も、そういうプレッシャーを受けてやってきてはいるのだが、彼はアメリカ政府の言いなりになるような器の男ではなかった。
政府を喜ばせることなどより彼が大事にしたのは、まさに「日本の再建」であった。恨みや正義どうのこうのという感情論ではなく、何が一番日本のためなのかを考えた。
そんなマッカーサーのお眼鏡にかなったのが、歴史的にも実在の人物である本作の主人公・ボナー・フェラーズ准将であった。彼は、日本人女性を愛した過去を持ち、それをきっかけに日本をよく知るようになった人物であった。彼なら、きっと適任だろうと。
マッカーサーは、彼に「天皇に戦争責任があるか否か」を、調査させた。
もちろん、マッカーサーとしては天皇を助けたかった。天皇を裁判にかけ有罪にでもしたら、復興どころかさらに混乱を招きかねないと危惧したからだ。
何としても、天皇は悪くなく、軍部の暴走に過ぎなかったという証拠を見つけたかったのだ。
フェラーズ准将は、足を棒にして証拠を探し歩いた。
証拠に繋がる、と少しでも期待を持てば誰にでも会いに行った。
しかし、証拠は一向に見つからない。
10日間以内という短い期限の中で、時間だけが無情にも過ぎてゆく。
そしてあきらめかけた頃、最後の最後で有力な証言をつかむ。
天皇は、開戦時には全力で戦争を止めようとした、と。
そして戦争を終わらせる際にも、天皇の英断があってこそのこと(玉音放送)だった、と。
しかし。せっかくそれだけの有力な証言を得たのに、肝心の「証拠」は、すべて消滅していた。
途方に暮れる、フェラーズ准将。
しかし。彼はある決断をして、マッカーサーに報告書を提出する。
その報告書に、マッカーサーはビックリした。
日本のために、天皇制を残そう。天皇にはその責任を問わない決定を支持する提案書だった。
しかし。そこには、決定的に欠けているものがあった。
その主張を裏付けるに足る、根拠であり証拠である。
「フェラーズ君。この報告書に決定的に欠けているものがある。証拠はどうなった?」
と、マッカーサー。
「ありません」
「何だと?」
「事態はあまりにも複雑を極めています。謎が多く、調べても限界があります。証拠など、千年探しても出てきやしないでしょう。もう、こうなったら——
根拠など、証拠などいりません。
どうせ、逆の証拠だって出てこないんです。
それなら、恨みやメンツなどという一時的なもので、一時的利益で天皇を処刑するのではなく、一日も早く日本が軍事国家から民主国家に移行できることを主眼として、天皇をそのままにすることが最善と信じます」
それを聞いたマッカーサーは、ニヤッと笑う。
「よし。最終報告はそれにしよう。しかし、本国での私の立場は、大丈夫だと思うかね?」
(実は、言葉ほどには心配してない。何があってもそうしたいからだ)
この映画には、感動しどころが二か所ある。
ひとつは、証拠探しに明け暮れたが、最後には「証拠などなくても、信じた決定を下す」という潔さを、主人公とマッカーサーが示すシーン。
もうひとつは、ラスト。マッカーサーとの会見時の天皇陛下の潔さである。
天皇と会見する際の決まり事が、いくつかある。
目を合わせてはいけない。
握手など、陛下の体に触れるような行為は禁止。
写真撮影は禁止。
(ただし、遠景として遠くから写す分には、特別に認める)
さて。マッカーサーはこれらのマナーを事前に教えられたのに——
いざ会見の場になると、全部無視する。
まず、ジロジロ見る。目を合わせまくり。
そして、握手を求める。
さらには、隣に立って記念撮影をする。
でも、天皇陛下は気を悪くもされず、すべてに応じる。
リーダーに必要な資質は、「信念を貫くこと」以上に「柔軟性」である。
実は、前者はそれほど難しくない。後者の方が、得るのが困難だ。
この辺に、天皇陛下の「男」を見た。
(もちろん、これは映画だけどね)
私たちは、何かを主張する時。
そう言えるだけの根拠を必要とする。
何かを決断する時。
決断するに足る、信頼できる情報を必要とする。
何かを正しいとする時。
正しいと言えるに足る、誰の目にも明らかな証拠を必要とする。
これらは、長らくの常識であり、皆そのようにしている。
逆に、これらが成り立たなければ、裁判(司法制度)も成り立たない。
でも、上記のような前提は、自由人として人が生きる上での足枷にしかならない。
根拠がないと、何も言っちゃいけないのですか?
きちんとした情報の裏付けがないと、何も決断しちゃいけないんですか?
証拠がなければ、何も正しいことを決められないんですか?
この映画の主人公が、証拠などなくとも天皇擁護を強硬推進したシーンは震えた。
これだよ。
~だから~なんて、くだらない。
根拠や証拠、自分の外にある何かに決断の最終的な決定権を与えるなど——
自分の外に神を作り、崇め、自分がその下に甘んじているのと同じだよ!
証拠がないから、こう決断できない、なんてバカだ!
それより大事なのは、自分にとって何が最善と思うか、を選び取ることだ。
もっと言えば、「どうしたいのか」だ!
皆さん。
確固たる原因に相当するものがないと、それにふさわしい結果も起こらない。
胸を張って説明できる根拠がないと、何も堂々と言えない。決断できない。
そんな、旧世界の生き方から脱却しませんか?
もちろん、今までが悪かったから、これから先良くなるということではなく、今までだって、そうあるべくしてあったこと。
そのことには、ご苦労さんお疲れ様、と感謝して——
これから先、さらに素敵になっていくぞ! という意気込み。
それを、共に意識において持とうではないか。
根拠ないですけど、言っていいですか?
証拠ないですけど、言っていいですか?
あなたのシナリオは、これから素敵な展開になる。
あなたに、豊かさと喜びが降りてくる。
そういう現実が、加速してどんどんやってくる。
どんな証拠よりも、情報よりも、論理的根拠よりも——
「そう感じるから」というのが、何よりも最強の 「根拠」 だ。
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