第19回『ツナグ』

●ツナグ  (出演 松坂桃李・樹木希林 他)



 生者と死者を一夜だけ再会させる仲介人「ツナグ」と、依頼人とがからんで起こる人間模様を描いた、ファンタジードラマ。

 実は、筆者はこの作品は二度視聴している。一回目は、映画館でリアルタイムで見た。二回目は、上映当時妊娠中で、身重で行けなかった奥さんに見せてあげるため。

 自分は他の事をしていてもよかったのだが、やはりお付き合いして二回目を見た。



 作中、女子高生の二人の親友同士のエピソードがある。

 名前は、嵐(橋本愛)と御園(大野いと)という。

 二人は、共に演劇部所属であった。

 今度学園祭でやる劇の主役の座を巡って、ライバル同士になる。

 嵐の方が勝気な性格で、主役になるのは自分だくらいに思っている。

 どちらかというと御園のほうがおっとりしていて、嵐のことを自分より上だと認めている。

 御園のほうは、嵐に勝ちたいという思いはなく、ただ 「ダメもとで、挑戦したい。何もせずに後悔したくない」 という思いが、主役オーディション挑戦の動機だった。

 でも、結果は皮肉なことに御園に軍配が上がる。

 昔からの親友同士ではあったが、両者の仲は険悪になる。

(一方的に嵐が御園に悪感情を抱いているだけで、御園のほうは困っておろおろしていた)



 そんなある日のこと。

 嵐が校内の廊下を歩いていると、ふと御園の声がした。

 部室のドアの向こうで、他の部員たちとしゃべっている。

 聞き耳を立ててみると、会話の内容はどうも今回の主役の座を巡るオーディションのことらしい。

 で、話題にされているのは自分のことらしい。

 嵐には、会話がこう聞こえた。



「……私にかなうわけないよ」

「そうだよねぇ。うんうん」



 これを聞いた嵐は、はらわたが煮えくり返った。

 何よ。最初っから、私なんか見下してたんじゃない!

 表面上は主役の座を射止めて「ごめんね」なんて言ってたくせに。

 内心は、舌を出してバカにしてたんだわ!

 そこで嵐の心の中に湧いたのは、相手への恨みである。


 

 二人は家も近く、一緒に自転車通学をしていた。

 冬の通学途中、住宅地の坂道で、住人の庭の水道が出しっぱなしだと、道が凍ることがあって危ないと御園が話していたことを思い出す。

 誰も見ていない。今私が水道の水を出して放って帰ったら、御園はどうなるだろうか? 何かに突き動かされるように、嵐は自転車を降り、水道の栓をひねる。



 次の日。

 登校した嵐に、驚愕の事実が突きつけられる。

 御園が、交通事故で死んだ。

 嵐は、御園がケガでもして役ができなくなりさえすればそれでよくて、殺意まではなかったのかもしれない。

 でも結果として、御園は自転車で転倒したところを車にはねられて死んだ。

 後悔の思いが押し寄せるが、そんな嵐をして自分が100%悪いのではない、と開き直らせるある思いがあった。

 それは、「御園が自分を見下していた」という事実である。



 しかし後日、嵐にとって天地がひっくり返る気付きが起こる。

 演劇部の部員と、御園のことで会話になった時だ。

 嵐が、「あの子 『私にはかなわないよ』って、言ってたの聞いたの。きっと、私のこと内心では笑って、バカにしていたんだわ」と言うと、その部員は嵐が思いつきもしなかったある可能性を示唆した。

「そんなことないよ。だって御園はいつも、嵐の事本当にすごいんだ、ってほめてばっかりだったもの。だから、多分嵐の聞き間違いだよ。



「わたしにはかなわない、じゃなくて——

 嵐(あらし)にはかなわないよ、って言ったんじゃないかなぁ?」



 これを聞いた嵐は、ショックを受ける。

 ここで、嵐は重大なことに気付く。自分がある感情の前提を持っていたので、それに合うように、他人の言葉を捻じ曲げて聞いた可能性に。

 実は、御園は何も悪くなかった。最後まで、向こうの方は親友でいてくれた。

 嵐は、自分が聞きたいものに言葉を変換して、聞いたのだ。

 心の中にある物を、勝手に他人の中に見たのだ。他人を通して、見たのだ。



 厳密にはこの世界に、いわゆる「間違い」というものはない。

 あってはいけないこと、というのもない。あっていいから、起こったのだ。

 本当に起こるべきでないこと、というものが仮にあるとしたら、それは絶対に宇宙に起こらない。

 当たり前の話だが、起こっていいから宇宙が起こした (存在させた。実相化させた)。いい悪いで価値判断というものを付けるのは、人間だけである。

 殺人も戦争も交通事故にも、いい悪いはない。ただ、「そうである」という状態。

 


 どうも私たちは、「ありのままに物事を見ること」が上手ではないようだ。

 いや、あえて上手ではないようにしている節がある。

 それが、この世界のゲーム的要素なのだろう。

 ワンネスから分離した「個」が、幻想上のそれぞれの観点から、物事を自分勝手に見たいように見、解釈したいように解釈して、そのすれ違いからさらにどうしていくか? そういうドラマを観察したかったのだろう。

 私たち人類は、さっきの嵐という女子高生と同じ。

 


●自分の見たいようにしか、物事を見ない。

 聞きたいようにしか、聞かない。



 このことが謙虚に受け止められたら、ある生き方ができなくなる。

 それは、『批判をする生き方』である。

 この宇宙では起こるべきことが起こっている。起こるべきでないことは、何ひとつない。覚醒意識でこのことを感じ取っていたら、「批判」が不可能になる。

 だって、最善でないことは起こらない、という単純な話。

 100%、宇宙に非はない。あるとしたら、こちらのモノの見方、つまり視点の問題だけ。

 いかなる悪、汚い現実、辛い体験を引き合いに出されたところで、私はひるまない。究極的観点では、何ひとつ問題ではない、と言い切る。

 ゲームキャラの分際で私らにできることは、起こったことの是非を判断することではない。

 そんなことは、時間のムダである。当たらないんだから。

 だったら、起こったことは起こったこととして受け止めて、そこからどういう意識の在り方、そこから来る行動を選択していくのか、だけである。



●批判というのは、100%過ちである。

 どんなに相手が間違って見えても。

 どんなにあなたのほうが正しく見えても、だ。



 そもそも、宇宙に「批判されるに値するもの」が存在できないからだ。

 ただ、我々が根強く持つに至ってしまった「こうあるべき」という善悪の感情的基準が、本来意味も善悪もない究極的宇宙視点と相容れないという、ただそれだけのことである。

 間違っても、あなたのほうが勝って宇宙が折れて 「お前らの言う通り、この世には目的(善なるものへの指向性)があり、良いものと悪いものが存在することにしよう。良いものを目指すべきで、悪はこれと戦ってなくすことを目的と定め、今後それを絶対的真理としよう!」 なんて譲歩してくることはない。

 どう考えても最後はこっちの負けだ。

 無駄な抵抗はやめて、はやく中立視点にシフトしたまえ。(笑)



 批判などあり得ない、という根拠には、「宇宙には起こるべきことが起こり、そうでないことは起こらない。ゆえに、エゴが問題と見るだけで本来何の問題もない」 ということ以外に、もうひとつある。



●人は、例外なく最善以外の事をしない。



 これは、魂の旅路においてまだ幼い段階にある者には、誤解されることを承知で言う。出た結果のことだけで価値判断するから、私たちはすべて皆最善しか選び取っていないのだ、ということがしっくりこない。皆、今ここの一瞬一瞬を、自分に良かれと考えて常に何かの選択を選び取っている。その営みの連続で人の人生は成り立ち、様々なドラマを生んでいる。

 だったらー



●最善を尽くしている者を批判しても、しょうがないじゃないか。



 まったく、意味がないではないか。

 批判とは、対象に 「欠けがある」 「本来のあるべき姿に比べて不十分である」 という認識から生じる。でないと起こるはずがない。

 でも、そんな状態がこの宇宙にはそもそも存在し得ない。

 言葉の不便なところだが、それでもあえて表現すると——

 


「どんな状態の現象(モノ・人)であっても、存在できている以上、そこに欠けや不十分なものはない。

 宇宙は、常に最善を用意している。その時々で必要なものはすべて備えてある。

 そうでないように見えるのは、ひとえに「我々の勝手な価値判断ものさし のゆえである」



 私は、批判されたくて記事を書いたりはしていない。

 間違いなく、宇宙のために、この世ゲーム世界における豊穣ステージ突入のためにやっている。それは、確かだ。

 だとしたら、他者がそこに批判したくなる何かを見るとしたら?

 それは、先ほどの女子高生が、内心の問題のせいで外の事象をゆがめて理解したように——



●100%あなたの問題です!

 私に何も問題はありません! マル。



 批判は100%誤りです。

 もししたくなったら、100%相手に非はないと考えてください。

 どんなに相手が間違っていると思っても、です!

 それすらも、宇宙は存在をゆるした。 

 だったら、いちエゴキャラがぐちゃぐちゃ言う筋合いではない。

 おとなしくしとれ。

 それはそれとして、(好きにならなくてもいい)存在を認めるのだ。

 そんなものあっちゃけいけない、攻撃すべきというのはやめましょう。

 あってもいいけど、私は選択しない。それで自分の立場を表明すればよろしい。



 本日のまとめ。

 批判は、100%要らない。もしするなら、100%するほうが間違い。

 その根拠として——



 ①宇宙には、起こるべきことしか起こらない。

 ②あなたのエゴによる判断は、宇宙の叡智に遠く及ばない。

 ③~であってはいけない、~は間違いだと強く思う時、それは宇宙への不信である。皮肉な話だが、その意識状態こそが、余計にそういう世界を生み出し、強化している。

 ④人は皆、「今ここ」を常に最善に生きようとすること以外できない生き物である。だから、この世界における営みのすべては、批判するに当たらない。

 ⑤起こった結果現象ばかりを自分たち流の価値観で測って、間違いと戦ってきた人類のクセは手ごわい。



 あなたが外に見る問題は、すべてあなたの中にあるものの 「反射」である。

 攻撃の矛先が他に向かう前に、気付いてほしい。

 何かを責めるあなたが正しいことは、万に一つもあり得ないことを。

 批判する、とうことは、それを起こした(許可した)宇宙とケンカすることを表明したようなものである。人間エゴのほうが正しくて、宇宙意識のほうが間違っている、という無謀にもほどがある意見表明であり、挑戦である。ドン・キホーテも真っ青な蛮勇である。

 こちらの視点の問題だけでしかない、と気付けたらしめたものだ。

 あなたは平和裏に、争うことなく感情を乱すことなく、ただ視点のシフトだけで平安な魂を得られる。

 冒頭のたとえで触れた嵐という女子高生のように、感情状態のゆえに世界をゆがめて見てることはオススメできない。間違う可能性があるのは、外の世界ではなく「あなただけ」なのだという事実を受け止め、いざというときには思い出して気付きを得てほしい。



 最後に、これだけは言っておく。

「批判する」のと「嫌う」というのは、違う。

 前者は誤り。後者なら良い。

 好きとか嫌いとかいう次元は、正しい間違っているという次元とは違う。正しい間違っているがさほど問題にならないだけに、まだカワイイ問題と言えよう。

 好き嫌いは、理屈よりも感情である。

 感情は、理屈の何百倍も大事である。

 だから、好き嫌いを味わうのは良いことだ。

 筆者は、絶対に批判しない。

 批判していると感じる人がいたら、それはその人がそう聞きたいように聞いてしまっただけ。

 私は批判はしないが、「嫌う」ということはある。

 それは、自由にさせてくれ。(笑)

 宇宙に存在するあるがままを認める、というのと存在する何かを嫌う、というのは矛盾しない。認めた上で「でも私はキライ」という感情を選択して味わっているだけなので、何の問題もない。

 別に、嫌っているそれが「消えてなくなれ」と思っているわけではないので。宇宙の豊かなバリエーションのひとつとしてあってもいいけど、私という限定キャラの体験上は、遠慮しとくねというスタンスなのである。



 もう一度言う。

 嫌ってもよいが、批判してはいけない。

 ニンジンは嫌いでも、世の中からなくなれ、とまで思って運動を起こすまでの人はいないだろう。自分が選択として、ニンジンを食べないだけしかしないだろう。好きな人もいるからしゃーないなと。

 世界のすべての人、その人が生み出した思想・信条・確信に基づく言葉は、嫌ったり拒否したりしても全然構わないが、批判はするな。

 全力で生き、全力で生きることを表現している魂に、失礼である。

 気にらなければ、選ばなければよいだけである。

 それをあえて構う人がいたら、もう100%その人に何らかの問題がある。



 あなたは、何を見つめていますか?

 その何かに、何を見ようとしていますか?

 あなたは、何に耳を傾けていますか?

 その音に、言葉にどんな意味を見つけようとしていますか?

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