第10回『図書館戦争』
【ストーリー】
メディアに対する取り締まりを正当化する法律 “メディア良化法” が施行されてから30年がたった日本。
読書の自由を守るための自衛組織 “図書隊” の隊員にかつて助けてもらった笠原郁 (榮倉奈々)は、憧れの図書隊員になる。
担当教官・堂上篤(岡田准一)の厳しい指導を受け、女性で初めて図書特殊部隊に配属された郁。
そんなある日、図書隊とメディア良化委員会の対決が避けられない出来事が起きる。
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面白い映画だった。
面白い、というのはこの場合ほめ言葉である。
筆者がほめているので、スピリチュアル的な真理を含んだメッセージ性があるのか、と思うかもしれない。スピリチュアルな内容を腑に落とすのに、何らかの役に立つのかと思うかもしれない。
今回は、その二つとも違う。
スピリチュアルの学び的には、ゼンゼン参考にならない。
それどころか、この映画で得る感動は、あなたをこの世界のゲームに強く引き留める役割を果たす。
でも、私はむしろそれでいいと思うのだ。
だから、ヘンな言い方だが、この宇宙ゲームを継続させる意欲を育てるこの映画は面白い、と言いたいのだ。
メディアの不健全さが、社会の犯罪の温床と認識されることがある。
かつての幼女連続殺人事件の犯人は、アニメや特撮のビデオを無数に所持し、グロテスクな恐怖マンガやホラービデオも自宅から見つかっている。
これまでに多数、何かの事件や問題を起こした若者が、何かの不健全な映像なり書物なりに影響されていた、と見られるケースがある。だから、そういうものを『規制』ないし『撲滅』という話になってくる。
人類は今まで、このスタンスで敵や問題と取り組んできた。
で、すでにもう懲りてもいいくらいの失敗を重ねてきている。
強制できることではないので、まだ学ばないのか、などとは言わない。
これ、ゲームだし。プレイは自己責任だし。好きにしたらいい、
でも、ゲームをもっと快適に、かつ楽しくしたいなら、ひとつのことは提案できる。それは「何かの基準に合致しないものや人・組織を排除するって発想、そろそろやめれば?」ということである。
●もっとぶっちゃけると、問題を解決しようとするのやめませんか?ということ。
敵と戦うの、やめませんか?ということ。
戦う、ということは相手にエネルギーを与えるだけである。
戦えば戦うほど、相手は強くなる。
一時は勝利を収めても、相手が滅びたように見えても、相手が魂の底から納得して滅びたのではないので。未練があったり、また相手を認めたわけでもないので——
その倒した者があとで復活するか、もしくはその者の遺志を受け継いだ別人が、あなたの前に立ちはだかる。
それを証拠に、仮面ライダーを見なさい。ウルトラマンを見てみなさい。
倒しても、倒しても、終わらないでしょ? (笑)
この世の現実は、映画のスクリーンのようなもの。
映画を変えようとして、スクリーンと格闘しても、どうしようもない。
映画の中の悪人を銃で撃っても、スクリーンに穴が空くだけである。
内容を変えたいなら、現実をいじるよりも、意識の世界で勝負すること。
具体的には、敵や問題をハナっから異物として敵視するのではなく、それさえなくなれば世の中が良くなる、というふうに短絡的に発想するのではなく、相手の有り様をまずは認めることである。
ピンポイントで問題や敵にフォーカスするのではなく、『全体を抱く』感覚。
世界全体を包み込んでしまい、問題をも覆い尽くす感じ。
●悪とは、敵とは戦うためにいるのではない。
認め、抱きしめるためにいるのである。
それが、この世ゲームのあがりである。
普通、この映画をどう見るか。
この場合、不健全なメディアが世の中に悪影響を与える、と信じる国家権力側が主人公たちの敵であり、解決するべき『問題』であり、主人公たちを善とするならば、図書隊と敵対する権力側は悪である。
で、ある意味仕方のないことであるが、私たちは主人公側を「正しい」側とし、その視点から何の疑問も抵抗もなく映画を見る。その結果、主人公側がピンチになればハラハラし、同じ銃撃を受けて負傷しても、敵なら何とも思わない。
明らかに、中立に見ていない。
(でも、こう言ってもそれを問題視する人は少なかろうし、むしろそれが自然だとは思う)
でも、あえて言えば本を読む自由を奪う側も、それに対抗する側も同レベルである。目指す方向が違うだけで、皆精神構造が同じである。
●問題を解決するために、障害となるものと戦う。
対象と戦って勝つことで、何かを守ろうとする。
どっちも、このことが共通している。
これを言ったら、気分の良くない人がいるだろう。中には怒り出す人もいるだろう。本を読む自由を奪う国家権力側と、それを守ろうとする図書隊が同じだなんて! そんなバカなことがあるか!
その発想は、普通でありこの世では自然である。
でも、宇宙から見たら大した違いではない。
映画の中では、図書隊はこちらから攻撃はせず、相手が攻撃してきて初めて応戦できる。そこを評価する人もいるだろうが、結果応戦するのだから、どんぐりの背比べである。
この手の映画が人気を博したり、勧善懲悪がもてはやされるのがメジャーな傾向である限り——
●皆さんは、この世(宇宙人生)ゲームを続ける気満々である。
一元性(空・ワンネス)に還る気など、さらさらない。
……と、そういう意思表示であると私は受け取る。
でも、私はいいことだと思っている。
だって、そのためにこの世界に来たんだから。
もともと完全であり、絶対であり、100%の愛でしかない存在が——
本来することのできない『冒険』をしたくて、正反対の二極(陰陽)で構成されるこの変化の世界を創ったのだから。
そりゃ、ゲームだからいつかはクリアして、遊び尽くして終わる時が来ていい。
でも、やっぱり長く楽しみたいでしょ?
遊園地から帰る時、子どもは何だかさみしい気分になります。
親戚の家に行って同年代のいとこと楽しく遊んでいても、帰るわよと親に言われたらさみしいものです。
えっ、もうそんな時間? 楽しい時間って、あっという間に過ぎちゃうのね……
もっと、この時間が続けばいいのに。
かつて、そんな気分を味わったことはありませんか?
せっかく、この世界に来たんです。
早く双六を上がるのも悪くないけど、焦らないでゆっくりクリアに向かいません?
だから、今この時点で勧善懲悪がメジャーなレベルだったら、それしばらくやってもいいです。
遅かれ早かれ、ゲームの次の段階に上がる時が来ます。
それまでは無理せず、楽しいと思うものを楽しみ、信じたいと思う信念を大事にしたらいいと思います。
何ら、問題はありません。
宇宙は、了見の狭い場所ではありません。むしろ、どんな在り方も受け入れる懐の深い所です。
まっ、アセンションどうのと言われている時代ですが、焦ることはありません。
●は~い あわてないあわてない
ひと休みひと休み~
私があまりに『放任主義』に見えるとすれば、そこには理由があります。
~しなければ、~であるべき、で動くということは、『その状況は最善ではない』という表現の、ひとつのかたちです。
ある意味、宇宙を信頼しきれないという恐怖からくる『焦り』です。
●私は、この世界がどうでもいいというよりは——
ただ、信頼しているのです。
信頼しているからこそ、すべてを認められるのです。
でも、私もこの世ゲームにあえて参加していたいので、時折価値判断しますし、好き嫌いもハッキリしています。
自分の好きでない事柄やモノ、人は避けます。
でもそれは、私の場合その意味を分かった上でやっている。
その意味で、私は確信犯的だと言える。
●分かってやるのと、分からないでするのとは——
同じことをやっていても、意味がまるで違う。
やっぱり、ゲームはゲームとしてプレイするのが快適です。
その意味で、私やスピリチュアルな発信者のメッセージは役に立ちます。
何も、覚醒(悟り)を目指してゲームセットとなるくらいに突きぬけなくとも——
ゲームと分かってなおあえて留まり楽しむ、というスタンスがあれば十分なのではないでしょうか。
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