第11回『くちづけ』
【ストーリー】
知的障害を持つ娘のマコ(貫地谷しほり)を、男手ひとつで育てる愛情いっぽん(竹中直人)は、かつては人気漫画家だったが休業し、すでに30年がたっている。知的障害者のためのグループホーム「ひまわり荘」で住み込みで働き始めたいっぽんと、そこで出会ったうーやん(宅間孝行)に心を開くようになったマコ。しかしそんなある日、いっぽんに病気が見つかる。
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いろんな意味で、私の内なるエゴを揺さぶってくれる映画である。
この作品はレビューを読んでも、賛否両論のようである。
賛否の否のほうになる人が、必ず引っかかる部分がある。
それは、殺人である。
娘は、知的障害を背負って生まれてきた。
娘を生んでほどなくして、奥さんは他界。
父親は、ほぼ男手一本で、娘を育ててきた。
そんな中、他者を疑うことを知らない娘は、心無い男にホテルに連れ込まれる。
以来、娘は父親以外の男性を恐れ、もし二人きりになどなろうものならパニックを起こすようになった。
そんな父は、何としても娘を守ろうと思う反面——
「オレがいなくなったら、この子はどうする?」
……と心配し、不安を募らせる。
そんな矢先、父親は自分が末期のガンであり、余命数か月であることが分かる。
自分の死後を考え、娘を自立させようと躍起になる父。
その度に娘は施設から逃亡。父親の元に逃げ帰ってくる。
納得しない娘に、父はとうとう自分はもう死ぬのだと告げる。
しかし、娘はこう言うのだ。
「お父さんがいなくなっちゃうのなら、私生きててもしょうがないな」
最近、身寄りのなくなった障がい者の多くが辿る悲惨なケースについて見聞きした父の心は揺れる。
この子が、これからどれだけ苦しむかは、火を見るより明らか。
だったら、いっそ、いっそ——。
父親は、娘の額に万感の思いを込めて口づけした後——
娘の首をしめ、死に至らしめる。
私は、知的障がいの方が通われる作業所、というところで七年間勤めていた。
その後、皮肉にも自分自身が発達障がいだと判明。
筆者は、今の活動をする前のある程度の時期、転落人生を歩むことになった。
だから、私がこの作品が投げかける問題提起に関して応答することにも、意義があると思う。
私が七年勤めていた障がい者施設には、ひとつの基本理念が掲げられていた。
それは大きな字で書かれ、職場の壁に貼られてあった。
●この世界に、障がい者などという特別な人種は存在しない。
ただ、生活上の不便を抱えているというだけで、我々と同じ市民である。
この言葉は、間違っちゃいない。
でも残念なことに、建前になってしまっている。
いくら市民だ、我々と同じ人間だと言っても——
じゃあ、本当に障がいを持つ方々を、同じに見れますか?
偏見なく、付き合うことができますか?
恋愛対象、結婚相手として考えることはできますか?
健常者とまったく同じではないにしても、飢えずに生活できる額を給料として払えますか?
人間として同じ、とか言いながら——
結局のところは、何らかの一線を引いてしまうのだ。
どこかで、心の境界線を設けてしまうのだ。
実際に、作業所に通ってくるある男性利用者が、女性職員を好きになった。
そこで職員会議で議論になったのは、最初からどうこの男性にあきらめさせるか、ということばかり。
もちろん、それは多分に仕方のないことなのは分かっている。でも、私がその時ひとつ悲しかったのは、好かれたその女性職員が気味悪がるばかりで、はなっから恋愛対象とは考えていないらしいところだ。
もちろん、職場での職員と利用者の関係だから、それをわきまえるのが常識とはいえ、その男性の真剣な思いを、まずは受け止めてやってもよかったのではないか? と当時思った。
例え、最終的には断ることになるとしても。
いくら平等だとか同じ命だとか言っても——
この世界の大前提となっている価値判断基準を前提として生きている限り、大した意味はない。
障がい者、というふうに昔真ん中に使っていた「害」という字をひらがなにしたところで。いろいろな支援法を考えたところで、ひとりひとりの意識の前提が変わらないと、何の意味も成さない。
この世界は、徹底して五体満足・知的能力の高い者を基準に作られている。
その後付けで、こぼれる者に対しての対策を講じておこう、という感じだ。
この世界は、ただあるがままにある。それぞれが自分の役割を果たし、その役割の違いに優劣はない。
ただ、私たちが勝手に意味づけというものをしている。
五体満足がよく、そうでないと「障がい」ということになった。
普通じゃなくて可哀想、ということになった。
障がい、という言葉はただの認識の仕方のひとつに過ぎない。
しかも、かなり独善的な。
人によっては、反論もあろう。
そうは言っても、現実問題大変じゃない? そこに目をつぶって、障がいなんてないと言えないでしょ?
確かに。私も、ただきれいごとを言いたいわけではない。
この世界のシステムは、どうしても障がい者という概念を生み出さないではいられない構造になっている。
皆、その前提を壊すことは一切考えないで、議論する。
今の世界のあり方(システム)は守って、その上で障がい者を助けようとしている。そんなの不毛だ。方法は、ひとつ。
●表面的な法律や制度をいじって問題を解決しようとするのではなくー
意識の前提をひっくり返すこと。
あなたの世界観に革命を起こすこと。
自分も、すべての命も神である。皆、それぞれ与えられた役割を背負って、その役を演じに来ていると理解すること。
そこに価値の差、上下、善悪などないと悟ること。
そうすれば、その意識がこの世界の固まった価値観やシステムを壊す原動力を生むはず。それが、大きなムーブメントをこの世界に産む。
誤解してはいけない。行動が世界を変える、というのは一面的な見方だ。
その行動を生むのは、意識である。だから、まず意識を変えよ。
あなたの心の中、奥深くを探れ。
あなたの意識が変われば、あなたの生み出す外の世界も変わるだろう。
障がい者という概念は、この世界の都合が生み出した。
だから、本来そんなものはいない。
仕事して、手足や頭を使って何かできることが社会貢献、と決めつけたからだ。
誤解を恐れずに言えば、障がいと判断される状態は、一緒の職業だと思う。
生きているだけで、仕事をしている。
もちろん、障害を持ちつつも輝ける人がいることを私は知っている。
でも一方で、重度の障害をお持ちで、寝て声を出す以外の行為ができない方もいると知っている。
そういう方のためにも、言うのである。
生きているだけで、すでに仕事をしていると。
生きることで、我々に何かを伝えようとしてくれているメッセンジャーだと。
厳しいことを言うが——
障害をもつ我が子を誰よりも愛している親自身が、その子を可哀想な子にしてしまっている場合がある。
それも、親心だろうとは思う。
「そんな風に生んで、ごめんね」
その罪悪感が、そして何とかしなければというエネルギーが、余計にそういう現実を強化する。親自身が、ものを考える時に、この世界の価値観を前提にしている。
前提を疑わない。例え疑っても、疑っても仕方がない、と思いそこでこの問題に関する思索は終わる。
でも、新時代はその常識が崩れていく時代。
自分たちが神であった、というこれまでになかった認識が広がっていく時代。
そんな時代にいることを、忘れないように。
認識ひとつで、この世界を変えることもできるんだと、勇気を出して。
さて、この作品のキモである「父親による娘の殺害」に話を移そう。
エゴは、この作品を非難するはずだ。
まず、「人を殺すのは良くないこと」という無条件の定義がある。
もう、そこでアウト。
そして、次に何が引っかかるのか。
それは、父親に娘の命を奪う資格があるのか?ということである。
父親は、自分の死後の娘の行く末を考えて、恐れた。
自分以外の見知らぬ男性と二人になると、パニックを起こす。
知的障がいのみならず、そのようなハンデまで背負い、身寄りもない。
悲惨な末路をたどるのが、父親にはリアルに想像できた。
そして娘自身も、泣いてお父さんと離れたくないと言う。
お父さんが死ぬんだったら、私生きていても仕方がない。私も死のうかな——
そんな言葉を聞いて、娘の殺害に踏み切る父。
それは、受け入れがたいかもしれないが、父親なりの愛である。
この作品に否定的な人の意見は、こうである。
●気持ちは分かるけど、なぜ父親にこの子の未来が分かる?
未来など決まっちゃいない。幸せになる可能性だって、ゼロじゃない。
なのに、殺しちゃってその可能性すら閉ざしちゃっていいの?
子どもの命は、子どものものであるはず。
だから、殺すなんて親のエゴだ。
さて、ここから言うことはかなりきわどいので、お気を付けください。
確かに、他人の命は他人のものである。
それは、他人が存在する、という幻想(認識上のイリュージョン)の土台の上に成り立つ。
宇宙には、ただひとつの意識しかない。
あなたが宇宙の中心であり、あなたが他人を生んでいる。
だから、他人はいるにはいるのだが、あなたの宇宙にその「正味の本体」はいない。あなたの見たいように見ている「他人」のイリュージョンがいるだけ。
あなたの宇宙に、あなた以外の他人はいないのだから。
あなたがすべてを生み出しているのだから——
ある意味、他人の命はあなたのものです。
いや、世界のすべてがあなたのものです。
あなたが自由にできる権限があります。
ただ、この世界での死は幻想にすぎないので——
殺せる、というのも見せかけだけですが。
もし、その人の命がその人のものであり、何があっても左右されないことがベストなら、そもそもこの世界をデジンした者(神)が、今のような状態を設定するはずがない。
人を殺さないことがベストなら、そもそも起こさない。
だから、次のような疑問が人類を悩ませてきた。
神がいるなら(宇宙の目的が善のみならば) 、なぜ殺人犯を止めない?
戦争を、神の力で終わらせない?
この世界を創造した目的は——
あらゆる感情を体験するためである。
経験におけるあらゆる可能性を、コレクションするためである。
善悪の区別なく、である。
さらに皆さんの頭がこんがらがることを言うが、ゆるしていただきたい。
この作品では、父親が娘を殺した。
宇宙は、すべての可能性を起こす。
この次元で起こったこと以外の可能性が展開している次元を、パラレル・ワールドという。すべての可能性が起こるのであれば——
●この次元で殺害が起こったのなら、それはそれでよかったのだ。
ここで起こったので、別の次元では、起こらずにすんだところもあろうから。
もし、この次元で起こらなくても——
パラレル・ワールドをこさえてでも、すべての可能性を生むのが宇宙なら——
どこかの次元で、娘を殺すのを担当する次元が生じる。
だから、あなたがやれば、他が担当しなくてもよくなる。
逆にあなたがやらなければ、どこか他がそれを担当することになる。
どの道、やるのだ。結局、どこかの次元で起こるのだ。
じゃあ、あなたは気持ちとしてどうしたい? という選択があるだけ。
私は、仮定の話がきらいだ。
あの時、こうしていれば。ああもできた、こうもできた——
起こったことは、起こったこと。
今 (これから) どうしていきたい、という方向性を建設的に考えるために、起こったことについて考えるのはよい。しかし、自分をいじめる意味で過去を使うなら、無意味である。
ましてや、他者を責めるためなんて、とんでもないこと。
ああもできた、こうもできたと父親を責めるのは簡単。
しかし、父親は自分なりに最善の選択をしたのだ。
それを、誰がけなすことができよう。
私は、けなせない。
例えそれが、自分の娘を殺した人であったとしても。
人間は、最善の選択以外しないようにできている。
だから、私のものさしでその人を測るわけにはいかない。
その人のものさしで、やるということを選択したのなら、とやかくは言うまい。
その人の宇宙なのだから。
この世界が、機能不全な理由。
それは——
●必ず何らかの判断基準があって、そこから逃れられない。
そこから判断せずには、いられない。
そして、その判断を盲目的に正しいと信じ切っている。
だから、この映画のような表現が出てきた時に、「良識派」と呼ばれる人から非難される。とんでもない、と。
どんな理由があれ、娘を殺すような父親の映画は、サイテーだ、と。
そんなもので感動するなんて、どうかしている、と。
じゃあ、私はどうかしている一人だな。
めっちゃ感動したし。
この父親も、娘も——
このワールドにおけるマラソンを、走り切ったのだ。
色んな条件に翻弄されつつも。
私に、この二人にかけてあげられる言葉があるとすれば、これだ。
『お疲れ様。
よく頑張ったね。
あなたのたすきを受けて、また誰かが走ってくれるから、安心をし。
だから、残してきた世界のことは心配しないで。
あなたは、また次の旅の準備をなさい。
すぐでなくてもいいよ。
それまでは、ゆっくりお休み』
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