第12回『グランドマスター』

●映画『グランドマスター』  ウォン・カーウァイ監督



 いわゆる、中国(香港映画)系のカンフー映画である。

 詠春拳の達人として知られる武術家の葉問(イップ・マン)を描いた物語である。

 映画自体は大してヒットせず、レビューサイトでも辛い評価が多いようであるが、私には面白かったし、シビれた。確かに、ドニー・イェンの演じるイップ・マンのほうがハマリ役だということは認めるが。

 主役のトニー・レオンよりもチャン・ツィイーの美しさ(たたずまいや動き)に目を奪われた。



 イップ・マンの使う拳法は、『詠春拳 』と呼ばれる流派のものである。

 劇中でも説明があるが、これが実に単純である。

 『小念頭』『尋橋』『標指』。基本的には、この3つの型しかない。

 すべての多彩に見える動きは、この3つの型の応用でしかない。

 ちなみに、『八卦掌』の使い手として登場するルオメイ(チャン・ツィイー)の技は、64手もバリエーションがあるというのに!



 この世界において、良いとされていることは『経験を積む』ことである。

 あるいは、知識に富むことである。

 例えば、ある問題に行き当たった時。

 人は、記憶を検索して、過去に似たような状況に遭遇していないか調べる。そして、何かが検索に引っかかったら、その時どう乗り越えたかを思い出そうとする。

 ああ、そうだ。こういうケースでは、こうすればいいのだ! かつても、このやり方でうまくいったではないか!

 よって、検索対象としての情報が多ければ多いほど、つまり様々な体験をしていればしているほど、その人は「現実への対処能力が高い」ということになる。

 コンサイスのちっちゃな薄い辞書よりは、広辞苑や大辞林などの分厚い辞書の方が調べ物にはよい、というのと似ている。それだけ、記憶の『引き出し』が多いということだから。

 逆に、この記憶のデータベースが少なく、充実していないと——

 問題対処能力が低く、いざというときに右往左往するダメな人、ということになりかねない。



 私は、日々こういう文章や小説を書いては投稿している。

 自分で言うのも何だが、小説にしろメッセージにしろ、かなり多岐な内容にわたって書き続けている。

 だから時々、人からこう言われることがある。

「あなたは『引き出し』をたくさんお持ちですね」

 これは、一応ほめ言葉と受け取ってはいる。

 でも、これは誤解なのである。



 私は、小説を書く時や人の質問に答える時に、何も自分の経験データベースを検索などしていない。

 過去にこういう経験をしたから、これをしゃべればこの人にプラスになりそうだ。これを書けば良さそうだ。そんなことを思考しながら、記憶の引き出しから出してくるわけではない。

 そういう感覚は、私にはない。

 じゃあ、どんな感覚なのかというと——



●たったひとつの、大事な感覚が分かっている。

 それが、すべてを語らせる。

 たったひとつが分かっているから、すべてに通じることができる。



 私は別に、経験値を上げスキルを上げることを否定しているわけではない。

 むしろ、推奨する。この世界には、それをやりにきたようなものでもあるから。

 でも、その次元を突きぬけたところに、いわゆる『悟り』の世界があり、そこでは「この世界で知るに足る情報は、実はそう多くない」ことを知る。

 究極には、たったひとつであると感じる。

 その感覚が、人に何か物理的な背骨とは別の、一本の柱のようなものが体に備わった感覚をもたらす。

 その感覚は、実に頼もしく、多少の事には動じない。何を見聞きしても、自分を見失い、この事態には対処できない、と思うことはない。

 大丈夫。感覚が、そう告げるのだ。

 詠春拳に3つの基本形しかないのに、あらゆる攻撃に対処できるように——

 私も、たくさんの経験と知識の裏打ちがあるから物事に対処できるというよりは、たったひとつの重要な感覚を知った以降は、たったひとつの型をもってすべてを表現し、また乗り越えている。



『抽象化』という能力が重んじられる傾向にある、と聞く。

 抽象化とは——


 

●具体的な事物から、特定の性質や共通の性質を取り出して概念化すること。

 逆に言えば——

 まず、重要な考え方を思い浮かべる。そしてそこから一見関連性のない分野でも、そこに共通点を発見する能力のこと。



 私は、例えば建築の世界を知らないし、数学や物理、化学は高校時代赤点を取ったほど。だからと言って、建築家や数学者、物理学者と話ができない、話が合わないということはない。

 彼らにとって、私はまったく役に立たないか、というとそうでもない。

 もちろん、彼らの専門知識に関することでは、何らアドバイスはできないであろう。でも、重要なことを忘れてはならない。


 

●彼らは建築者、科学者である前に人間である。

 出所の同じ魂であり、正体は同じである。



 だから、私は別の他人がいて、文系・理系の人間がいてという次元に立っていない。見た目や三次元キャラ設定が違っても、同じ魂であり神同士であるという高度な抽象化の観点にいる。

 だから、私は誰に対しても臆さない。なぜなら、分離という観点で見ないから。

 これ(高度な抽象化)ができないでスピリチュアルな商売(対面観セリング)などしていたら、とんでもない。

(ヒーリングはまた別カテゴリーなので、問題ではない)



 多くの人は言うだろう。

 筆者の人生の話を聞いていると、実に様々な経験をされている。

 沢山の苦労をされている。

 だからこそですよね、素晴らしいメッセージが書けるのは。

 多くの人の心をつかめるのは——。

 これは、確かに常識的観点である。

 でも、私個人としては、そういう感覚ではない。

 私の胸の奥にある、ひとつの塊のようなものが。

 私を頭からつま先まで貫いている、柱のようなものが、語らせるのだ。

 私は、話す時も小説を書く時も、それ以外のものに頼っている感覚がない。

 


 確かに、私たちの正体は神意識である、と考えれば——

 もともと、すべてなのである。すべてを知っている。

 ただ、その情報へのアクセスに制限をかけて、人間キャラとしてこの世界に遊びに来た。だから、あたかもゼロから生きて、経験を積んだ分だけものが分かるような感覚に慣れ親しんでしまった。

 でも、たまにその神意識へのアクセスリミッターがゆるくなる人がいる。

 そういう人は、経験量や勉強量など関係なく、専門家や学者以上の叡智を語れたりする。私の得たのは、ちょうどそれに似たようなものである。

 でも、たまたま様々な人生経験もしていたので、情報出力の際に多少面白おかしく表現できる、というだけのこと。その情報のエッセンス自体は、経験に由来するものではない。



 経験や知識があるから、何かを語れるのではない。

 それがないと、語る資格がない、なんてない。

 ワンネス感覚、つまり「悟り」かあるいはそれに近い境地を得れば、抽象化能力を使いこなすことにより、あらゆることが語れる。

 ただ、それは経験や知識などまったくなくてよい、という極論を言いたいのではない。もちろん、それらはあるに越したことはない。あればあったで、その方が良いのは当たり前。

 ただ、ないとふさわしいことは語れない、という偏見を打破したいだけである。



 真のグランド・マスター(傑出したプレイヤー)とは—— 

 多くの技を知り、経験と知識量を誇る者の事ではない。

 技や型の数は最小限にて、あらゆるムダを省き本質を提供できる者である。

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