第13回『インポッシブル』

【ストーリー】


 ナオミ・ワッツとユアン・マクレガーが主演を務め、スマトラ島沖地震後に発生した津波に遭遇した一家の実話を基に描く感動の人間ドラマ。突如襲った災害により一時は離散してしまうも、諦めることなく生き抜いた家族の絆を描き出す。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 娯楽としては、不向きである。

 しかし、魂の学びとしては、これほどの教材はない。

 2004年のスマトラ島沖地震による津波に巻き込まれた、ある家族の体験をもとにした実話。

 世間では、この映画について——



「希望、勇気、家族の愛を問いかける映画。東日本大震災を経験した日本を意識して、日本の観客に向けたメッセージになっている」



 一般的に、そういうような視点で、感動作だと評価されているようだ。

 私も、この映画が素晴らしいという評価では、世間と一致する。

 でも、それは希望だとか勇気だとか愛だとか、そんな表面的になぞったような抽象な概念よりも、もっと別の部分で評価した。

 以下に、それを述べたいと思う。



 父母、男の子三人(長男・次男・三男)の5人家族が休暇でタイのビーチにやってくるだ、突然襲ってきた津波に流され、家族はふたつに分かれる。

 物語は、母親と長男のグループの視点と、父親と次男・三男のグループの視点を交互に描くことで進んでいく。。

 ケガに病気、震災後の混乱による情報不足に不衛生——。

 5人は、大変な困難と心理的苦痛にさらされる。

 この映画から感じ取れる、二つの大事な要素とは?



 ①与えたものが返ってくる。

 ②状況に関係なく、幸せになる道はある。



 津波により、一変した世界。

 見渡す限りの、破壊の爪痕。

 ケガもしており、今すぐ安全な場所へ行かねば、わが身が危ない。 

 しかし、そんな状況の中で、母と長男のチームは、子どもの泣き声を聞く。

 母は、助けようとする。

 長男は、そんなことをしていたら、こちらも危ないと反対する。

 しかし、母親は言う。



「もしかしたら、どこかで (次男と三男が) 助けを求めてるかもしれないじゃない? 助けてほしいじゃない? だから今、私もあの子を助けたいの」



 探してみると、小さな男の子がひとり。

 ブライアン、と名乗るその子とともに、助けを求めて歩き始める。

 やがて収容された先の病院で、ケガがひどく病状も重い母親は、ベッド上で何もできない。自分に何かできることはないか、と考えた長男は、「人探し」のボランティアをする。

 無差別に、大量の人間が収容されて誰々がいるかなど全く把握できていない病院の中で、生き別れになった家族の名前を聞き回っては、病院内を探して回る。

 そして、大変な労力と努力の末、ある依頼者の家族を見つけて、引き合わせることができた時——

 やりとげた長男は、悲惨な状況の中にも「大きな喜び」を感じるのである。



 私たちは、これこれこういう状況だと、喜びを感じる。こんな状況では、喜びようがないなどと、自分が幸せであるかないかの判断において、外部の要因にかなり依存している傾向がある。

 有名になる、給料が上がる、宝くじが当たる、恋人ができる、欲しいものが買える——。逆に、それらの状況が得られないなら、喜びを感じることができない。

 そんな感覚が、当たり前のようになっている。



 旅行に来た先で津波に会い、家族と生き別れになり、一緒にいる母親の命まで危ういという時に、普通なら幸せであるなど、無理。

 その状況で喜びを見出すなど、無理。

 できたように見えても、やせ我慢のはず。そんな感覚で見てしまっても、仕方がない。しかし、この映画は教えてくれる。



●人間は、「選択できる」存在であることを。

 与えられた状況に対して決まりきった「反応」しかできないような存在ではない。

 どんなものであれ、与えられた中から幸せになれるように、喜びを選べるように、この世界はつくられている。



 母親と長男のグループが助けたブライアンという男の子は、父親と再会を果たす。

 そのことが、長男と母親にとってはうれしくてたまらない。

 まるで、ブライアンを救ったことや病院内で人探しをしたことが引き寄せたかのように、まるで導かれるかのように、五人の家族は再開を果たす。

 膨大な遭難者の群れの中、情報網も麻痺している状況の中で、である。

 


 私はここで、「いいことをしたから、それ相応の良い結果が得られた」と言うつもりはない。それは、違う。的外れである。

 『因果応報』『原因と結果』の法則が、まだ多くの人の中では生きて通用しているので、この映画を見て、そう考える人が出てきても仕方がない。

 これは、原因と結果の関係で考えるべきものではない。



●波動の問題、と考えてよい。



 つまり、いいことをしたから見返りとして家族が出会えた、というわけではない。

 幼い男の子が遭難していることを知った時点での母親は、自分のことだけを考えていなかった。

 自分の大事な次男、三男のことを考え、もし彼らが助けを求めていたら、手を差し伸べてやってほしいと思う。ならばまず、自分自身が先だ。

 誰かにとっての大事な子どもなはずだから、助ける。

 そんな風に思うことのできる、「高い振動数」を、母親の魂が発していた。

 長男もそれを受け入れ、助け出したブライアンと行動を共にする。

 そのうち長男は、ブライアンのことを気遣うとともに、病院内で生き別れた家族探しのボランティアをする。

 これも、いわゆる「波動が高い」状態。

 ちなみに、ここで言う波動が高い、ということの意味は——



●魂の視座、つまり世界や人類・宇宙という広い視野からものを見れる状態。



 自分の苦しみや悲しみ、自分の家族という狭い世界でものを考えていたら、この映画のようにならない。

 波動の高い状態は、お金でモノを買うようには得られない。

 いいことをして、人助けをして高い波動を得よう、なんてできないことは皆さんお分かりですね?

 意図的に、何かと引き換えに「取引」することなんて、できない。

 素直な、魂の声に耳を傾けることでしか、そのような状態には導かれない。

 母親にしても、長男にしても——

 助けなければ、という義務感や、この子を助けといたら、神様はうちの子も助けてくれるかも? などという打算はなかった。

 あったのは、ただ「助けたい」という突き上げてくるような魂の欲求だった。



 だから、母親と長男の魂の状態(高い振動数)は——

 同じく高い振動数としての現象 (家族の再会)を引き寄せた。

 高い波動同士が、引き合った結果である。

 現象的には因果応報のように見えるが、根本のメカニズムは全然違う。



 良いことをしたという原因が、家族との再会というご結果(ご褒美)を生んだのではなく——

 状況に関係なく高い波動を放ち続けた魂が、その波動にふさわしい現象をそばに寄せたというだけ。



 この映画の素晴らしいところ。

 状況に関係なく、人は気高くあれるということ。どんな外面的な不利や苦痛も傷付けることのできない魂を、誰もが持っていること。

 難しい資格も条件も修行もいらない。ただ、そのことに気付くことだけがー

 高い波動を放ち、そのエネルギーを使役できる 「ライセンス」 だということ。

 イエス・キリストが十字架での処刑の場でも、すべての人をゆるすことを選べたのも、その力だ。



 最後に、もう一度復習になるが——

 「与えたものが返ってくる」、というのは因果応報・原因と結果の法則で捉えないでほしい。

 似た振動数のもの同士が互いに引き合う(仲間を呼び寄せ合う)、という波動の問題で考えてほしい。

 そういうイメージをもって、今を生きることに取り組んでいただきたい。

 また、『インポッシブル (不可能)』というタイトルは、大災害の困難の中、生き別れた家族が困難がありながらも出会える、という奇跡を「不可能なこと」だと読み取るのは、少し浅い。

 そうではなく——



 こんな奇跡的なストーリーを紡ぐことが可能なこの世界を与えられていることが、そもそも「インポッシブル」なのだ。ありえないギフトなのだ。

 この冒険世界に生を受けて、人生チャレンジをできていること自体が「あり得ない」恵み。アメージング・グレイス。

 そんなふうに、私はとらえたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る