第64回『新宿スワン』

【作品紹介】


 新宿の歌舞伎町を舞台に、スカウトマンの青年がさまざまな女性を水商売、風俗、AVといった世界へと送り出しながら奔走する姿を追う。監督は『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』などの園子温。



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 内容そのものとは別の話になるが、映画のレビューサイトでの評価は低め。

 私個人としては、とっても見応えがあり、よかったわけであるが——

 捉え方は人それぞれ、ってことさね。



 さて、問題の批判内容であるが。

 この映画の監督が「園子温」だというところにあったりする。

 同監督の作品として有名なものは、いずれも誤解の多い言葉で言うと「どぎつい」。ちょっと良心的な、きれいな言葉で言う 「常識や無難さといった枠にとらわれず、伸び伸び自由すぎる遠慮のなさで奔放に表現する」というところ。この監督の映画には目を覆うような暴力シーンやホラー・スプラッターのような描写もあり、覚悟なく見る者の心に爪痕を残すような映画を作る。

 私の中で、「自殺サークル」などは気付きとしては高評価だが、「その描き方でないと、それが言えんの?」という部分で、人に薦められない。残酷シーンに耐性がないと、もう裏のメッセージ性に気付く余裕すら持てない。そういう意味では、猛者(もさ)にしか薦める勇気がない。



 で、その自由奔放でメッセージ性にアクがありすぎて強すぎ、という印象のあるこの監督の作品にしては、「おとなしくまとまりすぎ」という感じがあるという意見が少なくない。

 確かに、他作品と比べてしまっては、そこに「大人の事情でもあるのか」と勘ぐりたくなってしまう。アーティストの表現の自由と商業路線にのせる際の事情とは、折り合いを付けるのが難しいもののひとつである。

 でも、ここはそんな比較をしていては、せっかくのこの作品自体の良さが霞んでしまう。園子温監督だということも、同監督の他作品のことも頭から追い払って見るのがよろしい。



 こういう、ノワールな世界を描いた映画が出ると、好き嫌いが分かれる。

 嫌い、とする人種の中にたまにいるのが、「潔癖思考」。

 宗教を熱心にしている人、スピリチュアル分野でハンパない探求をしている人に多い。彼らはとにかく「醜いもの、汚いもの、悪」 がキライなのだ。

 見たくも触れたくもない。そういうものに自分から近付くと、自分の一部が「黒くなる」ようなイメージを持っている。悪いことは考えたり、意識に登場させたりするからそれが現実化するので、考えないほうがいいし触れないがいい。そういう無意識下の考えがある。

 敬虔な、清らかなイメージのする修道女が、俗なものやわいせつなもの、暴力的な映像を見て「ああっ、けがらわしいっ!」と叫ぶ感じを想像してもらったらいい。



 差別とは、どこから生まれるか。

 たとえば、精神障がいをもつ方を差別するのは、それが他人ごとであり誤解と偏見をもつ一般大衆だけだと思うか? いいや。精神科医やその当事者の親さえも、その人を助けようとしてそれが「差別」になっていることもある。

 だって、「精神障がいだから。弱い人だから。見てないと何をしでかすか分からない人だから」助けようとしている。そこが問題なのだ。

 それと同じで、こういう映画を内容自体や深く斬り込んだ部分で論じ評価するのではなく、「そもそもこういう映画の存在自体がダメ」として、見向きさえしない 「よいこ」な人たちがいて、それが何か高尚であるかのように思っている。汚い、悪いものは相手にせず、良いとされるもの、清いものだけを厳選して触れることで、自分が清く保たれるような錯覚に陥っている人たちである。



 確かに、この新宿スワンで描かれている世界が、「このままで完璧、健全」と思う人はいないだろう。改善の余地が山ほどある、問題だらけの世界だと思うに違いない。このままの世の中じゃいけない、という危機感も持つだろう。

 でも、せっかくスピリチュアルやってるなら、してほしくない発想がある。



●この世界の否定。

 つまり、この世界はダメだ、ってこと。

 ダメだから、何とかしなきゃ、っていう発想。



 もちろん、「どげんかせんといかん!」って思うのはその通りで、どこも間違っちゃいない。

 ただ、そう思う根拠が、「この世界はダメだ」という評価にあるでしょ?

 私は、著書の中で『否定から出発する物事はうまくいかない』 と書いた。



 × (この世界は良くない世界) → ○ (だから良くしなきゃ) 



 家は、土台(基礎)が悪いと、その上に建物を建てても、台風や地震などの災害でその弱さを露呈する。しかし、基礎をしっかり建てた家は、建物本体はかなりのことに耐えうる。

 だから、この場合——



 ○ (100%素敵な世界、とは言い難いが、人類の総意として積みあげてきた現状がこれ。文句を垂れても始まらないし、まずは良しとして受け入れその中でつかめる幸せを追って行く)

 → ◎ (一生懸命生きて見ればそれほど悪くもない、愛すべき世界だと分かりはするが、それでも「ここがこうだったらもっと生きやすいのに」と思える部分で、良いものをさらに良くする、という意識で改善しようとする姿勢)



 この、マルから二重マルというのが、オススメなのである。

 この映画を見て嫌悪感というか、日本の都市の暗部を見せつけられたようで自分の置かれた世界に幻滅する人も出てくるだろう。でも、そこからは何も生まれない。

 この映画の主人公は、優しいし正義の味方だが、やっていることはスカウトであり、街を歩く女の子に声をかけてはお水や風俗で働かせているのだ。そこは、主人公も否定していない。

 つまりは、世界そのものに疑問を持って生きてはおらず(それをやったら映画自体が成立しない)、その自分の世界でつかめる範囲内の「幸せ」を追っている。

 そしてそこで得られる気付きというか宝は、決して安っぽいものではない。欲望渦巻く新宿の街でも、本質的に生きることは可能だ。場所や状況は決定打ではない。

 でもやはり、「幸せになりやすさ」「気付きやすさ」には影響すると認めざるを得ない。だから、そこを工夫していくのだ。

 現状でも悪くないし、そこはそこなりにやりようもある。でも、もっとやりやすくもできる。

 それが、物事を発展させていく秘訣である。

(もちろん絶対ではなく、万能薬でもない)

 


 何せ、こういう人間のダークな世界に踏み込んだ映画(筋書き、表現共に)は、はなっから「ダメ」という見方で斬り捨てないことだ。

 作品を見ていただいたら分かるが、こんな汚れちまった世界にだって、キラッと光る宝石のような思い出や気付き、成長ってあるんだ。だから、今否定できないものとしてある世界を、否定するな。そこでまず、生き抜き幸せになることだけを考える。

 そして、そこであなたなりに何かをつかめ、心に余裕が生まれたと感じれた時にこそ初めて、「どうしたらこの世界をもっと良くしていけるだろうか」 に取り組む資格が生まれるのである。



 否定から始まる革命は、最期には壊れる。

 継続する幸せとは、平和とは、問題点を指摘はしながらも全体としてそこに対する「受容」があるところにこそ生まれる。

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