第63回『チャッピー』


【ストーリー】


 人工知能を搭載したロボットのチャッピーが、自身を誘拐したストリートギャングたちと奇妙な絆を育みながら、壮絶な戦いに巻き込まれていく。



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『第9地区』『エリジウム』 など、娯楽作なんだけども深いひねりを持たせたクセのある映画を作る、ニール・ブロムカンプ監督の作品。

 機械が自らの意志をもつ、というテーマは大昔からあり、「ショート・サーキット」という作品を私ならまず思いだす。でも、この作品は良くも悪くも「無難な、大衆受けする手堅い作品」であった。ほのぼの路線で、主人公のロボット自体もマスコットのように愛嬌があり、安心して見ていられる作品に仕上がっている。

 しかし。このチャッピーという作品は、その点まったく異質である。



●痛々しい。

 無垢な心を維持して生き続けるには、この世界は生き残るのが難しい場所だということを描いている。



 まだ未使用のパソコンのようなもので、何の情報も入っていない。

 そんな、赤ん坊のような出来たての人工知能が、犯罪多発地域のワルに傷付けられながら、ボロボロになりながらそれでもその世界の流儀で生きることを覚える。

 だから、自分をかくまってくれる人物が犯罪者なら、その保護者のために犯罪にも手を染める。もうね、何というか単なる娯楽作品としては見れない。

 向き合いたくない問題に、向き合わされる感じの映画。

 むしろ、監督としてはそこが狙いなんだろう。

 何も考えず、スカッとできる映画がハリウッド映画に多いのは、ちょっとでもそこに思想性というか、哲学・宗教色の濃いメッセージを込めると、大コケしやすいし、した時に大変だからである。よっぽど自信がないと、世界観・人生観をはっきり打ち出したものはヒットしない。

 監督は、その辺をわざと狙っているのだろうか。自信があるから、『第9地区』や今作のような作品を世に出せるのだろうか。



 さらにこの作品は、単に機械にも人並みの意識は宿る、あるいは人工知能は人の意識それ自体に近いところまで迫ったものを作れる、という可能性を示唆しただけでは終わらない。

 人間の意識を取り出すこと。

 つまり、肉体が死んでもその意識をデータとして抽出することができる。

 そして、そのデータを機械に再インストールすれば、その人(意識)は理論上永遠に生きられる。その可能性を示唆している点は、画期的だ。



 私は、それ可能だと思う。

 人類の今の技術が追い付いていないだけで、まず可能。やればできる。

 意識を人工的に作り出すことも。機械に自分の意識を移し替えることも。

 まぁこれは、生まれてきた体を大事にする良い子系スピリチュアルや伝統宗教の嫌う話だろうと思う。自然がいい。そういう領域をいじるのは神への冒涜だとか言いそう。

 そんなこと言ったって、できるものはしょうがないじゃない。

 人間、まったく同じ人はいない。それが数十憶いたら、絶対に誰かやる。

 それを止めることは不可能。できることは、誰かがするようになっている。



 例えば、『銀河鉄道999』というアニメがある。

 あれの世界観として、有限な肉体をもつ人間が、機械の体を得ることでその「死にたくない』 という願いを実現させるテクノロジーを得てしまった世界が描かれている。

 仕方のないことだが、機械伯爵を初めとして、永遠に生きるために機械の体を手に入れることを是とする勢力が「悪」のように描かれてしまっている。

 星野哲郎をはじめとして 「生まれたままの生身の姿を大事にして生き、死は生物には自然なことなのだから受け入れる。生き延びられる限りを生き延びるという姿勢で、決して死そのものを回避はしないで受け入れる」という考えは、善という構図で描かれている。

 作者の松本零士さんは、最初っから価値観を押しつけている。前者は望ましくなく、人間は後者の姿勢で生きるのがよい、と暗に決めつけている。



●どっちでもいいじゃないか。



 理論上は可能だ。

 残念ながら今その技術はない(たとえあっても一般向けには秘匿されるはず)ので、今の我々の世代は寿命が来たら死ぬしかない。病気や事故でも、ひどければ助からない。

 でも、いつか意識をデータとして取り出して、その情報を別のハードにインストールすることで、あなたが存在し続けることも可能だろう。

 だから、結局問題点はどこにあるかというと——



●いい悪いではなく、本人がそうまでして永遠に生きたいのかどうか。



 その問いに対してイエスと答えたのが999の世界で機械の体を手に入れた人たちであるし、そこまでして生き続けようと思わない、と思う者達がその風潮にさからい、生身の命を大事にする反乱軍 (レジスタンス)を組織した。

 私には、どっちもどっちだ。

 好きにしたらよろし。ただ、自分の選択とは違う選択を他人がしても、気を悪くしてはいけない。押し付けてはいけない。

 そこだけは、エチケットを守らねばならない。

 だから、その点さえ守るなら、化学の力を使ってでも神の領域に踏み込み、永遠に生き続けても問題ない。体に手を加えず、自然な死を受け入れてもまたよし。

 人間の怖いところは、どっちが良いか(正しいか)、どちらが悪いか(間違っているか)を決めてしまいたがるところである。決めればある意味楽にはなるが、その種類の「楽」は、人類を甘やかす。自分で考える力をストップさせ、腑抜けにする。

 


 これから、さらに科学技術の進展は拍車がかかるかもしれない。

 それに合わせて、人類が精神文明的に成熟していくことももちろん必要である。

 自らの作った兵器や有蓋物質で滅ぶという残念なことにならないためにも。

 しかし、もうひとつ重要なことがある。それは——


 

●科学の恩恵により選択の幅が広がっても、その選択の違いに優劣をつけない、という勇気も必要である。



 肉体が失われても意識を存続できる世界でそれを望んでも、問題ない。

 それを批判して、「人間とは生き物であり命である。そんなことは神が望まない」とか言って自分は正義の側というか、正しい良識ある側だと優越感を持ってしまうことのほうが問題。

 もしろん、科学技術でできることが増えようが、全体に利益をもたらさない、明らかな悪はいけない。しかし、ずっと生きていたい、というのはそう間違ったことに分類すべきではない。

 だいぶ生きてみてこそ、そろそろ終わりにしようかな、という踏ん切りもつく。

 そこまでたどり着かせてあげるのも、愛である。

 そもそも命とは、生物とは……というオカタい議論で倫理的に責めるのはヤボ、というもの。望むことで、なおかつ実現可能なんだったら、させてげればいい。

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