第2回『ライフ・オブ・パイ ~トラと漂流した227日~』

●ライフ・オブ・パイ ~トラと漂流した227日~



【物語】


 動物園を経営する家族と航行中に嵐に遭い、どう猛なトラと一緒に救命ボートで大海原を漂流することになった16歳の少年の、227日にわたるサバイバルを描く。



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 ここからの文章は、ネタバレになっています。

 すでに作品をご覧になった方、まだだけど別に読んだっていい、という人以外はご了承の上お読みください。

 主人公のパイという青年は、非常に宗教的というか、信心深い。

 それは、一般に比べて度を越していた。

 彼は、ひとつの宗教を信じぬく、ということができない。

 ヒンズー教、キリスト教、イスラム教。三つとも、真剣に信じている。

 普通、ひとつにはまったら、相容れない他の宗教など同時に信じないられないが、彼は違う。その神々の差異や、真理の表現にこだわらない不思議な青年であった。

 その彼が、自らの宗教観を変えられてしまう出来事が起こる。



 動物園を営む彼の家族は、経済難のためカナダへ移住しようとする。

 とある日本船に乗って太平洋を横断しようとするが、途中大嵐の中、船が沈没するという事故が起こる。

 パイはひとり生き残り、家族を失う。他の者も、人間で助かった者はいない。

 一艘のライフボートにすがり、何とか生き残るも、ひとつ大きな問題があった。

 肉食で、人間が狭い空間で過ごすのに最も友達にはなりえない猛獣……トラと一緒だ、ということ。

 映画を見れば、漂流中どのようにパイがトラとの共存生活を頑張ったか、が克明に描かれている。だが、私の興味を引いたのは「パイがどう生き延びたか」というところではなかった。



 過酷な日々の中。さらに彼に追い打ちをかけるように、激しい嵐がパイを襲う。

 彼は思わず、神に問いたくなる。

 なぜ、このような目に遭わねばならないのか?

 しかし、神からの答えはない。

 答えがないどころか、まさにそれが答えであるかのように、嵐はその激しさを増し、パイを痛めつける。



 私は、この事件をきっかけに、彼の宗教観にある変化が起こったのではないか、と思う。

 宗教を信じる世の多くの人々がそうであるように、彼もまた神を『善の神』であり、『人格・意思を持った神』である、という思い込みがあった。

 それは長い歴史をかけて培われてきたものなので、思い込みと呼んでしまうには申し訳ない伝統を持つ。

 平和な中にある者たちは、日々神を崇めながら、そこに矛盾を感じない。

 しかし、悲惨な運命に翻弄される者たちは、どうしてもある疑問に行き着く。



『もし、この世界に神という存在がいるなら——

 どうして、私はこんな目に遭わないといけないのか、教えてほしい!』



 究極の苦痛の中で、人は二つのうちどちらかの結論に行き着く。



①それでも、神を信じる。

 つまり、人間の知恵では、どうしてこうなったのかなど知りようがない。

 ゆえに、自分の都合で簡単に神を疑ったりするのではなく、分けが分からずとも受け入れよう、とする。



②神など、いない。

 いない、とまでは言わなくても、少なくとも今まで言われてきたような愛の神、人間のようにものを考え、善悪をわきまえ、良きを助け悪しきをくじき、人の苦しみや死を嘆くような神ではない、という考えにたどり着く。いるとしたら、まったく説明のつかない現象が起きているから。

 神は、人間が想像するような人格神ではない。善悪を超越しており、少なくとも人間と同じレベルでの感情などというものがない。

 ただ、この宇宙をあるがままに存在せしめる、エネルギー体のようなもの。



 パイは、自覚はなかったかもしれないが一連の遭難体験を通して後者の考えに近づいた。だから、彼をして、映画の中でこう言わしめている。



「この世界で起こることに、意味などない。

 物事はただ、起こっているというだけ」



 そして、そこに何らかの意味合いを持たせたり、何かと結び付けて考えたりするのが人間。

 それこそが、『生きる』ということでもある。

 いわば人生とは、最初から何らかの意味が付与されていて、それを見つけようとするものではない。

 自分で、好きに意味づけをし、満足していこうとする行為の連続である。

 もしもこの時点でまだ、パイがまだ自分の信じている神が、今まで宗教において学んできた神と同じものだと信じていたら、上記の言葉は出ないはずだ。

 だって、すべては『神の御心』であり、絶対に何らかの意味がある、ということだから。



 パイが生還して帰って、自分の体験した遭難物語を、保険の調査員に話すのだが、信じてもらえない。彼らは、もっと真実味のある納得できる話を、と要求してくる。

 そこでパイは、もうひとつのストーリーを話す。

 それは、登場人物 (動物?)を入れ替え、もう少し現実にあり得るような話に仕立て上げたものだった。

 ここまでのすべての話を、のちにパイはある小説家に話す。

 パイは彼に、「どっちの話が真実だと思う?」とは聞かなかった。



「どっちが好きか?」



 ……と聞いたのである。

 この言葉の中に、「どちらかが真実で、どちらかがそうではない」という発想はない。パイはそうあってほしい、という人の思いのエネルギーこそが、その人の真実を創る、と知っていたのだ。

 だから、パイの質問を受けた小説家は、こう答える。



「前者の物語の方のほうが、好きだ。

 こちらが真実であるほうが、いい」



 その答えを聞いたパイは、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべる。



 例えば、『テルマエ・ロマエ』という阿部寛主演の映画で、古代ローマから現代にタイムスリップしてきたルシウスという主人公は、フロを見て——

「下で奴隷が、一生懸命火を焚いている」 と思っている。

 入っただけで(赤外線感知で)自動的にトイレのふたが開くのも、おしりに水がかかるのも、裏で奴隷が手の込んだ工夫をしていると思っている。



 実際は、電気やガス・機械のせいである。しかし、古代ローマから来た彼には、そんな知識はなくとも幸せに生きられるのである。

 他者から見て、事実を認識していないなどというのは、余計なお世話に過ぎない。

 真実がどうか、などどうでもいいのだ。

 大事なのはどう信じたいかであり、人生に必要なら考えを改める機会も来るだろう。その流れに任せることが、大事である。 



 また、この物語は私たちが現実的にどう生きると生きやすいのか、を教えてくれている。

 


●起こった事に対して、なぜ起こったのかとか、誰が悪いのかとか理由を追求しすぎないこと。



 パイにしても、神や何かのせいにしても誰も責められないほどの目に遭っている。

 でも、不思議とそういうところを通過した人ほど、どうしてこうなった、というところにフォーカスしない。

 それどころか、そのひどい状況の中で少しましな出来事を、ものすごく感謝できたりする。

 人生の達人は、なぜそのことが起こったかよりも、どうしたらその状況で幸せになれるかに焦点を当てる。

 だって、「なぜなに」が分かったところで、人間にはどうしようもないからだ。

 だから、『今ここ』において、私はどうしたいのか、どうありたいのかがすべてになる。そのことも、普段意識しておきたいことのひとつである。

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