第46回『るろうに剣心・伝説の最期編』

 マンガを原作にした実写映画は数あれど——

 これほど見事な実写化は、なかなかない。

 もうこれは、原作からは独り立ちしている。

 これだけで、原作とは別格にひとつの『映画作品』である。

 135分、しかも前編に当たる「京都大火編」も合わせると相当な時間になるが,

私としては時間を忘れた。

 上映中、我に返ったり、トイレ行きたいなとか長く座って腰が痛いなとか、感じさせない時間だった。最後はもう大満足で、実際にはしないが拍手喝采を送ってもいい心境だった。

 とにかく、「熱い」映画だった。

 アクション(時代劇チャンバラ)嫌いでないなら、是非見てほしい作品である。

 福山雅治出てるよ~(客寄せの宣伝)



 主人公である緋村剣心(佐藤健)は、もともと優しすぎるくらいの性格だった。

 それが剣を学んで後の過酷な体験を経て、人斬りとなる。

「人斬り抜刀斎」の異名をとり、恐れられる存在となった。

 しかし、彼を修羅の道から引き戻し、人間らしさを思い出させる事件が起きた。

 剣心の頬の十字傷ができたエピソードがそれである。(ここでは長くなるので割愛する。是非、映画なりマンガなりで味わっていただきたい)

 それ以降、彼は「もう人殺しはたくさんだ」という思いから、刃が刀の背中に付いている「逆刃刀」を武器に、『不殺』(ころさず)の道を行くこととなった——



 剣心は最強の敵、志々雄真実(藤原竜也)を倒さねばと決意する。

 しかし、今の自分の力では志々雄はおろかその片腕である瀬田宗次郎(神木隆之介)にすら勝てない、と自覚した剣心は、剣を教わった師匠(福山雅治から、飛天御剣流の奥義を会得しようとする。しかし、剣心は「自分に欠けているもの」になかなか気付けず、修行の成果はなかなか出ない。

 さて、彼に欠けていたものとは何か。



 彼は人を殺すことの虚しさ、辛さの本当の味を知ってからは、「殺さない」と自分に誓った。



●殺さない(不殺)という否定形であることに注意。



 人の信念というものがものすごい力を持っていることは、誰もが認めるところである。しかし、その信念を言葉で表した時「否定語」が使われるならば——

 その力は、半減する。

 例えて言えば、信念のパワーに手かせ足かせが付くようなものだ。

 余分な錘(おもり)を背負うようなものだ。

 マザー・テレサが 「反戦の集会には行きませんが、平和の集会なら行きます」と言ったことにも通じる。否定形は宇宙にはなく、我々人間ゲーム内限定で存在する概念である。

 剣心の不殺(ころさず)の理念は、それなりに立派ではある。

 でも、否定形が彼の信念を支えていた分、弱かった。ゆえに力こそが最強、と「力を肯定する」悪人(志々雄・瀬田)に勝てなかった。

 彼が突き抜けるためには、そこが課題だった。



「お前が欠けている部分にこのまま気付けないなら、オレが殺してやる——」

 そう言って襲ってくる師匠。彼が本当にその気なら、剣心は100%勝てない。

 つまりは、死ぬしかない。

 これまで他を圧倒するばかりだった剣心に、忘れていた「恐怖」が宿った。

「死にたくない」

 しかし、剣心はそう思った後、彼を支えてくれた神谷薫(武井咲)や仲間たちを想った。その時、彼は否定形ではなく、強くこう発想した。



●生きたい。



 そう。これこそが、ただ力だけが最強の者を倒し得る原動力となるもの。

 それを手にした剣心は、死んでも敵を倒す、ではなく「生きるために」志々雄の元へ……

 バットマン、という洋画の中でも同じことが言われていた。

 命を捨てる、とか死んでも構わない、という心境は一見最強に見えるが、実は弱さである。生きたい、死ぬのが怖いは一見弱さに見えるが、中途半端ではなくその思いで極めれば最強。

 


 ひとつの悟りを得た剣心ではあったが、それでも志々雄は強かった。

 彼ひとりでは、どうなっていただろう。

 頼んだわけでもない。約束があったわけでもない。

 むしろ、駆けつけることの方が難しい状況で、三人の仲間が集う。

 相良佐之助。四乃森蒼紫。そして斎藤一。

 四人が一丸となって志々雄と激突するシーンは、感涙ものである。

 出来過ぎた話の展開のように思えるだろうが、現実にこういうことは起こる。



●あなたが惜しみなく世界に与えたエネルギーは——

 時間差こそあれ、必ず何らかの形であなたに返ってくる。



 もちろん、この例のように、分かりやすい形で返ることもある。

 本人がそう解釈できやすい形で、本人が生きている間に。

 しかし、注意が必要である。

 我々人間自我と、あちら意識とでは認識そのものが異質である。

 あちらは時間感覚などいい加減なので——



●その肉体(乗り物)が生きている間に返ってくるとは限らない。



 もっと長いスパン(輪廻)も含めてなので、寿命のある有限人間には一見「理不尽」と思えることもある。だから返ってこなかったら、次の人生かくらいに思っておくこと。

 もちろん、一番いいのはそんな裏事情はどうせ正確なことは分からないので、いちいち「与えた経験」を覚えておかないこと。与えたそばから忘れて、今に目を向け続けること。

 情熱をただ使い続けること。

 親切や恩を心の帳簿に付けていては、余計にしみったれた人生になる。



 そして、もうひとつの可能性。



●実は返って来てるのに、あなたが気付かないだけの場合。



 例え在っても、認識しなければ「ない」のと同じ。

 結婚指輪を無くして二年の主婦が、年末の大掃除の時に箪笥の角から見つけた。

 では、二年間の間指輪は「この世から消滅していた」? で、主婦が見つける瞬間に箪笥に戻った? いいや。箪笥の角に指輪はあった。

 でも、「指輪を無くした」と思っている主婦にとっては、二年間「指輪はなかった」のと同じこと。



●認識していないものは、存在しないのと同じ。



 つまり、あなたの世界の働きかけに応じた(いや、時にはそれ以上に報いてくれるような)出来事はギフトとして来ているのに、ただあなたがそれに「気付かない」場合がある。

 あなたが「素直な心」でない時、何かの思いに囚われている時。

 その状況の「ありのまま」を見れない場合がある。

 人間は、自分の見たいようにしかものを見ない、とはよく言ったものだ。

 自分のその時の感情に応じて、解釈したいように解釈する。

 その解釈によっては、せっかくのギフトを見逃す場合もある。



 こういう映画を見て、夢や希望をもらう。

 生きる元気をもらう。

 でも、映画の主人公のように、必ず愛に生きたことのリターンが分かりやすく返ってくるとは限らない。

 だから、それを期待して愛に生きる、善に生きるのではなく——



●見返り云々に関係なく、そう生きたいから。



 見返りを期待して生きるから、まだかまだかと借金取りのように首を長くして待つ人生になる。

 その時その都度を大事に生きていたら、何も返ってこないでも気にしないし(そもそも考えていないし)、ある日何か返ってきたらたなぼたのように嬉しい。

 これが、日々待ってた状態だったら、たとえ返って来てもどこか「やっと来たか」 「来て当然」という思いがどこかにあって、実質的喜びは半減である。

 ともかく、剣心の生き様を見て、何かあなたの中で触発される部分があろうと思う。どうなるか、必ず見返りがあるのかを心配するよりも——

 エネルギーを注ぎたくて仕方のないものに注げ。

 誰が、何と言おうとも。

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