第81回『ボクは坊さん。』

 映画好きの私が、あえて映画館には行かなかった映画 『ボクは坊さん。』を見た。ただの先入観なんだが、宣伝や予告その他で、ちと内容が薄っぺらそうな印象をもってしまったからだ。

 でも、レンタルでもいつかは見ておこう、と思う程度の気持ちは残っていた。

 で、借りてきたのであるが、昨日は日曜日だというにも関わらず! (借りた当時は)最新作だというのにもかかわらず! 複数本あったどれもがレンタルされておらず中身が残っておった!

 おい、大丈夫か?この作品。もっともとをとりなよ!

 ……そんなしてもしょうがない心配をしながら、一本レンタル中にしてあげた。



 で、実際に見てどうだったかというと。

 確かに、厳しい目で見ると「仏教というものをテーマにする」という難しい課題に関して、ちと軽めというか……重厚さはない。そのドラマパートの軽さを不満に思う方は多いかもしれない。決して悪いんではなくて、宗教映画にしては「軽い」。

 そして、この映画を見ただけでは仏教が何かは全然分からない。

 ただ、教え云々より「お坊さんとして生きるということ」と、その成長だけが描かれている。所々、空海の話や仏教としての「命」の考え方などが紹介されてはいるが、それもドラマの小道具的にしか使われておらず、テーマとして壮大に問うほどではない。



 でも、私が今述べた「欠点的な部分」が、逆転して長所ともなる。

 結果的に、この軽さにして正解だったと思うのである。

 勝手な憶測だが、この映画は若手不足・信者不足や価値観の多様化のせいで苦境に立たされている仏教界が、信者を増やそうという下心で必死に作った映画ではない。仏教を世にアピールする映画とも違う。それだったら、もっと違う作りになってるはずだ。



●あくまでも、ひとりの若者の精神世界的遍歴(心の成長)を描いている映画。

 その主人公の職業が、たまたま僧侶であったという話。だから、仏教の話というより、誰が見ても普遍的に通用する、大事な話になっている。



 私には個人的に、そう捉えることができた。

 展開も地味な映画だが、一応オススメはできる。

 私が心に残った場面は、主人公の坊さん(伊藤淳史)の幼馴染である女性(山本美月)が妊娠中に突然の病に襲われる。結果、赤ちゃんは無事に生まれた。しかし母親は一命は取り止めたものの意識不明の状態が続く。

 やがて、医師より「植物状態」であるとの宣告を受け、意識が戻る可能性は保証できないと言われる。彼女を知る共通の友人が、植物状態の彼女にやるせない思いが募り、「なんでアイツが、あんな目に遭わないといけないんだ? あいつが何をしたっていうんだ!」と怒りをあらわにする。

 坊さんは、仏教的な観点から、命とは実は分かれていないこと、人の命はどこかでつながっていること、決して見た目の肉体がどうなったからといって何かが変わったというだけではないことを告げる。

 しかし、それを聞いた友人は、坊さんに言い返す。



●お前、それ本気で言っているのか?

 お前自身が、本当にそう思っているから言っているのか?

 そりゃ、お前は仏教でそういう風に習ったんだろうがよ!

 本当に、それで納得してるんか!?

 おれには、どうしてもそうは思えない。

 


 おそらく、この友人は仏教が間違っていると言いたかったのではない。

 ただ、坊さんの言葉が「借り物」に感じたからだろう。仏教の側に居る人間として、学んだことをとりあえず言ったに過ぎないと。坊さん自身の、心の奥底からの本当の言葉ではない、と。そのことを、暗に言いたかったのだろう。

 友人の言いたいことを察した坊さんは、その後悩むことになる。

 自分が、まだまだ仏教というものの入り口に立った程度に過ぎない、ということを自覚する。

 その後、紆余曲折を経験し、最後はその「命」の問題に関して、自分なりの「悟り」から語れるようになる。その法話の場に、その時の友人もいて聞いているシーンがラスト近くで描かれているが、彼が時を経て成長した坊さんの話を改めて聞いてどう感じたのかまでは、描かれていない。



 このことから、私が感じたことはひとつ。



●あなたが自分の言葉でしゃべれないなら、スピリチュアル的知識は口にするな。



 それほど、他者に迷惑なものはない。

 第一、人の心を動かせない。借り物の言葉では。

 覚者がこう言っている。また、ある種のスピリチュアル本にこう書いてある。

 ただそれを見たり聞いたりして「知った」というだけなら、そのはりぼての武器を手に他者と魂のやりとりをしないほうがいい。使いようによっては、相手を不快にさせ、また傷付ける。

 もちろん、精神世界的な知識を得ることがダメなんではない。全然かまわない。

 ただ、自分のものにできていないんだったら、できるその時までは「熟成して、寝かせておけ」。決して、それまでは言葉として表面上に引っ張り出すな。まず役に立たない。

 ナウシカのラストの巨神兵みたく、「腐ってやがる。早すぎたんだ」みたいなことになる。



 スピリチュアル的知識を使って他者に何か説こう、分からせようとする場合。

 自分の言葉として放てる範囲の言葉だけ口にしなさい。

 本当に思っていないことを「こう聞いた」からと言って、それがさも自分の意見かのように言うのは、危険である。また、相手をリスペクトしていない失礼な行為でもある。

 ただし、例外がひとつある。それは、シャーマン(巫女)的なお役目の人物だ。

 そういった種類の人々は、たとえ自分に実感がない事柄でも、神託として言葉を与えられる場合がある。それを必要あって他人や世界に告げる場合、問われるのは言葉を薄めない「正直さ」だけであって、それらの内容に心から通じていなくても、それは仕方がない。

 いや、本人にはとても実感できない突拍子もない内容が来る場合もある!

(それ、私の実体験ね)



 そんなメッセンジャー稼業でもないなら、多くの皆さんは 「自分が本当に責任を持てないスピリチュアル的知識のひけらかしは避ける」ほうが賢明である。

 状況によっては、「これを話してやったらいいんじゃないか」と、良かれと思って自分の思いとは違う話をするかもしれない。でも、そういう「うまくいく」「相手を納得させる」ことを意図的に狙ったお話というのは、最終的に何らいい仕事をしない。

 本当に分からないなら「分からない」と言うほうが、相手のためになる。

 どんなに恥ずかしくても、正直に今の自分の気持ちを言う方がいい。

 その上で、自分がまだまだ未熟だと思うなら、今は恥を忍んで本音を言っておいて、日々バージョンアップのために自己研鑽するしかない。

 そうしていつの日にか、心から借りものではない 「信じている宗教の神髄」「好きなスピリチュアルの骨子」について語れる日が来るのである。

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