第82回『あん』

『あん』という映画(もとは小説)がある。

 原作は中・高の読書感想文コンクールの指定図書になるほどで、映画化の前にすでに評判のある作品だったようだが、恥ずかしながら知らなかった。

 遅まきながら配信サービスで見て。これは確かによい映画である、と思った。



 今言った「よい映画」という言葉は実に便利であると同時に、乱発すると浅くなる。私が今「よい」という言葉をどういう意味で使ったのかというと——



『大事な事柄に関して、改めて自分で考える機会をくれる映画』



 そんな映画を、私は「よい映画」と呼んでいる。

 さて、この映画は一体何について考えさせてくれるのか。

 それは、『自由』ということについて、である。



 ある小さなどら焼き屋で、千太郎(永瀬正敏)は雇われ店長を続け、日々どら焼きを焼いていた。彼はその仕事が好きだからやっていたのではなく、辛い過去において背負ってしまった事情から、義務として仕方なく働いていた。甘いものが好きでもないというのに。

 ある日、この店に徳江 (樹木希林) という手の不自由な老婆が訪れ、バイトに雇ってくれと懇願する。

 彼女をいい加減にあしらい帰らせた千太郎だったが、手渡された手作りのあんを舐めた彼はその味の良さに驚く。徳江は50年、あんを愛情をこめて煮込み続けた女だったのだ。

 千太郎は徳江を雇うことにした。徳江のあんを使ったどら焼きのうまさは評判になり、やがて大勢の客が店に詰めかけるようになる。だが、店のオーナーは徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつけ、千太郎に解雇しろと詰め寄る。

 そしてその噂が広まったためか客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は自ら店を辞めた。

 その後やりきれない思いを抱え、自暴自棄な時期を送った千太郎は、徳江がいるハンセン病感染者を隔離する施設に向かう。そこで彼が感じたものは……?



 自由、って何だろう。

 辞書で引くと、まずあるのが『自分の意のままに振る舞うことができること。』

 でも、これは現実世界には存在し得ない。

 例えばあなたが、焼き肉が食べたいなと思って、実行して焼き肉屋へ行くとする。

 これは、自由だろうか? 純粋に自由と呼んでいいだろうか?



●この世界に、完全な自由は存在し得ない。

 すべては、一定の条件下、ある程度の「制限」を前提とした、表面上の自由でしかない。



 あなたは、100%「焼肉屋に行きたい」という純粋な思いだけで行動しているのではない。

 まず、焼き肉屋へ行けるだけのお金がある、という無意識下の認識が行動をOKしている。それがなければ、そもそも「焼肉屋へ行こう」という意思自体が湧いてこない。お金がないという状況があると、行くという選択肢自体を、無意識下で封印するだろう。

 で、焼肉屋が近所にある。あるいは近所にはないが車があるので、時間をかけずに行ける。

 あるいは、時間。まだ6時や7時で、食べに行くのにちょうどいい時間帯であることも大事。朝の9時や真夜中の3時に焼き肉屋で肉が食べたくなっても、現実的に開店していない。

 このように、自由に振る舞うなどという意味合いの自由は存在しない。必ず、現実の行動は無数の諸条件によって制限される。その残りかす程度の2、3の選択肢から辛うじて選べることを、人間はたいそうに「自由だ、自由だ」とはしゃぐのである。

 まぁ、それもかわいい。


 

 では、現実面での自由などないなら、「心の自由」ならあるのではないか?

 現実と違って、思いの世界なら自由だからね!そうだ、本当の自由とは内的世界にある!

 ……それもハズレ。

 人間には、生まれてこの方蓄積してきた「前提知識」、そこから総合的に割り出した 「人生観」や「信念」がある。そこから自由になることはできない。

 もちろん、それらを砕き新しいものを築くことはできる。

 しかし、個人差こそあるがそれが起きるのは多分人生に数回程度である。

 信念までは行かなくても、より末端の枝葉である「知識」や「認識」程度なら、日々目まぐるしく毎瞬情報更新される。我々は、思いの世界くらいは自由だと思いたいが、残念ながらその一見自由であるはずの心の世界すらも、一定の縛りを受けた上で思考している。

 それじゃあ、自由なんてどこにあるん!?



 この映画の登場人物・徳江は、その「自由」をつかんでいた。

 彼女は、現実的には「ハンセン病」という病の縛りから自由にはなれなかった。

 もちろん、心の世界にだって100%の自由はなかった。

 では、彼女のどこが「自由」だったのか?



●何が起きても、最終的に「それもよし」と受け入れる自由



 我々の世界では、そこにだけしか本当の自由というものはない。

 行動だって本当には自由じゃない。心の中で思うことだって、その人が見聞きし体験してきた範囲内で、出来得る発想内でしか、物事を考えたりできない。心で想うことでの自由すらない。

 でも、起きることも何かを思うことも自由にできなくても——

 すべてのことを、あなたとして見つめ、自分と同化させることはできる。

 学ぶとは、対象とひとつになることである。受け入れることである。

 ただ認めるだけではなく、対象の中に積極的に「良い意味」を見つけ出すことである。それが、「平安」という境地を生む。



 徳江は、人生の戦いの中でそれを勝ち取った。

 彼女は、千太郎のところで働こうと思った動機を、こう語っている。

「あなたは、悲しそうだった。自分に怒っているみたいだった。まるで、昔の私みたいに」

 そうなのだ。徳江だって自らの運命やハンセン病という事情に圧倒され、振り回された時期があった。で、今彼女の精神ステージはもうそこを見つめる戦いが終わったところにあった。

 だからこそ、千太郎を助けたいと思ったのである。

 なぜ、覚者やスピリチュアルメッセンジャーたちが、「起きることが起きる」「すべてはどうでもよい」と口では言いながらも他者に関わろうとするのか(活動しようとするのか)というと、理由はこれである。

 私が以前言った、『愛の循環』。

 自分がかつて、色々な人のお蔭様で今のようになれた。その感謝の思いが、自然にその人物をして「今度は私が誰かの支えになる番だ」と行動のための衝動を起こさせるのである。

 これは、いわばこの宇宙のルールである。だから、自然なことである。



 徳江がハンセン病の噂で店に客が来なくなっても世間を悪く思わなかったのも、穏やかに身を引き、そして自分ができる範囲で大事に思えることを大事にできるそれだけで十分、と思える生活ができたのも、「起きたことをすべて俯瞰し、最終的に消化できる力」があったからだ。それこそが自由だ。

 で、この時の千太郎にはまだその「自由」がなかった。

 だから、徳江は千太郎にとって「人生の師」であり、自分に「自由」を気付かせてくれる重要な人物であった。しかしある日突然、徳江は亡くなってしまう。

 その遺言を聞いて、千太郎は目覚める。



●私という人間として、起きるすべてのことを見、そして聴く。

 何者になれなくても、それだけでも人生というものに意味があるんだと思います。



 ラストシーン。

 雇われ店長をやめ、お金を稼ぎ借金を返すためだけの 「どら焼き屋」 をやめ——

 近くの公園で、小さな屋台を始める。

 辛いものが好きで、本来どら焼きを好きではなかった彼が、本当に心から売りたいと思った。

 無口な彼が、はじめて大勢を前に大声を出した。

「どら焼き、いかがですか!」

 この時ですら、行動も不自由。思いの世界だって自由なわけじゃない。

 でも、やっと徳江から千太郎に「命のバトン」は渡された。

 彼は、「自由」への第一歩を踏み出したのである。

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