第31回『白ゆき姫殺人事件』

【ストーリー】


 人里離れた山中で10か所以上を刺され、焼かれた死体が発見される。

 殺害されたのは典子(菜々緒)で、容疑者は化粧品会社のOL城野美姫(井上真央)。テレビディレクターの赤星雄治(綾野剛)は、美姫の同僚、家族、幼なじみなどに取材。

 典子が美姫の同期入社で、美人で評判だった一方、美姫は地味で目立たない存在だったことが報道され……。情報を集めていく中で、もし皆の言っていることを本当だとすると、おかしな部分が沢山あることに気付く。いったい、誰がウソをついているのか?



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 有名な『告白』を書いた、湊かなえ原作の作品である。

 一作目のインパクトがかなり強かったので、その後続の作品たちはどこか「一作目を越えない」感じがつきまとっていた。もちろん、それは私個人の主観に過ぎないのであるが。

 映画館へは期待して行ったわけではなく、特に見たい作品はもうなかったしあえて何がマシか、と考えた時にこれになったというだけ。

 封切り後かなり経った、というわけでもないだろうに、もうすでに映画館の中で収容人数の一番少ないスクリーンでの上映。観客もまばらであった。

 でもこりゃ、なんと面白い映画だ! もう、身を乗り出して見てましたよ。いやはや、これはあの「告白」に見劣りしないよ!

 それどころか、「告白」の見終わった後の後味の悪さはなく、素敵な話にまとめられている今作は、私的には告白を越えたよ! そこまで褒めたくなる出来の良さであった。

 改めて、井上真央はすごいと思った今作の演技だった。ああいう役ができたら、もう世界から重宝がられて息の長い役者さんになるだろう。 



 そう難しくはないが、一応「謎解き」に分類される作品である。

 よって、犯人は誰か、あるいは殺人がなぜ、どのようにして起きたかなどに関してはネタバレを防ぐため口をつぐむ。ストーリーに関しては一切触れない。

 この作品から汲み取れるメッセージ的な部分のみ、語ることにしよう。



 人は、見たいようにしか物事を見ない。

 それぞれに悪気はなく、自分はちゃんとものを見ていると考えている。

 完全だとは思ってないだろうが、でも自分はさほど大きく外れていない、と思っている。マシな部類だ、と自負している。

 でも、はっきり言おう。



●この世界には主観しかない。



 私たちは「客観」という言葉を使う。

 本当の意味では、客観というものは存在しない。

 何かが何かを、完全に理解する(分かる)ということはない。

 あるとすれば、あちらへ帰った時(一元性・空に帰った時)だ。

 でも皮肉なことに、その時に分かるのは「すべて」なので、主観に対応する対義概念としての「客観」というものではなくなっている。要するに、永遠に客観的になどなれない、というわけだ。

 だから、我々が場の空気を読もうとしたり他者の気持ちを汲み取った行動をしようとする時には、「客観ごっこ」をしているのだ。でもそれは、悪いことではない。

 ただ気を付けてほしいのは、それを「失敗した」と感じた時に、自分の配慮不足だったとか能力不足だったとかで自分を責めたりしないこと。ごっこ遊びだったら害はないが、マジになって成功・失敗を言い出したら不幸への第一歩である。

 どう逆立ちしても、客観視になどなれないのだから、ラクに生きればいい。

 必死に客観的であろうとするより、主観でしかものを見れないのだという事実を受け入れて、開き直って気持ちよく過ごせばいいのだ。だってこれしかできないんだもん。だったらもう、主観を大事にして気持ちよく生きていこう、って。



 この映画の面白い所はまさに、人は自分が見たいようにしか物事を解釈しない、というメッセージ性。登場人物たちは自分が見聞きした「事件」についてそれぞれ話すが。皆話が微妙に食い違う。それは確信犯的に誰かがウソをついているのではない。皆、ウソをついていない。

 ただ、顕在意識が「自分は正しくものを見ていないかもしれない」という可能性に思い至らず、無意識に記憶を捏造しているのである。

 しかも、自分に都合がいいように。

 そのことが自覚できたら格好悪い思いをするし、罪悪感に責められるかもしれないので、無自覚の内に記憶の「脳内変換」を行う。これで、良心の呵責なく作り上げた偽造認識を、真実として口にできる。

 井上真央演じる事件の容疑者のたどった道を見たらば、本当に私は「客観的に見てます」とか「あの人のことは良くわかってます」って言葉が、恥ずかしくて言えなくなる。はっきり言うが、こんなにエラそうにしゃべっている私でさえ、本当の意味で客観的ではない。

 この世界のどんなに高名な覚者でも、スピリチュアルリーダーでも、超頭のいい人でも「客観」という言葉が示す基準を満たせる存在はいない。

 人はすべからく、主観でしか生きられない。



 何度もいうが、アンテナを張り巡らせ外部を過度に配慮して生きるよりも、手放してもっと感覚的に、自分の主観にくつろいで自然体で生きることをオススメする。

 究極の自己満足は、究極の波動シンクロにつながる。

 相手を分かろう、世界を分かろうとするエネルギーは、それが楽しさから発しているのならいいが、大概は「成功したい。得をしたい。失敗したくない。面倒は避けたい」という無意識下の原始的な感情である。(原始的と言ったが、別に悪く言ったわけではない。それも必要であり、起こったなら最善である)

 客観的であろうとするための動機がそうしたことなら、くだらないことだ。

 そんな客観、大した価値はない。

 筆者は、人の気持ちを考えたり、配慮の二文字を考えたりということが、一般比較してかなり少ない方だと思う。

 究極の自己中心、究極の主観を生きている。

 でも不思議なことに、かえって色々気配りしたり心配して手を打っていた時よりも、人生が素敵に回りだしている。逆説的だが、自分を大切に出来る人ほど、大した苦労もなく結果として外部の世界とうまくやれる。恐れや損得から気配りをして、空気を読んで生きても、それは空回りに終わる。



 この映画の内容のような悲劇を減らしたいなら、ひとつのことを意識の片隅に置いておればいい。



●我々は、100%の客観性を得られない。

 だったら、あなたが自分の判断力で理不尽に思ったり、嫌に思える出来事・人に対しても、もうちょっと割り引いて、優しく考えてあげたら?



 あなたの判断力が完璧だと思うんなら、私のアドバイスは必要ない。

 だって、あなたの判断力は「正しい」ということだから。

 でも、少しでも謙虚に、「私は客観的にはなれない」と認められるなら——

 もう少し、自他に対して優しくなれるのではないか。

 そうしてこそ、今までよりも生きやすくなり、一息つけるのではないか。

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