スピリチュアル映画評論

賢者テラ

第1回『レ・ミゼラブル』~罪とは何か、をあえて問うなら~

 ●『Les Misérables (レ・ミゼラブル) 』 (ヒュー・ジャックマン主演)



 スピリチュアルを下手に学んでいると、「ああ何だかエゴにやられてる話だなぁ」 と、ぼやけたフィルターを通したみたいに、この作品の放つ圧倒的なエネルギーをろ過してしまう。

 私は覚醒体験をし、スピリチュアルなメッセージを発信する立場であるが、この作品に登場する人物、そして劇中の出来事の細部に至るまで『醜い、くだらない、良くない、間違っている』などの否定的な思いは湧いてこなかった。

 この映画のすべての要素が、それぞれ縦糸・横糸となり、布地を織りなしている。

 どれが欠けてもいけない。そしてすべては同価値である。



 確かに、エゴさんがこれでもか、というほどに大活躍する映画ではある。

 エゴが良いものではあり得ない、という認識に固まっていたら、この手の映画を楽しめないかもしれない。

 しかし、私は三時間というこの長い映画を、次から次へと悲しみと苦難が襲い来るこの物語を、私は十二分に楽しめた。

 月並みな言葉だが、大いに感動した。

 同じように長い映画で、『タイタニック』 、そして 『愛のむきだし』(園子温監督)という映画がある。 

(後者は、良い意味ではあるがかなり破壊的な内容になっているので、万民にオススメしにくい)

 この二作品を見た時と同じ。

 三時間ほどもある、という長さを感じさせない、大作だった。



 レ・ミゼラブルというタイトルは、「悲惨な人々」「哀れな人々」というような意味になる。実際、中身はそのごとしである。

 でも、なぜ人はそのような映画を見ようとするのか。

 また、どうして心動かされ、感動するのか。

 それは、この作品の登場人物すべてが、善悪など関係なく——



●この三次元人生ゲームに

 命の限り、精一杯に、真剣に取り組んでいるからである。 



 正しい、間違っているなんて考えだしたら、この映画の持つ正味のエネルギーは受け取れない。

 そこには、価値判断やジャッジを超えた、「生きよう」とするエネルギーが満ちている。もっと言えば、『躍動感』が息づいている。

 生き生きしている。英語で言うと、ビビッド。それが、ジャッジなしにこの作品を胸に受け止める者をとらえて、離さないのである。

 


 問題作として、邦画の『悪の教典』という映画がある。

 元AKBの大島優子が、「この映画嫌い」と言ったことで有名。

 それもひとつのとらえ方であり、何も間違っていない。

(というより、こちらのほうが世間では 『まともな神経』と言えるだろう)

 私も見たが、「楽しかった」とまでは言わないものの、それなりに良かった。

 じゃあ、何が良かったのか。



●生き生きとしている。



 伊藤英明演じるサイコ・キラーが、実に生き生きと人殺しをしている。

 一昔前、やはり同じような路線で『バトル・ロワイヤル』という映画が話題になった。その時も、内容を問題視する声はあった。

 あれは、学校の生徒同士が殺し合いをさせられる映画だった。でも、その作中での生徒たちの駆け引きが、どうしても(笑)ワクワクするのだ。

 そこを否定して、人は善人ぶろうとする。どこかで、そういうものを楽しむ要素を、否定できないものとして抱えていながら。

 世界から吹き込まれてきた道徳観念や、「こういうのはよろしくない」という学習した反応パターンで応じる。

 そうすれば、周囲もまともな人としてその人を扱ってくれる。

 人は、自分の感情に素直になるよりも、すべての思いを中立に認めようとするよりも「自分が他者から外れていないかどうか、仲間外れになっていないかどうか」を気にする。



 私は、この映画のタイトルのように——

 時代の激動の波に呑まれた、「悲惨な人たち」の物語だとは、思わない。

 そう見るとしたら、それはただの価値判断である。

 皆、命の炎を燃やして、その生を生き切った。

 憎まれ役の、テナルディエ夫妻でさえも、あれはあれで見事な生きざまである。

 あそこまで徹底できれば、表彰ものである。(笑)

 私には、革命側も王政側も、主人公をめぐるすべての人も「最高」という名の同価値に見える。

 悲惨な部分はいらないのではない。主人公を苦しめる登場人物は、余計なのではない。そのすべてが揃っていて、ジャン・ヴァルジャンという男の壮大な人生物語が、完全なものとなるのだ。

 本当の意味で、悲惨な人など存在し得ない。

 そのことを分からせてくれる映画でもあった。



 筆者がこれまで主張し続けてきたことのひとつに——



●罪というものは、存在しない。



 ……ということがある。ましてや、『罪びと』などと呼ばれる者もいない。

 いるように見えるのは、私たちがそのように解釈することによって「創造」しているに過ぎない。

 でも、ここであえて罪というものがあるとしたら、どのようなものかを、筆者流に言ってみよう。



●生き生きしていないこと、が罪。



 正しい、正しくないは関係ない。

 例えば、宗教的儀式。信じている人はほぼ、楽しいからやってない。

 やらなきゃいけないから。やることが正しいと思うから、退屈でもやる。

 あれこそ、罪だ。漫然とやる学校の授業、なんてのもそうだろう。

 退屈や、そこに命の躍動感がないものは、罪。

 逆に、世間様からは眉をひそめられるようなことであっても——

 そこに、命という炎の輝きがあるのなら、素敵なことである。

 パチンコでも競馬でもいい。

 きれいな姉ちゃんに、心臓をバクバクさせたっていい。

 楽しんでいるか。心からの喜びがあるか。情熱を燃やせているか。

 どれが正しくてどれが間違い、ということはない。

 あなたが、現状を嫌になり「これはやっぱ違うな~」と感じたら、そこで変えたらいいだけ。たったそれだけの話でしかないのに、世の人は完璧であることを目指し、間違いを排除しようとする。



 タイトルにある通り、悲惨という要素は、確かに散りばめられていたが——

 この映画は最初から最後まで、徹底して『生き生きしていた』 。

 これが良作だから、一般的に名作と言われる感動的な話だから好きなのでもない。

 生き生きしているから、私は好きなのだ。

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