第52回『フューリー』

【ストーリー】


 ナチスドイツ相手に戦車で戦いを挑む男たちの姿を描く戦争ドラマ。

 第2次世界大戦末期、戦車を駆使して敵軍に立ち向かう5人の兵士たちの過酷なバトルを追う。



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 戦争映画を見ると、人は大まかには二つの反応を示す。

 ひとつ。歓迎派。こういう戦争映画を見ることは大切。残虐なシーンも正視することで、「戦争はいけないんだ」 という思いを生まれてから平和しか知らない世代の心に植え付け、二度とこういう悲劇を起こさないようにするのが良い、という考え。

 ふたつ。何でこんな胸糞悪くなるようなイヤなシーンばかり、金払ってまで見せられないといけないのか? 戦争映画に気付きや教訓を感じるどころか、嫌悪感しか感じない、というタイプ。

 この二つの反応は、正反対なようで実は根っこが同じである。正体が同じ。

「自分の都合」という根っこである。

 反戦や平和祈願という大義名分を隠れ蓑にして、自分のエゴを出しているだけ。

 その表面な違いとして、擁護派と嫌悪派に分かれているだけ。

 結局、皆自分の言いたいことを言ってるだけ。

 そして、その発言内容には、「その人の人生の課題」が浮き彫りになっている。



 私は、「戦争映画」としてこの作品を見ていない。

 それは、表面的なことだ。

 そんなことを言うと、「当時が、生のその場所がどんなに悲惨だったか! 表面的、とか言って軽んじるな!」 というお叱りを受けそうだ。

 でも、私が実際に生きているのは現代だ。その否定できない「今」に合うような視点で見て、何が悪い? 悲惨さ、むごさを肌で感じようという見方もあると思うが、それでは逆にそこばかりが目について、その奥に隠された気付きの種を見逃す可能性がある。

 私は、一応だがスピリチュアルという畑に身を置いている(らしい)。だから、映画を見る時に重視するのが、「気付き」である。描写がどうのとか、戦争のむごさがどうのとかいう次元は私にはさして重要ではない。



 映画の感想とは外れるが、スピリチュアルでは「今」の時代をやたらもてはやす。

 素晴らしい時代。歴史上、千載一遇のチャンス。我々は恵まれた時代に生まれた……?

 バカな。

 私の気付きの視点からは、どの時代でも同じである。

 確かに、表面的事象としての世界全体の趨勢、歴史上の事件や時代背景が違うだろう。今は比較的治安が良く、昔は生きることそのものが戦いであり、大変だっただろう。でも、そんな表面的なところを、私は見ていない。

 もちろん、この世界に身を置いているのだから、いわゆる「普通感じる感じ方、見方」がいい。郷に入らば郷に従えで、根源論的な悟りの観点からの身もふたもない内容など、あまり役には立たない。



 でも、私はなぜか「昔がダメで、今は良くなった」という発想がキライだ。

 さらにキライなのが、でも「良くはなったが今もまだまだで、将来さらに素晴らしい時代になる」という発想。その引き合に出されるのが、高次元と言われる存在から提示される理想像や、もっと優れた高度な文明を築いた宇宙人の話である。

 なぜだろうね。

 きっと、時代時代でも皆「与えられた状況の中で、全力で生きた」というところをバカにされたような気になるからだろうか。私は、何としても評価したいのだ。その人の置かれた状況がどうでも、結果がどうでも、その人なりに「役をまっとうした」 というところを惜しみなく賞賛したいからだろうか。



『意識がすべてをつくっている』 というスピリチュアルの手にかかれば、戦争時代などどう解釈されるか。

 悲惨な戦争(現象としての結果)が起こるということは、その「原因としての人類の意識状態」のせいということに。ぶっちゃけた言い方をすると——



●昔の人の意識が低かったから、戦争が起こった。



 これ、私一番認めたくないのね。覚醒視点とか押しのけて、腹立つのね。

 皆さん、「集合意識」って好きだからね。個々で素晴らしい人がいても、トータルとしてそうでないから、世界的には戦争に。でも現代は、エゴの罠に気付き平和の価値を認めだしたから、トータル的に意識が上がった結果、戦争の減った今の世になった、だって?

 何様のつもり? 現代人よ。

 生まれたら、あなたが何もしていないのに戦争のない平和状態だった、恵まれた良家のボンボンだったくせに、生意気なこと言うんじゃないわよ。本当に、現代人は意識が高いから戦争が起こっていない、と言えるの?



 私からしたら、『同じ』である。

 昔は、目に見えた武力や殺戮による戦争。

 今は、経済的豊かさや社会的幸せを求める競争戦争。武器は才能や学力やお金。負けたら、戦争のように肉体が死にはしないが、鬱になったり様々な心身の不具合を生じる。自殺も多い。さらにいじめ、過労、過当競争、美醜や能力の優劣による差の認識。機械化、文明化に伴う自然との軋轢、アンバランス。

 やっぱり今も、一種の 「戦争状態」 であることに変わりないように、私には見えるのだ


 私は、「これからの時代はよくなる」というスピリチュアル的予言に励まされるのは、別にいいと思う。

 ただ、それを杖として「体重をかけすぎる」のは、いい選択とは言えない。

 やっぱり、最終モノをいうのは「希望的信念」ではなく「今ここの現実対処能力と瞬発的エネルギー」である。時代は、あなたを応援しちゃくれない。それくらい思っておいた方が潔い。

 テニス選手は、コートに立てば一人。

 マラソンも、走り始めたら頼れるのは自分だけ。



 ブラッド・ピット演じる「血も涙もない、百戦錬磨の鬼兵士」は、戦場ではためらいなく敵を殺し、マシーンのような冷徹さで生き残ってきた人物。

 最後、生きて帰れないであろう戦いに身を投じる前。

 会話の中で、仲間が聖書の言葉を引用した時——



 ……イザヤ書第6章(8節)。



 ボソッと、そう言う。

 欧米人は、クリスチャンであることが当たり前のような感じがあるが、だからと言って聖句を聞いてすぐにどこどこの何章だと言える外人は少ない。

 彼は、よほど聖書を読み込んでいたのだろう。

 読み込むということは、そこに「本質な何か」を見出そうとしたからだろう。

 聖書を徹底的に読み込んだ人物が、戦場で躊躇なく銃の引き金を人に向けて引く。一見、ちぐはぐで合わない印象を受けるだろうが、それが本当だろうと思う。



 私は、本当に宗教(あるいはスピリチュアル)を極めるとは、こういう状態のことを言うのだと考える。

 すべてを受け入れ、順応し、そこで出来得る最善の判断(それが人を殺すことであっても)を厭わない。

 両極相通じるで、究極の冷徹さは深いスピリチュアル的洞察に裏打ちされたものである。

 ゆえに、単純な戦争反対(放棄)、悪や残酷さへの嫌悪は、宗教的(スピリチュアル的)ハンパ者の姿勢である。

(でもそれが悪いわけではない。単に在り方の選択問題)



 スピリチュアルで重要なのは、どういう見通しが立てられるか、どういうビジョンを持っているか、どういうことを意識して願えるかではなく——

 その瞬間瞬間に起こった事を目の前にして、どれだけ早く的確に、自分のホンネに沿った選択を取れるかである。平時に、どんなキレイごとを言えているかなど、いざという時ほぼ役に立たない。

 意識がすべてだ、と思ってネガティブな要素を全力で閉め出している諸君に、その通りに何も悪いことが起きないよう、陰ながら祈っているよ。

 その祈りは、多分通じないと思いますけど。

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