71・狂った母



 母は綺麗に狂った人だった。



 箱入り娘として大切に育てられた母は古い人間で。

 夫である、私の父に逆らう事など考えもしない人だった。


 父が外に女を作り、家に帰ってくるのが一月に数度になっても、恨み言ひとつ言わない人だった。

「貴仁さんは御父様に似ていらっしゃるわね」

 透明な笑みを浮かべ、ふっくらとした人差し指で私の頬をなぞるだけだ。



 母は恨み言ひとつ言わなかった。

 周りがどれだけ陰口を叩こうと、家を守り、跡継ぎである私をしっかりと育てた。

 そして、その陰で静かに狂っていった。



 幼い私は母によく強請った。

「かあさま、かあさま、ぼくを描いて」

 母は子供の頃に日本画を学んだと言う。墨を用いて綺麗に絵を描く。

 少ない線ながらも、強弱を持って描かれたそれは確かに私の顔。

 強請り、強請って、色んなものを描いて貰った。

 そして――最後。

 私は望むのだ。

 胸を高鳴らせながら、そっと、母に頼むのだ。



「ねぇ、かあさま。とうさまを描いて」



 母はやはり透明な笑みで笑う。

 筆で描くはよく父がしていた姿。当時珍しかった洋装だ。

 だがその顔は墨で黒く黒く塗り潰されている。

 母が描く父はそれ。

 黒く塗り潰された、異形の父。


 それを見るたびに私の胸は高鳴った。

 幼い私にはその理由は分からなかったが、後で思い至った。

 私は母のその静かな狂気が酷く愛しかったのだ。

 外に発散する事も出来ず、ただただ、静かに笑い、静かに黒い墨で異形の父の姿を描く母が、ただ、ただ。






 母が死んだのは10歳の時で、喪が明けぬ前に愛人の女が新しい母となってやってきた。

 せいぜい仲良くやってやった。

 あの女を、オカアサンと呼ぶのにも苦痛は無かった。






 成人してから調べた所、母の血筋には気狂いが多かった。

 特に女にはその傾向が強いらしい。

 故に私は結婚相手にとある女を選んだ。

 父は既に無く、オカアサンは一度殴ってやったのならもう私を止めようとはしなかった。



 私が結婚相手に選んだのは、今は貧しく身を落としているが、母と血の繋がりがある女だ。

 遠縁の筈だが、その透明な笑みは母によく似ていた。

 半ば金で無理矢理私のものとした。

 決まった婚約者も居たと言う。

 透明な笑みの裏側で、きっと、私を恨んでいるだろう。

 言葉では何ひとつ言わないが、きっと、きっと。




 私とこの女は長い時を過ごすだろう。

 何年、何十年。

 その年月を掛けて、私はこの女を狂わせようと考える。


 母のように。

 あの、愛しい狂気を、再び。





 私はそれを待ち侘びる。

 


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