53・絶望 file.8


――ねぇかあさま。


 幼い少年が問いかける。

 柔らかく、大きく膨らんだ腹。そこに宿る生命に耳を寄せた少年。

 室内着にも関わらず、両手に黒皮の手袋を嵌めた幼い少年が、その優しい腹部に手を当てて、微笑む。



――ねぇ、かあさま。

  ぼくのいもうとはいつうまれるの?


――あら、妹とは限らないわよ。

  でも、もうすぐよ、もうすぐ。


 優しい母様が微笑む。



――そういえば、この子の名前、リィシェンがつけるって言ってたわよね。

  決まった?



 幼い少年は母を見上げ、飛び切りの笑顔を浮かべる。



――リィハイ!



――そう、リィハイ。可愛いお名前ね。


 母親に向かって笑った少年は、言葉を続ける。


――ぼく、ぜったいにリィハイをかわいがるよ。



 だから。



――はやくでておいで、リィハイ。ぼくといっしょにあそぼう?












――ねぇ、かあさまは? リィハイは?


――ねぇ、どうして? どうして、だれもこたえないの?


――ねぇ、おとうさん。かあさまは、リィハイは?




――リィハイは遠い遠い場所に行った。


――お前を生んだ母親も、遠い遠い場所だ。




――とおいとおいばしょ? ねぇ、それはどこ?




 誰も答えてくれなかった。





 やがて、リィシェンは気付く。

 父親が生まれたばかりの赤ん坊で何かを行い、それを止めようとした母親を殺した事を。

 リィシェンは、気付いてしまった。






 闇の中にのみ生きる一族が居る。

 リィシェンの一族もそうだ。

 毒を扱う一族。

 始末屋。暗殺者。呪術者。

 何でもいい。そんなものだ。


 闇の中で人は生き続ける事は出来ない。

 必ず、狂い、壊れていく。

 思えば、一族の当主である父は狂っていた。

 幼い子供を買って来ては、死ぬよりも惨たらしい事を行った。

 眼球を抉られ、蛆虫がわいたそこと、無事なもうひとつの目で、リィシェンをずっと見つめていた少女を覚えている。

 


 リィシェンの両手は黒く変色し、歪み、ペンをまともに持つことすら出来ない。

 生まれてすぐにリィシェンの両手に毒を与え、武器になるように折った骨を歪めた形で整えたのは、父親だ。

 そして、幼い息子に殺しの技術を教え込んだのも、父親だった。



 リィシェンは常に黒い手袋を嵌めている。

 そうでなければ、人に触れる事も出来ないのだ。

 彼が触れた場所は毒に冒される。

 そして、毒は人を死に至らしめる。



 人に触れられないのは寂しい事ではない。

 誰かを思い、頼り、愛されたいと言う望みは、リィシェンの中には無い。

 




 闇の中。一族と言う闇。裏世界と言う闇。

 その中でずっと生きてきた。

 闇を見据える瞳は、ただ、黒い。



 無表情に、無感動に。

 彼は、生きる。

 時を重ね、時を重ね。

 



 信頼していた側近に裏切られ、恐慌状態の父を眺めても、何も思わなかった。

 ただ。

「――リィハイだ」

 父の一言に、僅かに、表情が歪んだ。


「リィハイを、連れて来い!!」

「……りぃ、はい?」


 死んだと思った肉親の名前を聞き、リィシェンは表情を変える。

 驚愕の表情に父は、何がそんなに面白いのか、肥えた腹を揺らし、笑って見せた。


「お前の妹は死んだよ。生まれて二時間で」

 だが。

「生き返った」

 そして。

「闇の中で飼い、育ててみたんだよ」



「楽しみだと思わないか、リィシェン。

 どのような生命が育つのか。

 死の闇を見てきた赤子。それからずっと闇の中。

 あの子は何を見て、何を思って、年を重ねたと思う?」






 父は狂っていた。

 その狂った父を見て、リィシェンは何も思わなかった。

 ただ小さく、会った事の無い妹の名を呼んだ。






 長い黒髪。

 殆ど裸体と変わらない服装の少女は、ぽっかりと黒い瞳でリィシェンを見上げてきた。

 今年で15歳の筈だ。

 だが、それよりも幾分幼く見えるのは、色の抜けたような肌の為か。それともあくまでも細い手足の為か。



 リィシェンは動けなかった。

 妹が正常な心を持っているのか不安だった。すでに狂っているのではと。

 そして、狂った妹は、自分を兄と認めてくれないのでは、と不安になったのだ。




 ゆっくりと、リィハイが笑った。





「にい、さん」

「……ぁ」

 小さく声を漏らしたリィシェンに一歩近付き、両腕を広げる。甘えるように抱きつき、少女はリィシェンの胸に顔を埋めた。




「兄さん」

「……リィハイ」



「会えた」

 ようやく、と。


「ずっと会いたかった」

 俺もだ、と、吐息に近い声で囁けば、リィハイはただ嬉しそうに笑みを浮かべて見せた。






 リィハイはやはり普通の少女とは異なった。

 闇を好み、その中で何時間も動かずに座り込む。

 普通の少女が喜びそうな装身具や、その他嗜好品にも興味を示さなかった。

 哀れに思った。

 リィハイは何も与えられなかったのだ。

 闇の中で、飼い殺されかけていたのだ。

 哀れな妹。

 


 灯りはひとつ。

 他は闇。

 妹の姿は半ば闇に沈んでいる。

 シーツ一枚。素肌に纏うだけである。

「気持ち、いいの」

 指先を肌に滑らせる。

 あくまでも白い。だが、闇に溶ける身体。

「闇に、身体が溶けていく気がして、気持ちいいの」

 衣類はそれを阻害する。

 闇が笑う。

「闇は好き」

「だが、年頃の娘としては感心出来ない」

「……そう?」

 リィハイは素直に答えた。「なら、兄さんの言う通りに、する」




 ――どうして。


    どうして、気付かなかったのだろう。






「兄さん」

 黒い手袋の手を取られ、束縛。

「……毒は」

 ようやく口にしたのは短い問いかけ。「毒は、平気か?」

「平気よ」

 リィハイは微笑み、手袋を取り去った。

 黒く変色し、歪み、壊れたような両手。

 その両手に白い指を絡め、そっと、リィハイは口付けた。

「兄さん」

 呼びかけ。

 指先に口付けて。

「兄さん」

 名を呼んで。

 それを、繰り返す。





「兄さんにずっと会いたかった」


「兄さんの声だけは……ずっと聞こえていたから」


「知ってる? 闇って……底の……ずっと深いところ、全部繋がっているの。

 街の闇も、人の心の闇も、全部全部。

 だから……私はちゃんと知ってる」


「兄さんの心の底。闇の中の声、ちゃんと…聞こえてた」


「兄さんの心は不思議。

 真っ暗で空っぽで……でも、私には優しい。

 私の入る場所、ちゃんと用意してくれているみたい」




 そして、リィハイは笑ってみせる。





「大好き、兄さん」






 ――どうして、気付かなかったのだろう。

    どうして。














  あの狂った父が、

  リィハイをまともな状態になるように育て上げるとは思えない。

  妹の中に潜んだ異形に、何故、気付かなかったのだろう。









 月も星も無い、真闇の夜だった。




 父がリィシェンを呼び出した。

 けだものじみた笑みを浮かべる父の前で、リィシェンは立つ。

 室内には僅かの光。

 ゆらめく、蝋燭がひとつ。



「リィハイと仲良くやっているようだな」

 父の問いかけに頷いた。

 長い年月の隔たりはあるものの、自分たちは兄妹として十分に仲良くやっていっている。

 遠い昔の母との約束の通り、『妹を可愛がっている』。

 心から、大切にしている。




「リィシェン」

 父が呼んだ。



「お前は私が作り上げた我ら一族の最高傑作だ」

 無言。

 父を見る。



「そして、恐らく、リィハイも、お前と同じように素晴らしい完成品だ」

「……」

 同じ、ように?



 脳裏に妹の笑みが浮かんだ。

 闇の中の月のように。白い顔が穏やかな表情を浮かべる。

 その、愛らしい笑み。



 妹は。

 リィハイは、俺とは、違う。




 闇の中でしか生き抜けない、汚れた生き物とは、違う。






「私は」

 父の笑み。

 けだものに等しい。

 汚れた。

 狂った。



「お前たちの子供が見たい」




 その言葉の意味を理解すると同時に、リィシェンは手袋を脱ぎ去っていた。

 露出した右手。鉤爪状に硬直したその手で父の顔面を切り裂く為に、床を蹴っていた。


 異形の右手。黒く変色し、獣のように鉤爪状に曲がった指。そして、指先には金属の爪。

 リィシェンの武器。これがある故に、人に触れることも叶わなかった、殺すためだけの手。




 銃声。


 同時に、部屋の光が消えた。




「がっ……!」


 右肩を打ち抜かれ、リィシェンは背後の壁に激突した。

 左手を肩に当ててみれば、触れて分かるほど肉が削げている。

 右手が動かない。


「リィシェン」

 俯き、呻るリィシェンの頭部に、銃口が押し付けられる。

 ごり、と。

 熱を伴った痛みに、リィシェンは呻く。




「何だ、兄妹と言う事を気にしているのか?

 今更だ。我ら一族に何の禁忌があると言う」




「……リィ、ハイを……」

 リィシェンは顔を上げる。

 銃口。眉間に押し付けられたそれを知らぬように、彼は、父を見る。



「リィハイを……汚したくない」

 


 光。

 闇の中の光のように。

 淡い月光のように。

 唯一の救いのような、あの妹を、己が触れる事で汚したくない。



 この闇の底で、自分のように異形となり、心も身体も腐り果てていく未来を、妹にだけは与えたくない。





 あの子には必ず、光を与える。

 未来を。

 希望を。

 光の、下へ。





 リィシェンの必死の言葉に。


 何故か父は笑った。






「511人」








 そして、その数を呟いた。









 笑み。

 狂ったけだものの、笑み。










「リィハイが、殺した人間の数だ」









「物心が付くより先に、お前と同じように殺しの方法を教えてやったよ。

 闇の底で、一対一で。

 殺しの技を教える人間と、たった二人きりで閉じ込めた。

 勿論、卒業試験は、相手を殺す事だ」




 幼い少女は何度も死に掛けた。

 だが、人の常識を覆し、何度も、彼女は蘇る。




「ちゃんと殺せたら次の相手。

 こいつを殺せたら、さぁ、出してあげよう」




 父が言う。





「会いたいと言っていた、お前の兄さんに会わせてあげよう」







 リィシェンは真正面を見ていた。

 語る父親ではなく、その背後を。






 ゆらり、と。

 長い黒髪がざわめいた。


 真っ白い手が、ゆっくりと、父の頭に伸びる。






 15歳と言う年齢よりも、幾分幼く見える身体。

 白い、細い、綺麗な、手。


 汚れた事など一度もないような、リィシェンが焦がれた、白い、手。

 人を抱き締める事も、人を愛する事も出来るだろう、自分が手に入れられない、その真白い手。






 その手が。







 目の前の父親の頭部に食い込み。







 簡単に、握り潰した。









 紅い血。肉塊。

 飛び散るそれらの向こうで、妹は闇の中の光のように優しく笑う。




 異形。



 人とは異なる、異形。




 人の姿をしていながら、魂は、完全に違う、もの。








「リィハイ」


 名を呼ばれ。

 妹はますます微笑む。


 紅い手を伸ばし、倒れる兄の身体に抱きついた。


 白い身体。

 今は紅く染まった、それ。




 眩暈がするほど、血の匂いに塗れた、柔らかい身体。












「――お前は」

 リィシェンの声は掠れている。




 絶望に。






「お前は――なんだ?」

「……私は、リィハイ。

 兄さんの、妹」






「違う」





 光。

 必ず、希望を、未来を、光を。





 夢は、砕けた。








「お前は、人じゃない」




 闇の底で生きる化け物。

 闇の底で生まれた、異形。






 リィシェンは泣いていた。

 リィハイは戸惑うように笑った。




「兄さん」







「頼む」

 願い。



「俺の妹を……リィハイを……返してくれ」





「……どうして?」

 頼り無い声で少女の姿をした異形が問う。

 両手をリィシェンの頬にあて、笑みを消し、彼女は泣きそうな表情を作った。



「だって、兄さん、いつも私の事、思ってくれていた。

 リィハイ、って何度も、ずっと、呼んでくれた。

 私、兄さんに会いたくて。

 だから、ずっと、ずっと、頑張って」




「人を、殺したのか?」





「そうよ」

 妹は迷わずに答えた。


 何も罪と感じていない。

 故に、穢れながらも白いままで。





 銃で打ち抜かれた右肩。

 右腕の感覚は鈍い。

 それでも、己の意志を総動員し、動かす。

 柔らかい腹部。

 何も守られていない、リィハイの白い腹。



 そこに、金属の爪を持つ己の右手を叩き込んだ。




 肉を裂き、内蔵を潰し、毒を与え。




 リィシェンの右手は、少女の腹部を貫通した。





 兄さん、と、頼り無い声が彼を呼び。

 リィシェンの頬に当てられていた手が、肩に、落ちた。



 動かなくなった柔らかい身体を感じ、リィシェンは空を見上げた。

 闇。

 


 ぴくり、と。

 肩に落ちた手が動く。




「――なにも、ないよ……」

 最期の力を搾り出すように、少女の声。




「にいさんのなか、わたしの……いばしょ……ないよ」









「にい、さ、ん――」




 リィシェンは何かを言いかけ――唇を閉ざす。

 応える言葉など、何処にも無かった。











 気付けば意識を失っていたらしい。

 父の屍体の前で、リィシェンは倒れていた。

 右肩の傷は簡単に手当が施され――そして。





 少女の姿は無かった。







 ふらつく足で彷徨う。

 一族が住まう屋敷の中。

 正気の生存者は彼一人であった。

 

 屍体となったもの。

 発狂したもの。

 虚空を見詰めるだけのもの。




 何があったのか分からない。





「……」

 足を止め、呼ぶべき名を捜す。

 闇の少女に与えられるべき名を。





 リィハイ。




 その名を呼びかけ、口を閉ざす。





 リィシェンは、血塗れの姿のまま、再び、歩き出す。

 










 ……三年の月日が流れた。









 何処かの街。

 汚れた、路地。


 男が一人。

 彼の周囲には幾人かの男たち。

 呻き声。

 呪詛の声に耳を貸さず、男は地面に落ちた白い封筒に手を伸ばす。


 指先が巧く動かないらしい。数度の挑戦でようやく白い封筒を手にした。





 とある格闘大会の参加許可となる招待状。




 その大会で三年前から連続して優勝していると言う黒髪の女。

 何人もの人間を、殺し、壊し、狂わせていると言う、女。





「……」




 殺し損ねた異形の少女。

 妹の肉を纏った、人外のモノ。




 放っておけばいい。

 己は闇に生まれ、闇に生き、闇に死ぬ生き物。

 光の下で人間を殺す存在など、決して交わる事の無い存在。

 気にしなければいい。




 分かっているが。






 リィシェンは動き出す。










 闇の中から、光の下へ、その一歩を、踏み出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る