68・王の死


 父である国王の死が近付いている事は誰に言われなくとも分かっていた。

 父の寝室。その隣室で、王子である少年は膝を抱える。

 騒ぎは既に無い。かすかなざわめきだけだ。

 死は間際まで近付いている。

 誰も少年を見ない。

 それどころではないのだ。

 俯いた少年の傍らに、ふと、その女性は立った。

 少年は俯かせていた顔を上げる。穏やかで優しい美貌の女を見て、ああ、と嬉しそうに笑った。

「サーリィ、来たの?」

「えぇ」

 女はゆっくりと笑った。

 少年は女に再び笑いかける。嬉しそうな笑みは消え――何処か寂しげな。

「でも行くのでしょう?」

「えぇ」

 女はゆっくりと笑うだけだ。

 少年に笑みを向けた女は、顔を上げ隣室を見る。

 王の寝室を見、何も言わずにそちらへ歩を進めた。

 誰にも止められる事無く寝室に入った女の後姿を見詰めていた少年は、やがてため息と共に再び顔を膝に埋めた。







 ――身体の自由が利かない。



 死とは何か、と以前、親しい者たちと語った事があった。

 傍に居たのは四人の人物。

 彼らは彼ららしい言葉を返してくれた。

 

 一人は、「敵に与えるもの」と。

 一人は、「もっとも遠くにあるもの」と。

 一人は、「安らぎ」と。

 一人は、「愛しいものを失う事」と。



 四人。

 この国は決して豊かな国ではない。海に隣している為に人と物資の移動が盛んだ。そのおかげで生き延びてきた交易の国である。

 海に隣したこの国は、幾度と無く戦火に晒されてきた。

 王になってから何度あったろうか。

 

 王としての自分は優秀な王ではないだろう。

 だが幸いにも、彼の周りには優秀な人間が集まった。

 彼らのおかげだ。



 特に、あの四人。

 『四宝』とさえ呼ばれた、四人。



 ――ゆっくりと、彼は目を開いた。



 そこで、気付いた。



 ああ、と彼は笑う。



 自分が横たわる寝台。その周囲を囲む、四つの人影。

 見慣れた、四人の姿。



「――来てくれたのか、お前たち」

 掠れた声が、それでも嬉しそうに四人を呼んだ。





 死は敵に与えるもの。

 そう明言したのは、女だ。

 姫将軍。そんなふたつ名で呼ばれた。

 緑を帯びた黒髪の、整った顔立ちの女。

 幾らでも思い出せる。

 黒い馬を好んだ。鎧は、宝石も花も好まぬ女だがせめてと言わんばかりに美しいものを好んだ。

 武器は槍だ。男でさえも扱うのを戸惑うような巨大な槍を、女のその身で操った。

 女は幼馴染だった。

 女が将軍と成らねば、もしかすると、后の一人に選んだかもしれない。

 彼女も気付いていただろう。

 酒の席で何となく、そういう話になったのを思い出す。

 彼女は笑った。

 優しい笑みだった。

 ――王よ、私はこれで満足なのです。城で王のお帰りをいつかいつかと待つよりも、こうやって王の傍らに常におり、戦えるのですから。

 紅を一度も差した事の無いその顔が、それでもとても美しかった。





 死はもっとも遠くにあるもの。

 そう明言したのは、四人の中でもっとも若い男だ。

 細身の体躯で将と呼ばれるには少々頼り無いぐらいの様子だ。

 だが、戦運びは天才的だった。敗北が確定していた戦が、彼の手腕でいくつ翻されたか。

 明るい性格で、どんな状況でもこちらを盛りたててくれた。

 好ましい性格の男だ。

 戦場から戦場へ。

 幾つもの戦場を渡り歩く彼を気の毒に思えば、彼は明るく笑ったものだ。

 ――なに、この戦が終わったら、たっぷりと褒賞を頂きますよ。それを楽しみにしていれば、戦のひとつやふたつ。

 そうは言うものの、彼に与えられる褒賞の殆どは彼の部下に流れていた筈だ。

 奇妙なぐらい、欲の無い男だった。

 恐らく……彼はこの国が好きだったのだ。

 この国を、守りたかったのだ。





 死は安らぎ。

 そう言ったのは、王が幼い頃から使えている老将だった。

 寡黙な男だ。彼が激高している姿を一度も見た事は無い。何か間違いがあったとしても、理詰め論詰めで静かな声で説得する。そういう性格だった。

 随分と我侭も言った。

 若い頃の無茶の尻拭いも随分とさせた。

 一度も、怒りの表情を見せなかった。

 皺だらけの顔に何の表情も与えず、黙々と王の補佐を行った。

 先の王に聞いていた。

 幼い頃、この男の一族は王に反旗を翻し、まだ赤子だったこの男だけが命を助けられたと。

 それを王の耳に囁き、この男を傍から離すように促すものたちも居た。

 ……初めて王子が生まれた日。この老将に王子を抱かせた。

 ――……有り難うございます。

 老人は掠れた声で礼を述べた。

 彼の己の孫を見るような笑みと――涙に、気付いていたのは王だけだった。





 死は愛しいものを失う事。

 そう言ったのは、他国から亡命してきた軍師だった。

 異国人の妻を連れていた。顔面にまで刺青を施した女。軍師が元居た国では、妻と同じ国の人間は奴隷として結婚が認められていないらしい。

 女と結婚する為だけに、その男は国を捨てたのだ。

 王に仕えるようにとの言葉に、男は短く同意を伝えた。

 だが、「ひとつだけ」と条件を付けられる。

 どんな場所にでも妻を連れて行く事を許してもらえるように、と。

 それだけでいい、と男は言った。

 変わった衣類を纏い、顔と言わず全身刺青の女を不気味に思う者も多かったが、やがて男の深い愛情を理解すれば沈黙を守った。

 男は、心から――本当に心から、女を愛していた。

 ――運命なのです。

 妻との出会いを、そして今の自分の生き様を、男はそう語った。

 己の生まれ故郷である国の軍隊を滅ぼすための策を生み出しながら、男は笑みを持ってそう言ったのだ。






「――あぁ」

 王が短く声を漏らす。

 四人を順番に眺め、笑みを浮かべる。


「来てくれたのか――お前たち」




 ゆっくりと。




「冥府から――私を迎えに来てくれたのだな」





 姫将軍と呼ばれた女は、肺を患い、遠征中の遠い異国で死んだ。

 紅を一度も塗らなかったその唇を、己の血で紅く染めて死んだと言う。


 幾多の戦場を駆けた男は、味方の裏切りに遭い、敵国で拷問の末に殺された。

 常に周囲を気遣っていた彼は、最期まで共に囚われた味方の延命を望んでいたと言う。


 老将は彼を落としいれようとした者たちの手に寄って牢に繋がれた。

 既に王の手によっても助けられない状況の彼は、これでいいのです、と静かに笑って見せた。


 軍師は妻が死ぬと同時に抜け殻のようになって城から消えた。

 最後は妻の墓の前で衰弱死していたと言うが……きっと、彼の心は妻の死と同時に死んでいたのだろう。




 ――王よ。

 幾多の戦場を駆けた男が笑う。

 傷ひとつ無い綺麗な顔。明るく笑い、右手を差し出す。


 ――参りましょう、王。我らはずっとお待ちして居たんですよ?



 その横で老将が頷く。

 穏やかな笑みが、皺だらけの顔に浮かんでいる。

 


 軍師も笑う。抜け殻のようではなく、瞳に理性の色を見せて。

 ――宜しければ、また私をお使い下さいませ。

 笑みを、もっと深めて。

 ――妻も、王にお会いしたいと申しております。



 姫将軍はおずおずと笑った。

 珍しい。化粧をしている。

 死化粧を施してもらっていたのだろうか。そうだとしても、綺麗な化粧だ。

 とても、似合う。

 王が知る女の中で――もっとも綺麗だと思った。



 ――王よ。共に参りましょう?

 姫将軍が言う。

 ――これからは……ずっと、お傍に。





「――あぁ」

 王は頷いた。

 その顔に浮かぶのは、笑み。



「行くぞ――」














 それが王の最後の言葉だった。







 ざわめきが強くなるのを王子は聞く。

 父が死んだのだと理解した。

 王の寝室から、サーリィが出てくる。綺麗な顔は暗く沈んでいる。

「サーリィ」

 王子は立ち上がり、女を迎えた。

 サーリィ。

 綺麗な女。

 いや――女ではなく、獣。

 神獣と呼ばれる、王にだけ仕える伝説の生き物だ。

 王以外にはその姿を見せない。

 だからこそ、誰にも咎められる事無く王の寝室へと入り込んだのだ。

「父上を見送ったの?」

「私は何も」

 サーリィは静かに笑う。「皆様がお迎えにいらっしゃいましたから」

 誰だろう、と王子は問い掛けたかったが、それよりも知りたい事があった。


「行ってしまうの? サーリィ?」

「えぇ、王が居ない場所に神獣が居る場所はございませんので」

「ぼく――」



 ぼくじゃダメ? サーリィ? 次の王はぼくだもの。ぼくが王になるから、傍に居てくれないの?



 その願いはきっと叶えられないのだろう。

 分かっているから何も言わなかった。

 


「ぼく――頑張って良い王になるよ、サーリィ」

「えぇ」

 サーリィは笑う。

 王子の額にそっと唇を寄せて、祝福を。

 綺麗な笑みを王子にだけ向けて。

「お祈り申し上げます、王子。

 また――いつか」

 ゆっくりと、サーリィは動き出す。

 その姿は掠れ――やがて空に溶けた。





 立ち尽くしたまま涙を零す王子を、父の死を哀しんでいるのだと誰もが判断した。








 ――数十年後。



海辺の小さな国は、今もまだ、静かに存在している。

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