41・天使 File.6
赤ん坊の泣き声が聞こえた気がして、アンジェリカはその両腕を伸ばした。
そして、気付く。
己の両腕。
肘から先が失われている事に。
赤ん坊を抱き締める事など出来ない事に。
彼女は絶叫した。
絶叫と共に目覚める。
だが、目覚めと同時に彼女は何もかも忘れている。
己の絶叫の意味も。
己を呼ぶような、赤子の泣き声も。
アンジェリカには両腕が無い。
肘の少し下。そこから両腕は失われ、代わりに精巧な戦闘用義手を愛用している。
腕を失った理由は覚えていない。
ただ、両腕を失った彼女を救い、治療してくれたらしい聖母近衛隊の人々は言う。
アンジェリカは事故で両腕を失い、死に掛けていた。
そこを“聖母”が救ってくれた、と言うのだ。
彼女はそれを信じている。
そして、自分を救ってくれた“聖母”に心からの忠誠を捧げている。
世界に存在する幾つかの都市以外、ほぼすべての国が“聖母”によって管理されている。
“聖母”は機械の女神だ。
はるかな昔、コンピューターに感情を宿らせようとした結果生まれた、人間が生み出した、人間を超えた女神。
アンジェリカは、その“聖母”の手足となって働く近衛隊に属している。
戦闘用の義手で、“聖母”に逆らう愚か者たちを粛清するのが仕事だ。
「機械に支配されては人間は滅びる」などと訳の分からぬ事を言う人間を、“聖母”の名の下に粛清する。
正しい事だ。
“聖母”は何よりも正しい。
“聖母”が全世界を管理している限り、人は栄え、平穏の下に生きる事が出来るだろう。
アンジェリカは、“聖母”に仕える己を誇りに思っている。
だけど。
アンジェリカは過去の記憶が無い。
そして、彼女の過去の記録にアクセスする事も禁じられている。
過去を知りたいとは思うが、“聖母”に禁じられている行為を行う事は、今のアンジェリカには出来ない。
その日の仕事。
違法登録で子を成した親からその赤ん坊を奪い去る仕事。
簡単な仕事だ。
アンジェリカはパートナーを一人連れ、たった二人でそこへ赴く。
母親は赤ん坊を抱き締めて泣き出した。
どうか見逃して欲しいと泣きじゃくる。
だけど、“聖母”を護る騎士たちに何を言っても通じない。
彼らは“聖母”の命令だけに忠実な存在。
人の肉を持つが、心は何処にもない。
“聖母”が神と言うならば、彼らは死を告げる天使だ。
アンジェリカはパートナーは、何の確認も無いまま動いた。
子供を庇い、奪われまいと泣く母親から、パートナーが子供を奪い去ろうとする。
だが、母親は子供を放さない。
パートナーは無表情のまま、銃を抜いた。
母親の肩口に銃を押し当て、何のためらいもなく、引き金を弾いた。
ちくり、と。
アンジェリカの脳内で、何かがざわめく。
床に落ちた赤ん坊。
アンジェリカの足元まで転がってきた。
火が付いたように泣きじゃくる赤ん坊を、アンジェリカは猫の子を掴むように片手で持ち上げた。
登録されていない人間は、その存在を抹消する事。
定められた法律。
「坊や!」
絶叫する母親は、パートナーに押さえつけられ、動けない。
アンジェリカは、金属義手の右手で、赤ん坊の頭を握り締めた。
握り。
「…………」
握り、潰せなかった。
銃が、アンジェリカの手から落ちる。
自由になった手。
その手を使って、アンジェリカは赤ん坊を、金属の両腕で抱き締めた。
「ぼうや」
アンジェリカは、何の感情も無かった瞳から涙を零し、そう、掠れた声で囁いた。
「私の、坊や…」
ちくり、と胸が痛む。
アンジェリカは赤ん坊を両腕で抱き締めたまま、その場に崩れ落ちる。
横に気配。
見上げると、自分と一緒に此処を訪れたパートナーが、アンジェリカを無表情に見下ろしている。
そのパートナーに、アンジェリカは懇願する。
「奪わないで下さい、私のぼうやを」
パートナーは、アンジェリカの額に銃口を押し付けた。
そして、無言のまま、引き金を引いた。
「――在り得ません」
男の声が言った。
「この兵士の過去は、完全に抹消しています。
今更赤ん坊を捜すなど在り得ません」
アンジェリカは男を見る。
何を話しているのだろう。
でも、どうでも良かった。
身体が、ひどく、重く…辛い。
「事実は事実だ」
もう一人の男の声が言う。
左目を貫くような、顔を縦に走る傷跡が印象的な、それ以外が希薄な顔立ちの、若い男。
「もう一度、やっておけよ、全部」
男は、アンジェリカの頭を軽く拳で叩き、言った。
「兵器に感情も過去も要らない」
兵器。
私は、兵器。
「邪魔なだけだ」
アンジェリカは視線を落とす。
両腕の機械義手は外され、空っぽの両腕が見えた。
ふと、思った。
私の両腕は何処へ行ったのだろう。
赤ん坊を抱いた、私の両腕。
暖かく、柔らかく、そして強かった、人の腕は何処へ行ったのだろう。
男たちの会話をぼんやりと聞くアンジェリカの目から、つぅ、と涙が零れ、落ちた。
そして、彼女はもう迷わない。
「“Atoropos”…ですか」
与えられた任務。
小さな水上都市。個人所有のその街の、代表者の抹殺指令。
アンジェリカは何も言わず、ただ頭を下げる。
命令を受け取った意味の礼。
彼女はもう迷わない。
だが。
「………?」
いまだ、闇から赤ん坊が泣く声が聞こえる気がする。
彼女を呼ぶ声が、聞こえる気がする。
「………」
それでも彼女は動き出す。
視線を、冷たい金属の両腕に、一度だけ、落として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます