51・金の支配者

「――あぁ、この先の街道は危ないよ」

「危ないって?」

 少年が軽く首を傾げ尋ねてきた。

 男は笑顔で教えてやる。

「北の王国…トラステが滅んでね。王家の人間が逃げ出したらしい。周囲でその逃げ出した王子だかを捜して大混乱さ。

 下手に近付くと、関係者と間違われてとっつかまるよ」

「ん…」

 少年は少し迷ったような表情を見せたが、すぐに笑った。

「ま、大丈夫。お師匠様と一緒だし」

「お師匠様?」

 男の言葉に、少年は改めて笑みを見せた。

「紅の術師。名前ぐらいは知っているだろう?」

 伝説的な錬金術師の名前を出され、男はぽかんと口を開いた。





 紅の術師。錬金術師にして天才的な魔道師。

 その名は広く世に知れ渡っている。

 不老不死の秘密を得た、唯一の存在。

 数百年の齢を重ね、既にその魔力は神にも匹敵すると言う。

 

 その紅の術師の弟子が、この少年?

 


 男の疑問符に答える事無く、少年はもう一度笑って、その場を後にした。







「――ち、面倒だな…」

 少年は誰も居ない場所に来ると呟く。

 顎に手を当てて頭の中で地図を開いた。

「トラステ……か。

 北に抜けるのは難しくなったな…」

 今の目的地は、大陸の最北端に存在する都市。

 北のトラステを避けると言うのなら、険しい山道を抜けなければならない。

 自分は恐らく大丈夫だが…。

「…じいさんにはちとキツイかな」

 紅の術師は、数百歳の老人だ。その肉体能力は限り無く落ちている。その彼に山越えと言うのは…正直、難しいだろう。

 しかし、山越えをしてもらわなければ仕方が無い。

「…だよな」

 小さく呟いて、待ち合わせ場所の街外れに向かい、駆け出した。






 この二人だけが知る、紅の術師の真実が、あった。






「よぉ、待たせたな」

「……」

 座り込んでいた老人が顔を上げる。

 呼び名の理由となっていた紅い髪も既に失われ、紅い瞳も鈍く淀んでいた。いつ死んでもおかしくないような状態の老人。

 それが、今の紅の術師だ。

 正直に言えば、魔法を唱える事など不可能だろう。

 役立たずの、老人だ。

「山越えするぞ」

「…やまを…?」

「トラステが大騒ぎの最中だとよ。そこを使うのが難しい」

「しかし…」

「安心しろよ」

 少年が笑う。

 瞳を細め、残酷そうに。

「俺もてめぇも死なないんだからよ」

 なぁ、と呼びかけ。

「アーサー?」

 名を呼ばれ、老人は、掠れた声で返した。


「…にいさん」









 紅の術師は不老不死だ。

 その噂は嘘である。

 真に不老不死なのは、この少年。

 紅の術師により、望まぬままに永遠を得た、彼の兄。

 弟が老人になり、愛していた少女が年老い死んでも、彼は少年のまま。

 自殺を試みてもその全てが失敗した。

 首を切り落としても、やがて生き返るのだ。



 己に永遠を与えた弟を束縛し、彼は旅をする。

 望むのは死。

 自分と、そして、弟の。


 それが、紅の術師の真実である。





「さぁ、出発するぞ。いつまでも座ってるんじゃねぇよ」

「…ああ」

 老人は力なく頷き、ふらふらと立ち上がった。












 一方、その頃。





 これから紅の術師たちが向かう山岳に、ふたつの人影が動いていた。

 ひとつは女。20代後半と言う所か。まだ新しさを感じさせる鎧を纏った、切れ長の瞳の女である。

 もうひとつは子供。まだ十をようやく超えたばかりか。

 金髪の少年である。

 子供の脚では山越えは苦しいだろうが、少年は必死に唇を噛み締め、女の後を歩く。

 女は何度も振り返り、少年の様子を確認する。

 本当ならば少年の手を引いて歩きたい。少年を背負って進みたい。

 だが、女の体力も限界に近い。

 少年を背負う事は勿論、手を引く力さえ、無いのだ。

 そして、女の右手には、剣が握られている。

 いざと言う時はこの武器を振るわねばならないのだ。

 その為にも体力は残しておかねばならない。

 故に、少年に何もしてやれない。



「…エリック様」

 名を呼ばれ、少年は顔を上げる。

 瞳の色まで金だ。

 疲労の色が濃いその瞳を見て、女は少しだけ笑みを浮かべた。

 自分も疲れ果てている。弱々しい笑みを浮かべるだけで、精一杯だ。


「少し、休みましょう」

 近くの大木を示す。「あそこで宜しいでしょうか」

「マチルダ、ぼくはまだ大丈夫だよ?」

「夜半に歩くのは危険です」

「……でも」

 少年は背後を振り返る。

 金色の大きな瞳に不安を浮かべ。

「追っ手の人が…追いついちゃうよ」

「大丈夫です」

 マチルダと呼ばれた女は笑みを見せる。

「エリック様が頑張ってくださったので、追っ手も巻けたかと思います」

 嘘だ。

 追っ手は彼らを諦めないだろう。



 トラステ最後の王子……そして、王が『金の支配者』と呼んだこの王子を、決して、諦めないだろう。





 まだ大丈夫と言っていた王子も、地面に腰を下ろした途端、マチルダの腕の中で瞳を閉じた。

 すぐに聞こえてきた寝息。彼女は両腕で小さな王子を抱き締めた。


 神様。

 もう一生、どんな望みも叶わなくても構いません。

 どうか、どうか。

 エリック様を……北の魔法都市にたどり着くまで……お守り下さい。


 マチルダの必死に願いは神に届いたのだろうか。

 分からない。

 それでも、彼女は王子の小さな身体を抱いたまま、祈り続けた。










 眠りに落ちていたらしい。


 かすかな声をマチルダの耳は聞きとめる。

 目覚め、声も出さずに辺りを伺う。

 さほど遠くない距離に…誰かが居る。

「…エリック様」

 眠る王子の耳元に囁く。

 怯え故に眠りが浅かったのか。エリックはすぐさま瞳を開いた。

 瞳に浮かぶのは怯えの色。

「動けますか?」

 賢い王子は声も出さずに頷いた。

 マチルダは王子を立ち上がらせ、そして、そっと動き出した。

 夜。

 遠くに灯りが見える。

 追っ手か。


「マチルダ」


 エリックはマチルダを不安げに見上げる。

 今、彼が頼るのは彼女しか居ない。

 マチルダはそれが分かっている。


 エリックの父親である国王は、マチルダの笑みを見て、言った。

 寂しげに笑う女だ、と。

 

 マチルダは己のそんな笑みを、王子に安心を与えられぬ己の笑みを、心から恨んだ。




「マチルダ、あのね、ぼく――」

「おやめ下さい」

「でも」

「お願いです、エリック様。

 今の私には、エリック様がすべてなのです。どうか、ご自分の身を危険に晒す事はおやめ下さい」

 エリックは沈黙した。

 二人の足は徐々に速くなっていく。

 それでも、遠くの灯りは徐々に近付いてくる気がする。

 


 不意に二人の足が止まる。


「…崖…」


 崖が二人の前に存在していた。

 それ以上、進めない。


「戻って――」

 そう言い、振り返ったマチルダの視線の先に、先程よりもずっと近付いた灯りが見えた。





「マチルダ」

 エリックは小さな声で女の名を呼んだ。

















 男の屍体がひとつ、地面に倒れた。

 屍体を作った人間は、紅の術師の弟子を名乗った少年である。

 彼は今、騎士を名乗る男たちを数人、切り殺した所である。

 数百年の旅を経て、そして、不老不死の身体によって齎される神秘によって、彼の戦闘能力は人には追いつけぬ域に達していた。

「…ちっ…本当に騒がしいな、この辺り…」

 呟きつつ、右手の剣を地面に放り投げる。

 最初の騎士を殴り殺した際に奪った剣は、既に人の脂と血に塗れ、使い物にならない。騎士の紋章が付いた立派な剣だが、こうなってしまえたただの鉄屑だ。

「おい、大丈夫か?」

 自分の背後。木に寄りかかるようにしている老人に声を掛ける。

 戦闘能力の無い老人は、闘いの場になると身を隠すのが常だ。

 老人は軽く頷き、己の無事を少年に示す。



 先ほど、野営をしようと準備をする少年と老人の元へ、鎧を纏った数人の男がやってきた。

 彼らはトラステの第7王子のエリックを捜していると言う。そして、此処に隠していないか、と詰問してきたのだ。

 疑いはすぐに晴れた。紅の術師の名を出せば、疑う者など何処にも居ない。

 だが、逆に厄介事がやってくる。

 その王子を捜すのを手伝え、などと言って来たのだ。

 断られるなど思っていない、貴族の偉そうな顔を見て、少年は…苛々してきた。

 声を荒げて反論すれば、代表らしい男は剣を抜き、少年を切り捨てた。


 そうなってしまえば、結論はひとつ。


 その代表らしい男が隙を見せた瞬間飛び起き、頭蓋を破壊し、剣を奪った。




 あとは、よくある虐殺だ。





 静かになった山の中。

「………?」

 ふと、気付く。

 新たな闘いの音に。


「その王子だかが見つかったのかな」

「…助けに…行かないのか?」

 老人の言葉に、ふん、と少年は笑う。


「今更人助けしても、てめぇの罪は減らねぇよ」

「…分かっている」

 だが。「…トラステの第7王子と言えば、まだ幼い子供だと聞く」

「………」



 少年は少し迷いを見せた。

 闘いの音は近い。



「行くぞ」

 言うなり、少年は歩き出した。










 少しだけ。


 少しだけ時間があれば、とエリックは思う。


 ほんの少しでいい。

 自分を護って闘ってくれるマチルダと、そして、自分に向かっている視線が、ほんの少しの時間、そらせるなら。

 …逸らせるなら、きっと、『それ』が可能だ。


 マチルダの呼吸は荒い。

 エリックは知っている。マチルダは騎士ではない。騎士の家の生まれだとは聞いていたが、騎士ではないのだ。

 相手は正式な騎士。十人近くは居るだろう。

 その彼女が戦い抜けるとは思えない。



 マチルダ。

 エリックは祈る。

 神様、お願いです。

 マチルダを、助けて。











 自分の国が滅んだ時も。父王が処刑された時も。たくさん居た兄や姉たちが処刑された時も。

 何度も、神に祈った。

 しかし神は一度も助けてくれなかった。

 当たり前かもしれない、とその時、エリックは思ったものだ。

 神を冒涜し続けたこの国が、神によって護られる訳が無い。


 それでも。




 祈った。






 神は現れず。






 だが、救いはあった。









 黒い何かが横から飛び出してきた。

 獣か、と思った。

 違う。

 それは、まだ若い少年だった。

 濃い茶色の髪の少年。

 彼は素手で騎士の一人に掴みかかった。

 刃が彼の腕を裂く。左腕が落ちた。

 だが、少年はそれでも右手を動かす。

 騎士の首を捕らえ、右手一本の力で、それを握り潰した。

 紅い血が少年に当たる。

 少年はちらりとエリックを見た。

 紅い瞳と、金色の瞳が、ぶつかった。



 あ、と。



 エリックは掠れた声を漏らす。



 これが救いだ。

 神が遣わしてくれたかどうかは分からない。

 それでも。


 突然現れた少年に、すべての視線が集まっている。



 エリックは祈りの形に手を組んだ。



「――エリック様?!」

 マチルダが叫んだ。

 気付いたのだ。



 だが、すでに遅い。

 肉体に組み込まれた呪いは動き出した。




 エリックの背が裂けた。

 はじけた、としか思えぬ勢いで血肉が広がる。

 その血肉の中から、金色の何かが現れる。

 エリックの血肉を撒き散らし、幼い王子を皮だけにして、そして、その金色の何かは生まれてきた。

 一瞬ごとにその姿は大きくなる。

 最初に出たのは鱗に覆われた背中。丸められたそれがぐぃ、と伸びをするだけで一回り、大きくなった。

 がり、と地面を抉ったのは金色の手。鉤爪を持つ、鱗に覆われた巨大な手。

 血だらけの頭部が持ち上がった。

 蜥蜴に似た、だが、それよりも知的な金色の瞳を有した、魔物の顔。



 轟、と音が響いた。


 金色の魔物がその背の翼を広げたのだ。




 竜。




 竜である。




 人の背丈を優に超える、逞しい体躯のそれ。

 金色の、魔物。





 エリックの肉体はすでに無い。

 金色の魔物は全身を血に塗れさせ、人を見下ろす。

 その知性ある瞳に、殺意を浮かべて。




 鉤爪が振り上げられた。

 咄嗟に後方に飛んだのは、先ほど、突然現れた少年。

 その少年の前に、鉤爪が振り下ろされる。

 逃げ遅れた騎士が二人ばかり、血肉を撒き散らし、砕け散った。



「…へぇ」

 面白そうに少年が笑う。「本物の竜族だな」



「逃げろ!」

 騎士の一人が叫ぶ。「“金の支配者”だ!」

「……ああ、そういう名前なのか、こいつ」

 少年は逃げようとしている騎士を蹴り飛ばす。

 倒れた騎士。重量のある鎧の為、一度転ぶと起き上がるのに時間が掛かる。

 その間に、金色の竜は騎士に死を与えた。




 十数人の騎士に死が齎されるのに、ほんの短い時間だけで事が済んだ。








「エリック様!」

 女が叫んだ。

 全身傷だらけの女は、両腕を広げ、“金の支配者”と呼ばれた竜に呼びかける。

「お願いです、エリック様、戻ってください、早く!!」

 金色の竜は首を傾げた。

 子供のような仕草の後。

 …竜は、頷いたように思えた。






 竜から人への変化は、さきほどの変化よりも短かった。

 竜はぐっと身を縮め、そして、さらに縮んだ。

 縮み……縮み…縮みきり、そこには、丸くなって倒れる少年の姿のみが残った。



「エリック様!」

 女は倒れたエリックに駆け寄り、その身体を両腕で抱き締めた。





「――で」

 紅の術師の弟子である少年は、女に呼びかけた。「…よく分からないけど、説明ってしてもらえる?」








 炎。

 紅い光が揺らめく。

「トラステは…小国です。戦争となれば真っ先に潰される国でした」

 焚き火を囲み、四人が車座に座っている。

 紅の術師、その弟子。

 エリック王子を抱き締めた…マチルダだ。


 マチルダはゆっくりと言葉を綴る。

 眠り続けるエリックの身体を抱き締めたまま。

「国王様はそのトラステを嘆き……力をお求めになられたのです。

 …具体的に言えば…力の強い魔物と、人の合成を行われたのです」

「キメラ…か」

 紅の術師の言葉にマチルダは頷く。


「自分の子供と、魔物を合成しました。

 その成功が…王の子供たちです。

 エリック様は、その12番目の成功です」



「エリック様は…少し特殊でした。

 …あの、黒の術師と名乗られる魔道師をご存知ですか?」

「いや、初めて聞きましたね、お師匠様」

「…あぁ」


「その方は、北の魔法都市からわざわざトラステにいらっしゃいました。

 …ドラゴンの、肉体の破片を持って」



「その方の協力と、ドラゴンの血肉。

 …それから、丁度、王の子を妊娠していた女が居たので…女の腹の中で…ドラゴンと人の合成が行われました」



 エリックの金色の髪を撫で梳く指は優しい。




「合成は成功でした。

 でも…。

 …エリック様は…まだ、3才なのです。

 トラステがあまりにも危険な状態だったので、魔法で…成長を早めたのです。

 その副作用で、エリック様の精神は非常に不安定なものになりました。

 竜に変化するたびに、その心が食い殺される可能性があると……黒の術師は仰いました」



「…私たちは北の魔法都市を目指しています。

 黒の術師にもう一度お会いして、エリック様のその不安定な状況を…どうにか改善したいと…」

「……キメラと言うものは、その段階ですでに不安定だ」

 紅の術師が呟くかのように言う。「新たな魔法を加えれば…どうなるか…分からぬぞ?」

「それでも何もしないよりはずっとマシです!」

 マチルダが叫ぶ。



「私はこの子にずっと何もしてあげられてないのです! せめて、せめて、この子が普通の人間と同じように生きていけるように…、してあげたいのです」

「………」

 沈黙に、マチルダは口を閉ざす。


「…申し訳ありません。声を荒げてしまいました…」

 俯き、マチルダはエリックの身体を改めて抱き締める。

 小さく、エリックは身をねじり、マチルダを名を呼んだ。

 名を呼ばれ、ふっ…と、マチルダは穏やかな笑みを浮かべる。


 その顔は、間違いなく、母の顔であった。












 マチルダとエリックの二人とは…途中で別れた。

 互いに北を目的とする旅。一緒に行動しても良かったのだが、こちら側も敵が多い身。

 厄介な状況になるのがオチだ。



「…あのマチルダとか言う女、エリックってガキの母親だろ?

 なんで自分の子供に様付けして呼んでんだ?」

 二人が消えた道を見送りながら、少年が呟く。

 恐らく、と紅の術師が言う。

「母親とは…認められていないのだろう」

「……ハッ。王家のしきたりとかそういうのか? 訳の分からねぇ話だ」

 



「…にしても、黒の術師か…」

 少年が呟いた。

 少しだけ、笑って。

「何か面白そうな名前を聞いたな…魔法都市、目指してみるか」

「………」

 紅の術師は何も言わない。


 ただもう一度、マチルダとエリックの二人が消えた方向を見詰めた。

 神に祈る資格などないと分かっているが、二人の旅の良き結末を、心から、祈ったのだ。

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