30・さようならを言うよりも


 さようならを言うよりも、ただ抱き寄せて口付けた。





「兵隊さんは誰も帰ってこないらしい」

「全員が全員、死んでしまうんだよ」

「小さな白い箱に入って帰ってくるだけ」




 多くの言葉に彼女は耳を塞がない。

 俺を見たまま、真っ直ぐに、その瞳に笑みを浮かべる。






「この戦争に勝てる訳が無い」

「兵隊さんは死にに行くだけ」

「何が神の国だ」




 誰もが囁く言葉。闇で囁く言葉を彼女も聞いているだろう。






 どうか、と、彼女は言った。





「どうか、ご無事で」





 ご武運をお祈りしています、と、彼女は涙の浮かんだ瞳で微笑んで見せた。








 さようならを言うよりも、俺は、彼女を抱き締め、口付ける。

 何を言うべきだったのだろう。

 何を伝えるべきだったのだろう。






 必ず君の元へ帰ってくるとも誓えず、必ずお国に勝利をもたらすとも言えず。



 ただただ、抱き締めて、口付けた。









 行かないで、の言葉の代わりに、細い細いあどけないぐらいの指先が、俺の服を握り締め、口付けの間、ずっとずっと、すがり付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る