63・水際の龍
素足が柔らかい草を踏んだ。
「………?」
幼い少年は瞬き。
自分のつま先を見詰める。
ゆっくりとした動作でつま先から視線を外し、あたりを見回した。
森。
深い、だが優しく木々が生い茂る森。
鳥の声がする。花の匂いがする。
さほど遠くない場所から水が流れる音がする。
少年は水音に誘われるように歩き出した。
少年の柔らかい足裏を傷つける事無く緑の絨毯は続き、やがて大きな湖に行き当たった。
そして、少年は男を見つける。
湖の端に座り、こちらに背を向けていた。
少年はゆっくりと足音をしのばせ、男に近付く。
だが男は当たり前のように振り返った。
目付きの鋭い、顔色の悪い男だった。
酷く頬がこけている。
その顔を見て、少年は足を止める。
どきり、とした。
父も、兄も。
死ぬ寸前はこんな顔をしていた。
――ふっ、と。
男が笑う。
少年の怯えを感じたように。
いまだ目付きは刃のような鋭さだが、不思議と怖く無かった。
笑みに誘われるように男に近付く。
男は釣りをしていた。
「何が釣れるんだ?」
少年は尋ねる。
男は少年に視線を注いだまま軽く頷き、言った。
「時たま、龍が釣れます」
「龍?」
「えぇ、龍が」
少年はむっと眉をひそめる。
「龍など釣れる訳が無い」
「では賭けますか?」
「私は龍が釣れる方に賭けましょう」
「何を賭けるんだ」
少年は言う。「俺は何も持っていない」
「ならば命を」
男はそう言ってもう一度、笑って見せた。
男の横の岩に腰掛けた。
黙って水面に揺れる浮を見る。
「――何か見えますか、シンリ様」
「……?!」
顔を上げた。
名を呼ばれた事に驚いた。
見覚えの無い男。
男は少年の疑問を知っているだろう。
だが何も言わず、水面を視線で示す。
「此処の水は世界の何処へも通じております。
過去も。今も。未来も」
そして恐らく。
男は笑う。
「真実にも」
ぽちゃん、と。
浮が揺れた。
水面が揺れ、そして、新たに像を結ぶ。
「……ちちうえ」
少年は掠れた声で水面に映った人物を呼ぶ。
少年の声に触れ、水が揺れる。
身体を、指を伸ばした少年が触れるより先に、像は消え、そして新たに。
「……兄上、母上」
「嬉しいでしょう、シンリ様」
男が言う。「もう何年も前にお亡くなりになられた方々に会えるなど、滅多に無い機会ですから」
「………」
少年は伸ばした手を引っ込め、地面に置く。
土に爪を立てる。
「……こんなものを、見せるな」
「はて? どうかされましたか、シンリ様」
「見せるな、と言ってるんだ!!」
「何故に声を荒げられる」
男は心から少年を嘲るような笑みを見せた。
「貴方様のご家族は皆、貴方の叔父上に殺された。
毒を盛られ、病気と言われ、殺された。
それを知っていながら復讐もしない貴方に、何故に怒る理由がある?」
男の言葉に動けなかった。
「知らない、と仰られるのですか?
嘘偽りを口にしないで頂きたい。
貴方は何もかもご存知だ。
貴方の父上の国を望んだ叔父上が、貴方の家族を皆殺しにした事を。
そして、傀儡として貴方を生き長らせ、閉じ込めている事を」
男の言葉は真実だ。
何もかもその通りだ。
自分が幼い頃に両親、そして兄は殺された。
7歳の夏より、自分は城から出ていない。
城の最奥に閉じ込められ、傀儡として飾られるだけ。
「まさか味方が居ないなどと言うのではないな?
貴方が何もせずに閉じこもり、泣いて惨めに暮らしている間に、貴方の父上に従っていた者たちは数多く殺された」
このように、と、男の声に反応し、水が新たな風景を映し出す。
見覚えのある男が、女が、映し出される。
父の部下だった男、優しかった女。
彼らが殺される、風景。
「貴方は何もしない。
だが、何か出来ると言う立場であるのに、何もしないのはそれだけで罪だ。
何もかも知っていながら、何も行動せぬのは、死を持って償うべき罪だ」
ぴくり、と浮が大きく動いた。
「王にならぬ罪。
死を持って償え」
水面。
そこに映った幾重にも重なる像を破壊するように、巨大な何かが飛び出した。
凄まじい音に、衝撃に、少年は無様に地面に転がった。
いつの間にか浮かんだ涙を拭う事も出来ず空を見上げれば、そこに居たのは黒い龍。
男の背後に従うように浮かび、龍は巨大な口を開いた。鋭い牙が並ぶそこの奥は、ただ、ただ、闇。
「喰らい尽くせ」
男の命令。
龍がその身体を伸ばし、少年に向かう。
少年は咄嗟に手を伸ばす。幼い手が龍の牙に触れた。抑え切れるものではない。
だが必死に力を込める。
「――俺に」
声を。
「俺に、何が出来るって言うんだ」
「何も出来ぬと言うなら死ぬがいい」
男は言う。「それですべてが終る」
「お前は」
龍の牙は近い。その牙が、肉に食い込む。
血。
「俺の死を望むのか」
その言葉に。
何故だか男はすぐに返答しなかった。
龍の力もわずかに緩んだ。
「――いいえ」
男の声が言った。
「望んでいない」
声が弱くなる。
「望んでおりません」
更に、弱く。
「待っておりました。この四年間。
貴方が王としての自覚を持たれ、心を強く、立ち上がられる日を」
だが。
「貴方は何もしない。
国は荒れ、民は苦しみ――そして、水も腐り行く。
それを知っていながら、貴方は……泣くだけだ」
気付けば、言葉を話しているのは龍だった。
黒い龍が、その金の両眼から涙を零し、言葉を口にしていた。
男の姿は無い。
いや――と、気付く。
あの男は、この龍だ。
龍が、あの男なのだ。
「どうして、泣く?」
少年は問う。
小さな両手を龍の頬に当て、顔を寄せて。
私は、と龍が言う。
「はるかな昔からこの国を見守り続けておりました。何人もの王に仕え、国と民を守ってきたのです。
だけど新たな王である貴方は、何もしない。
私が守りたい国を守ろうとして下さらない」
龍は金色の瞳を伏せた。
哀しげな、仕草。
この龍に。
何かしてやりたいと思った。
小さな両腕で龍の顔を抱き締める。
到底不可能な動作。それでも必死に、可能な限り、腕を伸ばす。
「俺に何が出来るんだ」
呟き。
問い掛けのような言葉。
「父上も母上も兄上も居ない。味方は誰も居ない」
「俺は、たったひとりだ」
「――私がおります」
龍が言った。
抱き締める腕に身を寄せて。巨大な頭を少年に預ける。
抱擁に身を任せる。
「世界の誰が敵になろうとも、私は、私だけはシンリ様の味方となります」
何があろうとも。
龍はそう続けた。
世界中。
誰が敵になろうとも、たった一人、味方になると。
「その言葉に偽りは無いな?」
「誓いましょう」
龍が言った。
シンリは龍を見る。
「ならば力を貸してくれ。――この国を、叔父上から取り戻す」
はい、と、黒い龍は頷いた。
――その後、歴史書は綴る。
第21代目の王、シンリ。
たった齢12歳にして、後見人として富と権力を好き放題にしていた叔父とその一族、それに連なるものをすべて排除した紅き王。
そして――
数多くの国を滅ぼし、己の国の民まで殺し続けた、愚かなる王。
果ては自分の妻や血の繋がった子供たちまで拷問の末に殺害したと言う、大陸上、もっとも残虐な王。
だが今は、幼い少年は黒い龍に頬を寄せる。
微笑む顔は優しいものだ。
「俺は王になる。叔父上を倒し、国を、民を守ってみせる」
だから、と微笑む。
「もう泣くな、龍。もう泣かなくていいんだぞ」
はい、と。
龍は柔らかな声で頷いた。
これから訪れる未来を、龍も、少年も、今は、知る事は無い。
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