55・狂王
メールの添付ファイル。
差出人不明のそれ。
「お父さん、それ、なに?」
私の問いに父は笑みを見せた。
「何かのプログラムだと思うのだけど……はっきりしないなぁ」
「調べてるの?」
父のパソコン。その手元を覗き込みながら、私は問い掛ける。
父は小さく頷いた。
「何か特殊なプロテクトがしてあるらしくてね、実行されない」
「送ってくる意味ないんじゃないの、それじゃあ」
「だよなぁ」
父は頷き、笑って見せた。
運命さえもを書き換える、プログラムの前で。
妙に月が紅い夜だった。
学校帰りに友達と遊び、帰宅が遅くなった私は、家の前で足を止める。
「……?」
家の明かりが完全に消えていた。
変だ。
夜の8時。父も、母も、妹も、すでに帰宅している筈だ。
首を傾げつつ、私はドアを開く。
「ただいまぁ」
声を張り上げれば静寂が帰ってきた。
真っ暗な家の中、手探りで家を歩き、電気を付ける。
リビングは真っ赤だった。
「――やぁ」
陽気そうな声をかけてきたのは、男。30代の初め、と言う所だろうか。
彼の真横には奇妙な生き物が立っていた。
イメージは巨大な蟷螂。人の背丈ほどもある。
その蟷螂は、全身を黒いうろこで覆われ、その両腕は鋭い刃物になっていた。
その刃物は血で紅くそまっていた。
「君は此処の家のお嬢さん?」
男は明るく言う。
「運が悪かったねぇ。ボクはもう、此処から退散するつもりだったんだけど」
笑う男の足元に。
父が。
母が。
妹が。
倒れていた。
ただの、肉として。
「どうやらお父さんも知らなかったようだけど、一応、君にも聞いておく」
私は叫ぶことも出来ず、男の顔を見た。
「召還の数式を解読出来たのかな?」
「……しょ……?」
「あれはまだ対策方法を作られても困るんだよ。このまま、もう暫く……“主”を増やしてもらわないと。
上からの命令でね……そういう風になったんだよ」
「なに、それぇ」
私は首を左右に振った。
なんなんだろう。
これは、何が起きてるんだろう。
「知らないのか」
男が言った。
なら、と、右手の指を弾く。
「死んでもいいよ」
黒い蟷螂が動いた。
「ひっ……!」
咄嗟に屈み込んだ私の真上を、何かが凄い勢いで通過する。
「やだ、やだやだ!!」
私は駆け出した。
後ろで男が笑った。
駆け込んだのは父の私室。父が書斎として使っているこの部屋には、窓が無い。
馬鹿だ。
どうせなら外に逃げればいいのに。
なんで逃げ場所の無いこの部屋に逃げ込んだのだろう。
ソファをバリケードにして、その場にずるずると座り込んだ。
「……やだよぉ」
何が起きてるの?
「助けてよぉ……」
顔を覆った私の視界の隅に。
光。
「……?」
パソコンだった。
父のパソコンが起動しているのだ。
私は誘われるように近付いた。
メールソフトが起動している。
そして、一通のメールが目に入った。
タイトルも無い、添付ファイルだけの、ウィルスのようなメール。
「……」
私は手を伸ばす。
マウスに手を伸ばし、そのメール開いた。
「助けてよぉ」
私の声。
ディスプレイに映る私の顔は酷く醜い。
涙と鼻水で汚れた顔は、とても。
「ねぇ、誰か」
プログラムを実行する。
それと同時だった。
背後のドアが破壊されたのは。
「ひっ?!」
振り返った私の前に、ゆっくりと黒い蟷螂と男が立つ。
「やぁ、お嬢さん。覚悟は出来たかな?」
男はあくまでも笑顔。
そして、何処か誇らしげに言った。
「“戦士”第二師団第一位『ブラドス』」
「自分が何者に殺されるか、覚えておくのもいいだろう?」
殺される。
私は黒い蟷螂が近付くのをただ見ていた。
不意に。
視界がふさがれる。
真後ろから伸びてきた手が、私の両目を塞いだのだ。
……まうし、ろ?
私の真後ろはパソコンだ。
パソコンから、両腕が、生えていた。
笑う、声がする。
楽しげに囁く、声。
「俺様に命名しろ、“主”よ」
「……めい、めい?」
「名前だ」
「俺の名を宣言し、召還しろよ」
なら、助けてやる。
「く、クロム」
咄嗟に浮かんだ名前を呼ぶ。
「クロム、クロム」
「――クロム、ねぇ」
くく、と若い男の声が笑った。
「悪くねぇな」
「決めた、俺様の力、魂、心、全部纏めてお前に捧げる」
「おい!」
男の声が言った。「ブラドス、何故動かない!」
私の顔から手が離れ、同時に、パソコンからそいつが飛び出した。
「ブラドスやらも分かってるんだよ、自分が適わない相手が目の前に居るってな」
私を守るように立ったのは、せいぜい十代後半と言う青年だった。
細身の身体。ブラドスと比べると酷く頼り無い。
皮製のロングコートを身に纏ったその青年は、私に背を向けている。
そして、肩を震わせ、笑った。
「“主”よ、俺様の宣言を」
宣言?
問おうと口を開いた私の唇が、勝手に言葉をつむぐ。
「――狂王“魔道師”第一師団第一位、『クロム』」
「第一師団……第一位?!」
男が叫んだ。
「まさか、何故、そんな……!」
「うるせぇ」
右手の拳。そこに宝石が輝いているのに気付く。
皮膚に直接埋め込まれているのだ。
紅い宝石。
今夜の月のような。
「俺様の“主”を泣かせた罪、てめぇとてめぇの相棒の生命で償ってもらう」
男が凄まじい悲鳴を上げた。
先ほどまでの余裕が嘘のように、私に背を向け、駆け出す。
逆にブラドスはクロムに向かった。
「よしよし」
クロムは満足げに笑った。
右手の拳に炎を乗せて。
一撃で。
たった一撃で、ブラドスの腹を打ち破った。
その向こう、壁から生えた手に男がとらわれている。
「な、何故……!?」
男がもがく。「呪文も無いのに…何故魔法を…!?」
「あのなぁ」
クロムは呆れたように言った。
「伊達に第一師団の第一位、字付きを名乗ってねぇぜ?
俺の足音、俺の呼吸、俺の鼓動。
全部が全部、呪文になってるんだよ」
クロムが笑みを浮かべると同時に、男が悲鳴を上げた。
壁から生えた手が力を入れたのだ。
「死ねよ、雑魚」
クロムのその言葉が、呪文と言えば呪文だった。
気付けば座り込んでいた私の前に、クロムが跪いた。
初めて正面から見るクロムは、銀髪に浅黒い肌の端正な顔立ちの青年だった。
額に白い石の宝石が嵌まっている以外は、人とまったく同じ存在に見えた。
「“主”よ。
改めて名乗りを」
「俺は“魔道師”第一師団第一位、狂王なる字を持つ魔物」
「……まも、の……?」
「ああ」
そして。
「“主”の忠実なる下僕だ」
クロムは顔を上げた。
笑み。
挑むような、力強い笑みだった。
緑の瞳を細め、笑う。
「急には信じられねぇかもしれないが……まぁ、そういうのだ。
“主”よ、お前を守る為にこれから、俺は存在し続ける」
「……なに、それ」
私は改めて泣きたくなった。
血の匂いが強い。
気持ち悪い。
吐きそうだ。
「訳分からない。
魔物って何? あんた何よ、なんで私の家族が死ななきゃならないのよ」
「……」
クロムは少しだけ困った顔をした。
「やだよ、そんなの、やだ。
返してよ、私の家族返してよ!!」
「“主”よ」
クロムは私に向かって手を伸ばした。
私に触れようとして、そして、慌てて引っ込める。
その引っ込めかけた手を追いかけるように、私はクロムに抱きついた。
クロムの意外にしっかりした胸に、顔を埋める。
「訳分かんない、なんなの、これ、なんなのよ! 全部説明しなさいよ、クロム!!」
「……」
クロムが腕を動かす気配がした。
私を抱き締めようとして、手を戻す。
彼は私に自分から触る事が出来ないようだ。
「己の“主”を殺せないように、許可がなければ、俺様たちは“主”に触れられないんだ」
まずクロムはそう説明をする。
私の心を読んだような説明だった。
「俺様たちが何処から来たのか……それは、俺様たちにも分からねぇや。
気付いたら、真っ暗な場所に閉じ込められてた」
「で、言われるんだよ。
いつか、お前を呼び出してくれる人間が現れる。
外に出たいのなら呼び声に応えよ。呼び声に応え、姿をあらわせ。
ただし、お前はその人間を“主”として、己の生命が尽きるまで仕えなければならない」
実行したプログラム。
あれ、が?
「そう、あれだよ。
あの中に、俺が、居た」
「なぁ、喜べよ。
俺様、最強の四匹の魔物の一匹なんだぜ?
どんなヤツが来たって、全力でお前を守ってやるからさ」
「――守って、くれなくてもいい」
私はクロムの顔を見上げた。
「さっきの男、『もっと“主”を増やしてもらわないと』って言ってた。
それから……『上の命令で』って」
「ねぇ、誰か、貴方たちを作った人間が居るの? 何か目的持って動いてる人が居るの?」
「……」
「私、許せない。
そいつが許せない。
なんで? 何でそんな訳の分からない事で、私の家族が殺されなきゃならないの?
ねぇ、なんで?」
私はクロムを真っ直ぐに見る。
クロムの緑色の瞳に、私が映っていた。
鮮やかに、殺気に染まる瞳の私が。
「復讐して、クロム」
「貴方が最強の魔物って言うなら、私の家族を殺した原因を作ったヤツラ、全員を全員、殺して」
私の願いに。
クロムが。
笑った。
「“主”よ、触れる事をお許しください」
願い、そして、クロムは私の額に口付けた。
「気に入った、お前の願い、すげぇ気に入ったよ」
「約束する。裏に居るヤツラ、全員ぶち殺してやる」
クロムは私の額に自分の額を重ね、笑った。
「“主”の信頼と、この狂王クロムの名に賭けて」
それから、だ。
私は、クロムとずっと一緒に居る。
クロムはあの自信通りにとても強いらしい。
いままで何匹もの魔物と戦ってきたけど、怪我らしい怪我もせず、私たちは旅を続けている。
クロムが戦っている間、私は彼の背後で守られていた。
魔物にとって“主”の存在が力の源であり、傍に存在するだけで己の力を自在に出せるようになるそうだ。
そう言ったクロムは、何処か照れ臭そうだった。
電車。
揺れる車内。私たち以外誰も居ない、場所。
私の横で大イビキのクロムの寝顔を、見る。
私たちの旅はいつまで続くのだろう。
そして、いつになったら復讐は完遂するのだろう。
私たちは、まだ、何も掴んでいない状態だった。
でも。
――不意に。
クロムが鮮やかな緑色の瞳を開く。
「……来た」
そう言って歯を見せ笑うクロムの顔は、これから起こるだろう戦いへの期待に溢れている。
狂王の字の通り。
彼は闘いを好む、狂った王だ。
クロムは立ち上がり、私も立ち上がる。
隣の車両へと繋がるドアから、のっそりと大柄な姿が現れる。
二足歩行する狼、と言った様子の魔物。
その背後に、私と年齢が変わらないような少女が見えた。
少女の顔には、戦いに挑む者独特の表情が宿っている。
私は。
……自然と笑みを浮かべていた。
復讐。
それは確かに私の心の底にある。
でも、でも。
私はクロムと共に過ごす戦いの日々を、楽しんでいた。
クロムの身体。何箇所にも埋め込まれた宝石が輝く。彼の魔力が高まる。
私は高らかに彼の名を叫んだ。
「――狂王“魔道師”第一師団第一位、『クロム』!!」
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