60・鬼姫
目覚めて。
己の世界に誰も居ないと悟った。
***
「ええと……スイマセン、私はたんなる旅のもので……」
男は自分を囲む衛兵たちに引きつった笑顔を向けた。
それもそうだ。
男を囲む衛兵たちは十人ほど。その全員が武器を持っているのだから。
対する男は丸腰。ひょろりとした体躯の若い男である。
衛兵たちは顔を見合わせる。
この男を不審に思いながら、半ば、呆れているのだ。
この小国が隣国に攻め込まれ始めたのは一年ほど前。
そして、この小さな国が負けそうになっているのは、このあたりの人間なら誰もが知っている事だ。
いつ戦に巻き込まれるか分からないのに国に入って来たこの男は、敵国のスパイか、それとも単なる馬鹿者か。
情けない、引きつった笑顔を見て、誰もが後者だろうと納得する。
そこへ一人の衛兵がやってきた。
彼は隊長らしい男に何かを伝える。
途端、隊長の表情が変わる。
号令一斉、衛兵たちの武器を引かせ、いまだ引きつった笑みのままの男に言う。
「我が国の王がお前に会われるそうだ」
「……はぁ?」
引きつった笑みを消し、男は目をまん丸に見開いた。
「お前がその旅の者か?」
国王と面会した翌日、引き合わされたのは赤毛の少女。
男のような物言いだが、可愛らしい顔立ちの少女である。だが、この戦時に相応しく、纏っているのは鎧だが。
「ふむ、噂どおり変わったものだな。
よくその姿で城に入れたものだ」
男は自分の服装を確認する。
旅用の衣類。綺麗とは口が裂けても言えない服装だ。
「旅の者、名は?」
少女が問うた。
男は慌てて答える。
「リン、と申します」
「リンか」
少女が笑う。「私は――皆は鬼姫と呼ぶ」
鬼姫。
噂には聞いていた。この貧しい小国が今まで保たれてきたのは、国王の一人娘である鬼姫と呼ばれる少女のおかげだと。
どんな武人も適わぬ、一騎当千の戦士だと。
「では、リン、道案内を頼むぞ」
「はい」
かしこまりました、とリンは頷いた。
小国の領土外れ。
城とも言えぬ小さな建物。そこへ赴けと父王からの命令に、鬼姫とそして、道案内のリンは向かった。
徒歩で五日ほど。馬を使えぬ山道だ。二人はただ歩く。
「父上もこの戦時に何を考えていらっしゃるのか」
鬼姫が笑う。「母君の肖像画なら城にもあるだろうが」
「出会った最初の頃のものと伺っております」
「そんな大切なものなら、城に置いておけば良かったのに」
「大切なものになればなるほど、手元から遠くに置いておきたい事もあるのですよ」
「しかし……何故に父上はお前を雇う?」
「私は世界を旅しております。旅は慣れたものが傍に居ると安心ですから。僅か五日とは言え、そう思われたのではないのですか?」
「……確かに、普通の人間よりは安心かもしれぬな」
鬼姫は小さくうなずいた。
四日目の夜。
明日の夕方には目的地に着くと言う時。
山の上で、鬼姫は何かに気付いたように振り返った。
眼下。
そこに広がるは、緑に溢れる故郷の風景。
だが一点。紅く染まる箇所がある。
「城が……」
そう四日前に旅立ったばかりの王城が、燃えているのだ。
慌てて駆け出そうとする鬼姫の腕を、リンが引き止める。
見た目以上に強い力に、鬼姫は驚いたように顔を上げ、リンを見た。
リンは臆病そうに笑って、言った。
「このまま国境を越えてお逃げ下さい」
馬鹿な、と呟く鬼姫に、リンは笑ってみせる。
「陛下からのご依頼です」
「……ちちうえ、からの?」
リンは小さな声でとある国の名を呟いた。
この大陸でも有数の軍事国家の名である。
「隣国が先日、この国と同盟を結びました。その力を持ってすれば、間違いなく、この国は荒野となるでしょう。
民の事を考えるのなら、それは避けなければならない事」
「隣国がひとつ、条件を出してきました。それを守るなら、襲うのは城だけにすると」
「……条件?」
「国王と、そして、鬼姫の首を差し出せと」
鬼姫は自分の首に手を当てた。
私の、と、掠れた声が落ちる。
「鬼姫様の首は身代わりを使います。ですから、このままお逃げ下さい。
安全なところまで私がご案内しましょう」
さぁ、と促すリンの手を。
鬼姫は力いっぱい振り解く。
「ふざけるな!」
叫んだ。
「私を誰だと思っている?! 鬼と呼ばれる女だぞ?!
その私が、父を、国を見捨てて逃げられるか!!」
「父上はそれを望まれています」
リンは言う。
「生きて、ただ、生き延びて欲しいと」
「私は望んでいない」
握った拳を真っ直ぐにリンの顔に突きつけて。
「己が望まぬ生など、与えられても嬉しくは無い」
たとえ、それが親から与えられたものだとしても。
リンは。
目の前に少女ではなく炎を見ている気になった。
紅い、燃え盛る。だが、それだからこそ今にも消えそうな、今最も美しい炎を。
「……戻るとしてもどうされます? 城から此処まで歩いて四日。急げば少しは縮まりますが、それでも戦闘は殆ど終了しているでしょうね」
「お前は何か出来ないのか」
鬼姫は至極簡単そうに言った。
リンは僅かに驚愕の表情を浮かべ、鬼姫の顔を見る。
「お前のその四足ならば、私の足よりもずっと早く、城に戻れるのではないか?」
見えて、いるのだ。
――リンを城に呼び出した国王は、少しだけ、笑って見せた。
噂には聞いた、と。
光る獣。神の使いである獣が、この世には存在していると。
リンは問う。
貴方様には私の姿がどのように見えておりますか? と。
王は答える。
光り輝く獣だ。まぶしくてまともに見ている事も叶わない。
リンは言う。
なら貴方様は王にはなるべきではないお方。もうまもなく王の座を追われるでしょう。
本当の王ならば、私の真実の姿を見る事が叶う筈ですから。
王は笑う。
分かっている。この国はもう滅ぶ。私も死ぬだろう。
だが、最後に……最後に、どうしても守りたいものがある。
守りたいものとは?
王が、笑った。
この国と、娘だ。
「鬼姫様は私の姿がどのように見えていらっしゃいますか?」
「鹿か……馬か。全身が光に包まれているが……そのように見える」
リンは息を吐いた。
「貴方も王ではないのですね」
「私は鬼姫だ」
少女は真っ直ぐに答えた。
リンは笑う。
力なく、笑うしかなかった。
「父上との約束を破る事となりますが、分かりました、お運びしましょう」
「すぐ城に戻れるか?」
「この距離ならば刹那の時間で」
リンはその場に跪いた。
「背に」
鬼姫はリンの背に跨る。
途端、リンは人としての自分を失う。そこい居るのは獣だ。四足の……草食の獣である。
獣は地面を蹴った。
「――鬼姫様」
リンはそっと呼びかける。
綺麗な場所だ。
緑は柔らかく周囲を包み、泉は何処までも透き通る。鳥の鳴き声。花の香。
美しい、景色。
そこで、少女は瞳を開く。
力の無い瞳が、リンを探し……諦めたように閉ざされた。
既にその瞳は光を映さない。
「……ここ、は?」
「私の知るもっとも美しい場所です、鬼姫様」
「……ああ」
鬼姫が笑った。「……確かに……綺麗だ……」
「たたかい、は?」
「終わりました。
覚えていらっしゃいますでしょう?
敵陣の真ん中に現れて、単身、突撃なされた己を」
「そうだった」
くすくすと笑う。「お前の背を借りたな」
「えぇ、馬もおりませんでしたので」
「見事な戦いでございました。
鬼姫様が葬った敵の数は、私にも分かりません」
「私も分からない……。
でも……ああ、偉そうな男を斬ったな」
「王の傍護りのようでしたね。強い男でした」
「敵国は混乱していますよ。名だたる者は鬼姫様がほとんど斬ってしまわれましたから」
「滅ぶな……あの国は」
「えぇ、すぐに軍事国家に飲み込まれるでしょう」
「王も死ぬな」
そこで、ふと、思い出したように。
「……父上はどうなった?」
「首を斬られて晒されておりましたが、鬼姫様の戦いの最中、混乱に乗じて城の者が持ち去りました。
……手厚く、葬られたようです」
良かった、と、鬼姫は息を吐いた。
「――リン」
「はい」
「お前は……何者だ?」
「神獣と呼ばれます。
目覚め、王となられる方のお傍にお仕えする獣」
だけど、とリンは言った。
「神獣は、目覚めてすぐ、己の王を悟るそうです。
だけど私は目覚めてすぐに気付きました。この世の何処にも私の王は居ないと」
「……だが、さがしているのだな?」
「えぇ、捜しております。
まだ生まれていらっしゃらないのなら、幾千年も待ちましょう。もうこの世から消えてしまわれたというのなら、その魂が生まれ変わるのを待ちましょう」
「見つかるといいな」
「えぇ」
リンは寂しげに微笑む。
傾げた首でじっと鬼姫の顔を見る。
そっと、囁いた。
「お休みになられましたか、鬼姫様?」
答えは無い。
リンは笑う。
「此処はとても良い場所です。
どうぞごゆっくり休まれて下さい」
リンはゆっくりと身体を起こした。
改めて鬼姫と呼ばれた少女の骸を見る。
全身、血に塗れている。自分自身の血と、返り血だ。
右手が動かなくなっても、左手で剣を握り、敵国一番の戦士を数度の打ち合いで切り倒した。
そして、彼女はもう動けなくなった。
リンはそれを悟り、せいぜい派手に姿を消し、此処へ彼女を連れて来た。
世界は鬼姫に新たな伝説を加えるであろう。
光る獣に乗り、敵陣へと切り込んだ鬼姫の戦いを。そして、光と共に姿を消した鬼姫の伝説を。
リンはもう一度鬼姫に笑いかけ、そして、軽く地を蹴った。
誰も居ない美しい景色の中。
鳥の鳴き声が清く、涼しく、聞こえていた。
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