66・新法


 彼女を殺してから三日目。

 腐臭にはだいぶ慣れたけど、見た目的には彼女は最悪なものへと変化していた。



 浴室。

 俺は腐りきった彼女を浴槽に押し込め、その前に座り込んでいた。

 どうしたらいいんだ。頭を抱える。この三日間、何度も考えた。だが名案など思いつきもしない。

 浮かぶのは後悔ばかりだ。



 悪いのは何だったのだろう。

 あの時、俺はいらいらしていた。

 提出期限が迫っているレポートを纏めるのに必死だって言うのに、俺たちの部屋はクーラーが壊れていたのだ。

 窓は開け放していた。それでも、暑い。

 彼女は団扇片手にテレビを見ていた。

 テレビの音。団扇が風を作る音。

「ねぇ、新しい法律が決まるんだって」

「………」

「最近殺人事件が多いからね。でも日本も狂ってるよねぇ、こんな法律」

 

 五月蝿い。


 繰り返す。

 俺は苛々していた。



「ね、聞いてるの?」

 彼女が振り返る。

 俺はゆっくりと立ち上がっていた。



 何もかもこの女のせいの気がしていた。

 レポートが巧く纏まらないのも。

 部屋が暑いのも。

 こんなに苛々するのも。


 全部、全部。



 気付けば、彼女は足元に屍体となって転がっていた。






 あれから三日。

 俺は彼女の屍体と一緒に過ごしている。




 どうしたらいいんだ、どうしたら。





 その時、かすかな音が聞こえた。

 チャイム。


 誰かが来た。

 俺は浴室の中で身体を硬くする。

 チャイムの音。間違いない、俺の部屋だ。

 


「――お兄ちゃん、居ないの?」

 チャイムの音に混じった聞こえた声。

 妹の声だった。

 そこで俺はふと思い出す。


 近々俺の誕生日だ。年に一回の事、家族で食事でもどうだ、と誘いを掛けてきたのは父親だった。

 やんわりと、今付き合っている彼女も連れて来なさいよ、と母親は笑った。

 

 今はもう屍体の彼女。だけど、生きている時にその話をしたら、彼女は嬉しそうに笑ったものだ。

 父母公認の仲ってなんかカッコいいね、と、無邪気に。



 家族と俺と彼女。

 楽しい誕生日になるだろうな。

 そんな風に思った。



 その日が、今日だ。

 待ち合わせ場所に来ない俺たちを見に来たのだろう。


 

 家族には合鍵を渡してある。

 案の定、ドアが開く音がした。



「うわ……何、これ、臭い……」

 妹の呟きに、俺はもうダメだと頭を抱えなおした。







 浴室のドアの前に、父、母、妹が呆然と立っている。

 俺は座ったまま、三人を見上げていた。

 彼女を殺した事を話した。

 三人はまだ呆然としている。



 どすん、と音を立てて母親が腰を落とした。

 そのまま放心した様子で動かなくなる。

 父親はそんな母親が見えてない様子だ。

 屍体からも視線を逸らし、俺を見ている。

 その中、妹だけが動いた。


「だ、大丈夫だよ、お兄ちゃん!

 新しい法律があるよ!」


 妹の言葉に、両親がぴくり、と動いた。



「……そうか」

「そう、ね」

 二人の呟き。声がひとつになる。



 新しい法律?

 なんだ、それ?



 妹はばたばたと玄関先に駆け出した。

 彼女が持ってきたのは、読みもしなかった新聞。


 新法、の文字が飛び込んできた。



「この殺人、なかった事に出来るよ」

「……どうやって」





「食べるの」




「……は?」

 疑問符を返した俺に、妹は新聞を俺に突きつけながら、ゆっくりと言った。



「あのね、『食べる為の殺人』は殺人として見做されないの。

 そういう法律が出来たんだよ、お兄ちゃん」

「……たべ、る?」

「そう、だから屍体を全部食べれば、お兄ちゃんは殺人者じゃないの、大丈夫!」


 突きつけられた新聞には、妹の言葉がもっと複雑に書いてあった。


 ああ、彼女が言っていた狂った法律ってのはこれの事か。

 確かに狂っている。

 喰えば、無罪?

 そんな馬鹿な。




 俺は浴槽の中を見た。

 クーラーの壊れた室内に三日間放置され、腐りきった彼女。



 これを、喰う?



「殺した人が食べなきゃならないんだよ、頑張って、お兄ちゃん」




 妹が必死の顔で応援の言葉を口にした。

 両親も俺を見ている。





 喰わなきゃ、ならないのか。



 俺は、彼女を見た。



 どろんと淀んだ彼女の目が、笑ったような気がした。



 喰えるものなら喰ってみろ、と言わんばかりに。





 俺は、迷いながらも手を伸ばした。





 腐臭にはだいぶ慣れた。

 味にも、すぐに慣れるかもしれない。

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